第十一話:決裂 ~感情の爆発と孤独
第7開発準備室を取り巻く状況は、まさに八方塞がりだった。
その重苦しい空気は、チームメンバーの精神を確実に蝕んでいた。
特に、楽観的でマイペースに見えたキラ☆も、内心では強い焦りとプレッシャーを感じていたようだ。
競合タイトル『ドリーム☆クローゼット』の情報が出回るにつれて、彼女の言動には、以前にも増して、ある種の切迫感が漂い始めていた。
そして、追い詰められた彼女は、再び、最も避けるべき行動に出てしまった。
※
ある日の深夜。
京一郎も佐藤も既に帰宅し、一人で部屋に残っていたキラ☆は、いつものようにスマホを手に取り、SNSを開いた。
彼女のアカウントには、依然として開発中のゲームに対する期待のコメントが寄せられていたが、同時に、「本当にリリースされるの?」「競合のドリームクローゼットの方が凄そうじゃない?」といった、不安や比較の声も混じり始めていた。
それらの声が、彼女の焦りをさらに掻き立てたのだろう。
彼女は、衝動的に、自身のインスタグラムのストーリーに、一枚の画像と短いテキストを投稿した。
画像は、薄暗い第7開発準備室で、難しい顔をしてPCに向かう(おそらく以前こっそり撮影した)京一郎の後ろ姿。
そして、添えられたテキストは、こうだった。
『開発マジ難航中…センパイもピリピリモードだし正直、間に合うか不安になってきた…ぴえん。でも!絶対絶対、神ゲーにして、みんなに届けるから! うちらのキラキラは、他のゲームなんかに負けないもん! 信じて待ってて! #プロジェクトギャラクシー #諦めない #キラキラしか勝たん』
それは、ファンを安心させたい、そして自分自身を鼓舞したいという気持ちから出た行動だったのかもしれない。
しかし、その投稿は、あまりにも不用意で、そして状況を悪化させるには十分すぎる内容だった。
「#開発難航中」
「#間に合うか不安」
「#センパイもピリピリ」
これらのネガティブな言葉は、彼女の意図とは裏腹に、瞬く間にネット上で拡散され、憶測と不安を煽る火種となったのだ。
『キラ☆ちゃん、大丈夫…? なんかあったの?』
『開発中止の噂、やっぱり本当だったんじゃ…』
『センパイって誰? パワハラ?』
『#キラキラしか勝たん って言ってるけど、競合の方がクオリティ高そう…』
『ドリームエンジン、迷走してない?』
心配の声に混じって、批判的なコメントや、プロジェクトの先行きを危ぶむ声が、急速に広がり始めた。
一部のゴシップ系まとめサイトなどが、この投稿を取り上げ、「人気ギャルモデル・キラ☆が開発現場の内情を暴露!? ドリームエンジン新プロジェクトに暗雲か」といった扇情的な見出しで記事にしたことで、騒ぎはさらに大きくなった。会社の広報部は、問い合わせや批判の電話、メールに対応しきれなくなり、パニック状態に陥った。
当然、その情報は、すぐに高山プロデューサーの耳にも届いた。
広報部からの内線を受けた彼の顔色は、みるみるうちに土気色に変わっていったという。
翌朝、京一郎と佐藤が出社すると、第7開発準備室には、既に高山が仁王立ちになって待っていた。
その表情は、これまでに見たことがないほど険しく、部屋の空気は氷のように冷え切っていた。
キラ☆は、まだ出社していない。
「京一郎君、佐藤君、ちょっと来てくれたまえ」
高山の声は、低く、怒りを抑え込んでいるのが分かった。
京一郎と佐藤は、黙って彼の前に立つ。
「…昨夜、五十嵐さん…いや、キラ☆君が、SNSに何を投稿したか、知っているかね?」
高山は、タブレット端末を取り出し、問題の投稿と、それに対するネット上の反応、そしてまとめサイトの記事などを、二人に突きつけた。
京一郎は、その内容を見て、血の気が引くのを感じた。佐藤も、息をのんでいる。
「広報部は、昨夜から対応に追われ、パンク寸前だ。会社の株価にも、僅かだが影響が出始めている。…これが、どういうことか分かるかね?」
高山は、二人を交互に睨みつけながら、静かに、しかし強い口調で続けた。
「役員会からは、一ヶ月以内に成果を出せなければプロジェクトは凍結だと言われている。競合は、既に我々のはるか先を行っている。
そんな、崖っぷちの状況で、この騒ぎだ…! 一体、どう責任を取るつもりだね?」
京一郎も佐藤も、返す言葉がなかった。
キラ☆の単独行動とはいえ、チームとして管理監督責任を問われても仕方がない状況だった。
「…申し訳、ありません…」
京一郎は、かろうじてそれだけを口にした。
「謝って済む問題ではない!」
高山は、声を荒げた。
「そもそも! なぜ、こんな状況になっていると思っているんだ!? スケジュールが遅延し、プロジェクトが暗礁に乗り上げている根本的な原因は、君たち二人の、あの不毛な対立にあるんじゃないのかね!?」
高山の怒りの矛先は、明確に、まだこの場にいないキラ☆と、そして目の前にいる京一郎に向けられていた。
「富安君! 君は技術的な正論ばかりを振りかざし、彼女の…いや、このプロジェクトの持つ可能性を、最初から否定しようとしていたんじゃないのかね!? 彼女の感性を理解し、それを最大限に活かす努力を、本当にしてきたのか!?」
「…っ!」
京一郎は、高山の言葉に、ぐっと胸を突かれたような衝撃を受けた。
否定したい。
自分は、技術者として、客観的な事実に基づき、リスクを指摘してきただけだ、と。
しかし、心のどこかで、高山の指摘が、完全な的外れではないことも、分かっていた。
ギャルという存在への、無意識の偏見や軽視が、自分の中になかったとは、言い切れなかった。
「そして、キラ☆君だ!」高山は、まるでそこにキラ☆がいるかのように、語気を強めた。
「彼女は彼女で、自分の理想ばかりを追い求め、技術的な現実や、チーム全体の状況を全く顧みようとしない! その無責任な言動が、どれだけ周囲を振り回し、プロジェクトを危機に陥れているか、自覚がない!」
高山の言葉は、厳しく、そして痛烈だった。
彼は、中間管理職として、そしてこのプロジェクトの責任者として、溜まりに溜まったストレスと怒りを、ついに爆発させていた。
「このままでは、プロジェクトは確実に潰れるぞ! それは、君たち二人のせいだ! いい加減に目を覚ませ!」
高山は、そう言い放つと、荒い息をつきながら、部屋を出ていった。
残された京一郎と佐藤は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
部屋を、重く、苦しい沈黙が支配していた。
その、最悪のタイミングで、第7開発準備室のドアが、軽い音を立てて開いた。
キラ☆だった。
彼女は、いつものように、やや寝不足そうな顔で
「おはよーございまーす…って、あれ? なんか、空気重くない?」
と、呑気に言いながら入ってきた。
その瞬間、京一郎の中で、これまで必死に抑え込んできた感情のダムが、ついに決壊した。
高山にぶつけられた怒り、プロジェクトが破綻しかけている焦り、そして、目の前の、この状況の元凶とも言える存在に対する、積もり積もった苛立ち。
それら全てが、一気に噴出した。
「キラ☆さんッ!!」
京一郎は、自分でも驚くほど大きな声で、キラ☆の名前を叫んでいた。
キラ☆は、突然の大声に、ビクッと肩を震わせ、目を丸くしている。
「な、なに…? センパイ、どうしたの…?」
「どうしたもこうしたもありません! あなたは、自分が何をしたのか、分かっているんですか!?」
京一郎は、高山が見せたタブレットを、キラ☆の目の前に突きつけた。
「あなたの、あの軽率なSNS投稿のせいで、プロジェクトは今、最大の危機に瀕しているんですよ!?」
キラ☆は、ネット上の批判的なコメントや記事を見て、さすがに事の重大さに気づいたのか、顔色を変えた。
「ご、ごめん…そんなつもりじゃ…ただ、ちょっと、不安になっちゃって…」
「不安だからといって、何をしても許されると思っているんですか!? あなたの行動は、あまりにも無責任で、幼稚だ!」
「なっ…! 幼稚って、何よ!」
キラ☆も、非難されたことで、カッとなったようだ。
「センパイだって、いっつもカタいことばっか言って、全然うちの気持ち、分かろうとしないじゃん!」
「気持ち…? あなたの言う『気持ち』とやらのために、プロジェクト全体を危険に晒していいとでも!? 大体、全ての元凶は、あなたの、あの実現不可能な『キラキラ機能』への固執にあるんですよ! あれさえなければ、スケジュールだって…!」
「なによ! あのキラキラが、このゲームの命なんでしょ!? それを、センパイがヘボいから、ちゃんと実装できないだけじゃん!」
「ヘボい…だって!?」
京一郎は、その言葉に、カッと頭に血が上った。
技術者としてのプライドを、根底から侮辱された。
「あなたのような、技術の『ぎ』の字も知らない素人に、何が分かるんですか! 私は、この会社で、誰よりも高度な技術を持っているという自負がある! あなたの無茶な要求に応えようと、どれだけ私が苦労してきたと思っているんですか!」
「知らないよ、そんなの! 大体、センパイは、最初からやる気なかったんでしょ! どうせギャルゲーなんてって、うちらのこと、見下してた! そうなんでしょ!?」
「見下してなどいません! ただ、客観的な事実と、技術的な限界を指摘してきただけです! あなたこそ、少しは現実を見て、自分の理想が、いかに非現実的で、独りよがりなものか、自覚すべきだ!」
「独りよがり!? ひどい! !独りよがりはどっち?この三十路ドーテーサイテー!!」
「な…!!それは今関係ない話ですよね…結構です! 私も、あなたのような、無責任で、話の通じない人間とは、これ以上、一緒に仕事をするのは御免です!」
二人の口論は、もはや、プロジェクトの内容を超え、互いの人格や能力を否定し合う、感情的な罵り合いへと発展していた。
互いに、これまで溜め込んできた不満や誤解、そして心の奥底にあった相手への不信感を、剥き出しの言葉でぶつけ合っていた。
「センパイ女子の気持ちもキラ☆のことも、興味ないフリして技術者って偉ぶって男としての自信ないクセに!」
「人生をエンジニアリングに捧げて何が悪い?!ボクはコレに賭けているんだ!」
「そういうのがダサイって言ってるんじゃん!」
「ダサイ?!結果を出すために全てを絞って行動することの何処が?!」
「理屈で固めて乙女の気持ちを、キラ☆の個人を見ないのがダサイ!」
「我儘なギャルを理解するのはフェルマーの最終定理より難しいよ」
「そうやって自分の世界に閉じこもってろオタク!」
「京一郎さん! キラ☆さん! お二人とも、落ち着いてください!」
佐藤が、青ざめた顔で、必死に二人の間に割って入ろうとする。
しかし、怒りと興奮で我を忘れている二人には、その声は届かない。
「うるさい! センパイなんて、大っ嫌いだ!」
キラ☆は、目に涙を溜めながら、叫んだ。
「もう、こんなチーム、辞めてやる! 二度と、センパイの顔なんか見たくない!」
そう言うと、彼女は、自分の私物が散乱したテーブルを乱暴に蹴散らし、第7開発準備室を飛び出していった。
ドアが、バタン!と大きな音を立てて閉まる。
後に残されたのは、呆然と立ち尽くす京一郎と佐藤、そして、床に散らばったキラ☆の持ち物と、修復不可能なほどに破壊されてしまったチームの関係性だった。
京一郎は、荒い息をつきながら、その場に立ち尽くしていた。
怒りの矛先を失い、アドレナリンが引いていくと、代わりに、深い疲労感と、そして、形容しがたいほどの虚しさが、彼の心を支配し始めた。
自分の正しさを主張したはずだ。
間違ったことは言っていないはずだ。
それなのに、なぜ、こんなにも心が空っぽなのだろうか。
なぜ、勝利感ではなく、敗北感だけが残るのだろうか。
隣を見ると、佐藤が、言葉を失い、ただ床の一点を見つめていた。彼女の表情には、深い失望と、悲しみの色が浮かんでいる。
第7開発準備室には、重く、冷たい沈黙だけが支配していた。
それは、プロジェクトの終わりを告げる、弔いの鐘の音のようにも聞こえた。
京一郎は、自分が立っている場所が、崖っぷちではなく、既に奈落の底へと墜ちてしまったのだということを、悟った。
彼のエンジニア人生において、これほどまでの絶望を感じたことは、かつてなかった。