振り返ればヤツガラス
翌日の土曜日。
杏が目を覚ましたのは、まだ朝の空気がひんやりと澄んでいる時間だった。
寝癖のまま洗面所で顔を洗い、ふらりとリビングに出る。
部屋は薄暗い。
カーテンがぴたりと閉じられ、光を拒むように部屋を覆っていた。
部屋の端の方でレイネが丸まって座っている。
なんだろう、この状態。
杏は面喰った。
「おはよう。カーテン、開けないの?」
杏がいつも通り声をかける。
「お、おはよう。カ、カーテンは……開けない方がいいと思うの」
レイネは小さく肩を震わせた。
「なんで?」
特に気に留めることもなく、杏はひょいとカーテンに手をかけた。
引き金を引いたように光が差し込み、部屋を一瞬で満たす。
杏は「いい日差しだよ」と笑いかけながら──次の瞬間、息を呑んだ。
バルコニーの手すりに、一羽の大きなカラスが止まっている。
翼は漆黒に濡れ、朝の光を鈍く吸い込んでいる。
その瞳は黒曜石のように硬質で、真っ直ぐこちらを射抜いていた。
その姿に杏は一瞬、気圧される。
「すごい、デカッ。レイネ見て! 結構おっきいよ」
杏は、驚きと興奮が混ざった声で呼びかけた。
だがレイネは、そちらを一瞥もしない。
丸まったまま顔も上げず、引きつったような声を上げる。
「か、カラスなんて……いないんじゃないかな? 見間違いだよ、うふふ」
「うわー、このカラス、めっちゃこっち見てる」
「見てない、見てない」
レイネは慌てて立ち上がる。
カーテンの裏に隠れるようにしながら、それを閉めようとする。
その手が布を掴んだ瞬間──。
「──お嬢様!」
カラスの嘴から、人間の言葉が流れ出した。
低くよく通る声だった。
「見て見ぬふりは良くありません。レイネお嬢様」
杏は思考が一瞬止まる。
──カラスがしゃべった?
すごーい。
なんだろう?
カラスがしゃべった事に、驚かない自分に驚きー。
レイネが来てからいろいろ有りすぎて。
昨日までの出来事が積み重なりすぎて。
もはや「しゃべるカラス」くらいでは常識の範囲かもー。
カラスは首を傾げ、今度は杏を真っ直ぐに見据えた。
「そこの娘よ。戸を開けてくれぬか」
「開けちゃダメー!」
レイネが、ほとんど悲鳴に近い声を上げた。
「えっ……?」
杏は戸惑いながらレイネとカラスを見比べる。
カラスは、嘴を小さく鳴らし、不快を示すように声を荒げた。
「力ずくになりますよ、お嬢様」
その一言に、レイネのビクっとし表情から血の気が引いたようだった。
肩を落とし、観念したように視線を逸らす。
「……開けてください」
震える声は、諦めの響きを帯びていた。
* * *
リビングの空気は、どこか異様だった。
ソファには、ちんまり座るレイネ。
その正面に、黒々とした40センチはある大ガラスが、テーブルの上に乗る。
レイネをじっと見ている。
杏は剥いた桃を並べる。
所在無いが、とりあえず空いているソファに座った。
背中を丸め、俯くレイネ。
──めっちゃレイネ、ちっちゃくなってる……
杏は内心でつぶやいた。
レイネは、普段の溌溂さはない。
今にも消えてしまいそうに肩を縮めている。
カラスは、冷ややかな視線をレイネに向けた。
「言いたいことは、わかりますね」
低くて通る声。
「……はい」
レイネは、小さな声で答えた。
「よろしい。では、帰りますよ」
「えー」
レイネは抵抗の声を上げた。
「えー」
カラスはすぐさま口調を真似る。
その反応の速さ。
しかも、馬鹿にするよう半音上げている。
杏は吹き出しそうになるのを必死でこらえた。
「まったく。”えー”じゃありません。帰ります」
そのカラスはしれっと言った。
「も、もうちょっと、いてもいいと思うんだよね……」
レイネの声はまだ若干震えている。
「ほら、ジュチも気に入ると思うし──」
レイネは苦し紛れにそう言うと、苦虫を嚙み潰したような顔をする。
その表情はまさに”しまった。余計なことを言った”という後悔。
案の定、カラスは翼を震わせ、鋭い声を放つ。
「気に入る? そんな悠長なことを言っている場合でも、立場でもないでしょう。我々がどんなに──」
苛烈な説教が始まるかと思われた、そのとき。
レイネが咄嗟に、桃の切れ端をひょいっと摘み、カラスの口に放り込んだ。
嘴がぱくりと閉じ、もぐもぐと動く。
沈黙。
「……うまいな、これ」
数秒後、カラスはぽつりと呟いた。
「でしょ? もっと食べて。ほら、わたしのもあげるから」
「お、おい……」杏が止める間もなく、レイネは自分の分まで差し出す。
「……では、遠慮なく」
カラスは意外なほど器用に嘴を使い、次々と桃をついばんでいく。
場の緊張が一気に和らいだ。
レイネは胸を撫で下ろし、杏も思わず苦笑いする。
──カラスって……桃で買収できるんだ
そんな考えが頭をよぎったとき、杏は改めてハッとした。
「あの、えっと」
意を決して声を上げる。
「落ち着いたみたいだから、そろそろ説明してくれない? わたし、ずっと置いてけぼりなんだけど」
レイネは、慌てて杏に向き直った。
「……そうね。本当に、ごめんね」




