週末の声
静まり返った事務所に、カタカタとキーボードの音だけが響く。
時計の針は、定時をゆうに過ぎていた。
「……ん、だる……」
肩に手を当てて小さく息をついた湊は、そっと背もたれに体を預ける。
書類の山は片付ききらないまま、ぼんやりとパソコンのモニターを眺める。
ここ数日、喉の痛みと微熱が抜けず、朝からずっと体が重い。
けれど――
「これくらい、誰でもやってることだろ」と、自分に言い聞かせるのが癖になっていた。
その時、スマホが震えた。
ちらりと画面をのぞけば、見慣れた名前。
「葵」
――学生時代からの友人。いや、ただの「友人」だったはず。
> 『今日、早く帰れた?』
> 『声、聞いてないから、気になって』
> 『夜、少しだけでも話せない?』
湊は、短く息を吐いた。
まったく。何年経っても、気づかれてしまう。
「……こっちは、気づかれたくなかったのにな」
返信を打つ指が、一瞬止まる。
でも――打った。
> 『まだ会社。声、ちょっと出ないかも』
> 『でも、話だけなら、少し』
送信を押すと、間もなく着信が鳴った。
音ではなく、バイブレーションのみの着信。彼なりの気遣いだった。
ビデオ通話を取ると、すぐに優しい声が響いた。
「……湊、声が出ないなら、オレだけ喋るから。な?」
頷く湊。
ビデオ通話越しに、ざわざわとした街の音と景色が見える。たぶん、帰り道だ。
「今日、夕方の空、見た? すげぇ綺麗だったんだよ。紫と青の間みたいな色でさ。湊、好きそうだなって思って――」
画面越しに見る彼は、いつも飄々として、眩しいくらいに明るい。
けれど、その言葉の端々には、確かに湊を見ているまなざしがあった。
「無理すんなよ。って言っても、するの分かってるけどさ」
「……でもさ。湊、ちゃんとしんどいって言ってもいいんだよ」
胸の奥に、じんわり何かが滲んでくる。
(――そんな簡単に、言えたら苦労しないんだよ)
言葉にはならないけれど、その想いごとスマホ越しに伝えられた気がした。
会話が終わる頃には、湊の顔には少しだけ、力が戻っていた。
コーヒーのカップに、まだ少し温もりが残っている。
「……ありがと」
声にならない声で、彼はそう口にした。
翌朝、スマホには一通のメッセージが届いていた。
> 『熱、上がってたら病院な。マスクと水分も忘れずに。』
> 『あと、週末――会いに行っていい?』
湊は画面を見つめたまま、少しだけ頬を赤らめた。