永遠の近いと、未来への思い
──レイネが、本当に出ていった。
小鳥遊杏は、リビングの床で寝そべっていた。
「出ていけ異世界人!」
叫んだ自分の声が、まだ耳に残っている。
寝冷えネコ蔵は、もう静かに横たわっている。
──全部、レイネのせいだ
余計なことを言わなければ、こんなことにはならなかった。
”期待しすぎない方がいいよ”
私が悪いわけ?
私が騙されたんだよ。
なのに。なんで、気持ちを理解してくれない。
裏切り者……
部屋には、冷蔵庫の稼働音が響くだけだった。
やがて床の固さに負け、体が痛くなってきた。
のっそりと起き上がると、部屋に戻る。
ばさっとベッドに倒れ込んだ。
──私の人生、なんなんだろう
まともなパートナーには恵まれない。
友人は結婚して遠ざかる。
男に逃げられ、金も尽き、運まで消えて。
冷蔵庫から出てきた異世界人に振り回される。
私の人生、返してよ……
* * *
昼を過ぎても、ベッドから動かなかった。
レイネも帰ってこない。
やがて空腹に負け、リビングへ。
冷蔵庫を開ける。
整然と並んだタッパー。
作り置き煮浸しや筑前煮。ちょっとしたおかず。
自分だけだったら、そろっていない数々。
冷たいまま口に運ぶと、出汁の深い味わいが広がった。
一通り食べ終わると、今更ながらメイクを落とす。
散らかったリビングに戻る。
割れたグラスを拾い集め、床をふく。
寝冷えネコ蔵を拾いあげ、ソファに置いた。
テーブルには、レイネの作業道具が残っている。
作りかけも含めグラスソルトがいくつか並んでいた。
そのうちのひとつを手に取る。
緑をベースに、黄色の菜の花が描かれている。
”あーちゃんと行った蕪嶋神社の菜の花”
レイネの笑顔と声が甦る。
杏はその場に座り込む。
──どうして私は、私を大切にしてくれる人に、きつく当たってしまうの。
涙が止まらなかった。
やがて枯れるまで泣き続け、ただそのグラスを抱きしめる。
結局、関係を壊したのは、自分だった。
薙ぎ払ったグラスのように。
* * *
落ち着いてくると、杏はレイネの部屋を覗く。
誰もいないはずの部屋に人影を感じ、息を呑む。
──人体骨格標本?
「ペティちゃんって呼んでたっけ……」
部屋の中には、化粧品や模型、本がずらりと並んでいる。
整えられたベッドの端に腰を下ろした。
「──ん?」
手を置いたところに異物感を感じる。
なんだろう……
手にしてみると、丸まった靴下の片方。
対になるもう一足は見当たらない。
「なんで?」
その片方を持ちながら廊下に戻り、スマホを手にする。
──もう、戻ってこないのかな……
レイネとの位置情報共有を確認した。
めぐるぐると読み込みアイコンが表示される。
そして、位置が示される。
そこは杏のマンションと重なった。
ドキリとする。
帰ってきた?なんて声かける?
そう頭によぎるが、すぐに現実に引き戻される。
リビングに置きっぱなしのレイネのスマホが有ったではないか……
杏は、靴下を洗濯籠に入れる。
自分の部屋に戻り、またベッドに潜った。
──ほんとに戻ってきたら、なんて声かければいいのよ……
* * *
翌朝。
レイネはまだ帰ってこない。
杏は身支度をすると玄関に立つ。
「行ってきます」
返事の返ってこない空間に、その声は吸い込まれた。
出社すると独り席で作業を進める。
余計なことは考えず、余計な会話もせず。
午後、杏は研修だった。
苦手意識を持っていたキャリアプラン研修。
会社の推奨もあり、自ら受講を希望した。
過去のプロジェクトを棚卸。
自分の強みや弱みを機械的に洗い出す。
そこから未来を描く──そんな内容。
──これ、レイネが言ってたことじゃない
「過ごしてきた時間を、経験としてどう活かすかだと思うよ」
その声を思い出す。
そして十和田湖での言葉も。
「きっとね、どんな境遇でも、傷ついた上で反省して、それを活かせる人と、傷ついて終わる人がいる。杏は、きっと前者だよ。大丈夫だよ」
ごめん。私、前者じゃなかった。
杏はそう思った。
* * *
杏が帰宅すると、玄関には揃えられたサンダルがある。
──帰ってきた?
鼓動を抑えられない。
怖い。
いなかったら? いたら何を言えばいい?
「ただいま」
小さな声で、リビングに入る。
「おかえりなさい」
キッチンに居たレイネが応える。
いつも通りの声。
嬉しそうな笑み。
「今日はね、チヌ……クロダイのお刺身。それからマサバの味噌煮! 二匹釣れたから、マサバサバ!」
どこ行ってたのよ。
出かかった言葉を必死に抑える。
どれだけ心配したのか。本当に出ていくなんて信じられない!
──私が言いたいのは……言うべき事はそうじゃない。
杏は深々と頭を下げた。
「昨日は、ごめんなさい。レイネが悪いわけじゃないのに、一方的に怒って」
「私こそ、ごめんなさい。杏の気持ちを考えてなくて」
レイネの気遣う言葉が痛い半面、やはり心地いい。
「レイネは悪くない。……気遣ってくれていたのに。ありがとう。そして、ごめんなさい」
涙声になる杏の頬を、レイネがそっと拭う。
「そんなに謝らなくていいよ」
いつものように、レイネは何でも無い事のように受け流す。
「あーもう、私ってネチネチしてて嫌ね」
杏は自嘲の笑みを作る。
「鯖食べて、サバサバしよう」
レイネは笑い、杏の手を取った。
引かれるままに歩き出し──けれど、杏は足を止めた。
レイネが振り返る。
「どしたの?」
杏はぽつりと口にする。
「やっぱり、レイネがいないとだめ」
そして、縋るようにレイネに抱き付く。
「今日ね、会社の研修で、レイネが前に言ってくれたことと同じことをやったの。
ずっと私のために言葉を選んでくれてたんだって、やっと気づいた。
あなたはいつも、私のことを考えてくれてた」
杏は続けた。
「……誰かが、あなたがいないと、寂しくて、おかしくなりそう。
ケンジのことでもう懲りた。傷つくのが怖い。
だから──ずっと一緒にいて」
震える声の杏を、レイネは優しく撫でた。
「わかったよ、あーちゃん。ずっとあなたの傍にいる」
その一言で、杏の心は安堵に満たされていく。
けれど奥底で、あの占い師の声が響く。
「重要なのは、その存在ではなく、あなたの“判断”です。あなたの選択が、その存在の未来をも左右します」
──これでいいんだ。
柔らかな胸の温かさ。
もう二度と離れたくない。
そう願うあまり、杏は耳を塞いでしまう。
「物事を広く、深く見つめなさい。
軽はずみな願いは、大きな代償を伴うこともあります」
その言葉を振り払うように、杏はさらに強く、レイネにしがみついた。




