第十二話:雨降って地固まる? ~和解への道と再生の灯火~
キラ☆が嵐のように飛び出していった後、第7開発準備室には、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。
床には、彼女が蹴散らしていった雑誌やぬいぐるみが無残に散らばり、まるで竜巻が通り過ぎた後のような有様だ。
富安京一郎は、ドアが閉まる衝撃的な音の残響が消えてもなお、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
激しい怒りの後に訪れたのは、深い疲労感と、そして形容しがたい虚しさだった。
自分の正しさを主張し、相手を論破した(ように見えた)はずなのに、心に残ったのは、勝利感ではなく、むしろ敗北感に近い、重苦しい感情だけだった。
本当に、これでよかったのだろうか? 自分の言葉は、あまりにも鋭すぎたのではないか? キラ☆の涙を浮かべた最後の表情が、脳裏に焼き付いて離れない。
(いや、私は間違っていないはずだ…)京一郎は、自分に言い聞かせようとした。
プロジェクトを危機に陥れたのは、彼女の無責任な行動と、非現実的な要求だ。
自分は、リーダーとして、技術者として、当然言うべきことを言ったまでだ。
そう、正論だったはずだ。
それなのに、なぜ、こんなにも後味が悪いのだろう。
なぜ、胸の奥が、鉛のように重いのだろう。自己正当化の壁が、彼の内側から静かに崩れ始めていた。
「…京一郎さん」
沈黙を破ったのは、ずっと黙って成り行きを見守っていた佐藤涼子だった。
彼女は、床に散らばったぬいぐるみを一つ拾い上げると、静かに京一郎の隣に立った。その表情は、悲しげではあったが、京一郎を責めるような色合いはなかった。
「…すみません、佐藤さん。お見苦しいところを…」
京一郎は、力なく呟いた。
「いいえ…」佐藤は、小さく首を振った。
「私も、何もできませんでしたから…」 彼女は、少し間を置いてから、続けた。
それから、クスっと笑って「最後の方…人格否定で酷いって思いましたけど…オタクとか…」
「え?いや…ははは…オタクですからね…最近はあまりネガティブな意味で使われてないきもしますが」
「それに…あ、ごめんなさい」
「ああ、ドーテーってヤツですか…そうですね。お恥ずかしながらボクはこの歳で女性経験ありません」
「え?」
「あ、セク…ハラかな」
「いえ…ごめんなさい」
「まあ、女性の気持ち…理解するのは学生時代に諦めましたし」
…そんなプライベートの暴露でも、このどうしようもない雰囲気に少しだけ柔らかい雰囲気が出た。
佐藤は自身のプライベートはさすがに語らなかったが、その代わりに本題に戻り、少し言いづらそうにしながらも現場にいた立場で中立に話す。
「京一郎さんの言うことも、よく分かります。技術的な限界、スケジュールのプレッシャー…リーダーとして、当然の指摘だったと思います。…でも」
佐藤は、手に持ったクマのぬいぐるみを見つめながら、静かに言った。
「キラ☆さんにも、彼女なりの、すごく強い想いがあったんだと思います。あの『キラキラ』に、彼女がどれだけこのゲームの成功を託していたか…。それを、頭ごなしに否定されたように感じて、すごく傷ついたんじゃないでしょうか」
「……」
「彼女のやり方は、確かに未熟で、周りを振り回すことも多いです。でも、あの純粋な…『絶対にユーザーを喜ばせたい』っていう気持ちだけは、本物だと思うんです。私たち開発者が見失いがちな、一番大切な部分を、彼女は持っているのかもしれません」
佐藤の言葉は、静かに、しかし確実に、京一郎の心の壁を溶かしていくようだった。純粋な想い。
ユーザーを喜ばせたい気持ち。
それは、技術や論理を追求するあまり、自分がどこかに置き忘れてきてしまったものではないだろうか。
キラ☆の、あの無邪気なまでの熱意は、単なるわがままではなく、ゲームへの、そして未来のプレイヤーへの、不器用な愛情表現だったのかもしれない。
そう考えると、彼女の言葉や行動が、少しだけ違って見えてくる気がした。
「…私は、彼女の気持ちを、理解しようとしていなかったのかもしれません」
京一郎は、ぽつりと呟いた。
「自分の正しさばかりを主張して…」
「…人間ですから、感情的になることもありますよ」
佐藤は、優しく言った。
「でも、このままじゃ、本当にプロジェクトが終わってしまいます。…もう一度、キラ☆さんと話してみませんか? きっと、彼女も、今頃一人で…」
佐藤の言葉に、京一郎は、はっとした。
そうだ。このままではいけない。
プロジェクトのためにも、そして、何より、自分自身のためにも。
彼は、床に散らばったキラ☆の私物…ヒョウ柄のクッション、派手なスマホケース、そして、自分が「癒やし担当」と内心で揶揄したクマのぬいぐるみに目を落とした。
それらは、もはや単なるガラクタではなく、持ち主の不器用な情熱の欠片のように見えた。
※
一方、第7開発準備室を飛び出したキラ☆は、会社の近くにある、お気に入りのカフェの隅で、一人、俯いていた。
スマホの画面には、友人である橘瑠美奈からの着信履歴が何件も表示されているが、直ぐには応答する気になれない。
先ほどの京一郎との口論が、頭の中で何度も再生される。
「幼稚」
「無責任」
「独りよがり」
…京一郎から投げつけられた言葉が、鋭い棘のように心に突き刺さっていた。
(ムカつく…! なんで、あんなこと言われなきゃなんないの…!?)
怒りが込み上げてくる。
しかし、同時に、自分の言動を振り返ると、反省すべき点があったことも、彼女は薄々気づいていた。
SNSでの不用意な投稿。
技術的な困難さを理解しようとせず、自分の理想ばかりを押し付けたこと。
感情的になって、酷い言葉をぶつけてしまったこと…。
(…うちだって、別に、センパイを困らせたかったわけじゃないのに…ただ、どうしても、あのキラキラを実現したかっただけで…あれがあれば、絶対に、みんなが喜んでくれるって思ったから…)
ポロポロと、涙がこぼれ落ちた。
それは、悔し涙であり、そして、自分の不器用さに対する、悲しみの涙でもあった。
心配してくれて連絡を入れてくれているるなちんに、連絡する。
「キラ☆!あんたの投稿で礼のセンパイのプロジェクト?大炎上してんじゃん…何があったか話してみ?ウチが話だけならいくらでも聞いてあげるから…」
「うん、ゴメンね…何とかしたかっただけなんだ」
「分かってるって!キラ☆の感性と推しの方向性、ウチらマジパッションえげつなかったジャン!間違ってないよ!」
「デモさ…センパイ物凄く怒ってた…物凄く頑張ってくれてたのに…」
「あーなんか、ウチも気になってセンパイ?の何だっけ…トミヤスだったかな…メーシ貰ってたからちょっとググってみたんだけどさぁ~なんか、独自エンジンってヤツで業界でもスゴイ人っぽくてさ、なんかインタビュー記事とか沢山出て来たよ~」
「うん、知ってた」
「そっか…まあ、ウチ等イメージで尻軽みたいにみられっけどキラ☆とかしっかり者だしなぁ」
「るなちんヤめてよ…」
「まあ、そんなキラ☆が珍しくネガティブ投稿だもんね…しかしよく燃えたねぇ」
るなちんがあえて茶化して笑いに変えてくれているのが分かる。
「わたし…」
「まあ、ああいう堅物は理屈一辺倒だけど、バカじゃないからちゃんと話したら?」
「わたし、悔しいんだ…」
「怒られたことが…じゃなくて、センパイが負けそうなのが…だろ?」
「…うん」
「じゃあさ、やること分ってんダロ?」
※
その頃、ドリームエンジン社内では、事態を憂慮した人々が、静かに動き始めていた。
高山プロデューサーは、役員会への報告と対応に追われながらも、京一郎とキラ☆の双方に、それとなく「冷静に話し合うように」と伝言を送っていた。
同期の佐々木も、京一郎の憔悴しきった様子を心配し
「何かあったら、いつでも聞くぞ」
と声をかけていた。
そして、五十嵐社長も、娘と、自分が任命したリーダーとの間の深刻な対立を知り、頭を抱えていたという。
しかし、彼らは、直接介入することは避け、当事者同士での解決を見守る姿勢を取っていた。
これは、京一郎とキラ☆が、自分たち自身の力で乗り越えなければならない壁だと、判断したのかもしれない。
※
数時間が経過し、外は既に夕闇に包まれ始めていた。
第7開発準備室で、一人、黙々と後片付けをしていた京一郎のもとに、一本のメッセージが届いた。キラ☆からだった。
『センパイ…さっきは、ごめん。言い過ぎた』
短い、しかし、彼女の精一杯の謝罪の気持ちが込められたメッセージだった。
京一郎は、そのメッセージを数秒間見つめた後、返信を打ち始めた。
指が、わずかに震えている。
『私の方こそ、感情的になって、酷いことを言いました。申し訳ありませんでした。…もし、よろしければ、もう一度、話をさせていただけませんか』
送信ボタンを押す。
すぐに、既読のマークがついた。