【希望の定義】
レイネと菊は、他愛もない話を続けていた。
子どものこと。孫のこと。
ぬか漬けのコツ。
「もうやってないけど、昔は書道の先生だったの」
「書道の、せんせ?」
レイネは反芻する。
「そうよ」
菊は肯定し、あの御神木を見つめながら言った。
「でも、またやってみても、いいかしらね」
「あら、噂をすれば──」
菊は近づいてくる人影に気付く。
そこには、白髪まじりの男性。
にこやかな笑みを浮かべている。
「先生、こんなところで何してるんだい?」
菊の教え子で、シゲさんと呼ばれている。
何か用事が無くても、今も顔を出しているらしい。
菊がそう教えてくれた。
彼のその目は、涙で目を腫らしチュッパチャプスを咥えるレイネに止まる。
「どうしたんだい、この子は?」
「お友達と喧嘩したそうなのよ」
菊が答える。
「若いねぇ」
シゲさんは、少し嬉しそうに目を細めた。
──いや、おじさんより長く生きてますけど。
レイネは心の中だけで呟く。
シゲさんは、レイネの隣にどっかと腰を下ろした。
「で、原因はなんだい?」
レイネがかいつまんで話すと、彼は頷き、言った。
「そう簡単に解決はしねぇけどな……まずは気分転換だ。釣りでも行くか?」
「また釣り? ほんと、この人は何でも釣りなのよ」
菊が呆れ顔で笑う。
だがレイネの目が輝いた。
「釣り! 行く! 行きたい! 大好きなんです!」
「いいねぇ。海か? 川か?」
「川です。ルアーで! でも道具はこっちに来てから無くて……」
レイネの答えに、シゲさんは、さらに顔を綻ばせた。
「海なら今夜どうだ? 道具は貸してやる」
「はい。行きます!」
立ち上がり、シゲさんの手を取る。
レイネはその場で、釣り!釣り!と、ぴょんぴょん跳ねた。
「──ところで、レイネちゃんよ?」
「はいっ!」
「それは、豚か?」
レイネが跳ねるたびに、ゆさゆさ揺れる横に伸びた熊柄ジャージ。
「これは、クマちゃんです」
レイネは口を膨らませた後、笑った。
* * *
その夜。
護岸にレイネはいた。
夜釣りに来たのはシゲさん、そして奥さんのマツさんだった。
あれから杏のマンションには戻っていない。
一度帰ろうとしたレイネを、シゲさん夫婦は止めた。
「ひとりにさせる時間も必要よ」
その一言に、レイネも頷いた。
ゆらゆらと揺れる海面。
月と街の明かりが不規則に反射する。
夜なのに、どこも明るいなぁ。
レイネの心は踊る。
竿も糸も針も、作りの精度が違う。
リールなんて初めてだ。
ひとつひとつの説明を真剣に聞くレイネ。
「のみ込みがいいね」
シゲさんは目を細めた
「孫娘ができたみたい」
マツさんも嬉しそうに言う。
準備が整い、糸を垂らす。
浮きが波に揺れた。
「ゴカイ、平気なんだな」
シゲさんが感心する。
「ワームは自分で掘ったりしてましたから。生餌なんて余裕です」
「生餌担当は、この子ね」
マツさんが笑うと、レイネも照れくさそうに頷いた。
大したもんだ、とシゲさんが言う。
「でも、結構彼氏にひかれますね──釣り教えてくれたの彼ですけど」
「お。彼氏いるんだ?」
「テヘヘ、聞いちゃいます?勝手にしゃべりますけど」
レイネは楽しそうに話し出した。
「結構、年上なんですよ。
レイネの村だと一番年下が私で、それでも年が近いのが彼で──。
包容力あるっていうか、まぁ子供扱いされてるんでしょうね。
でもそれが気持ちいいんですけどね」
浮きがゆらめく。
思い出し笑いをしながらレイネは続けた。
「ただ、みんなしてレイネを子供扱いするんですよ。小さな頃、肥溜めに落ちたときの話なんて、いまだにされます」
「おっちょこちょいなんだ?」
マツさんが笑う。
「後先考えないですね。水たまりを飛び越えようとして落ちるタイプです。……さすがに今はやらないですよ。横断歩道で白だけ踏むとか、そのくらい」
「毎日楽しそうだな」
シゲさんが言う。
「はい。私の国はこっちに比べると物騒ですけど、楽しかったです。こっちも楽しいですけどね」
レイネは竿を揺らしながら、ぽつりと続けた。
「でも、ちょっとしくじりました」
「その、杏て子かい?」
「そうですね。あんなに怒るとは思わなかった」
波にまだまだ浮きは揺れる。
普段から感情の振れ幅が大きいな、とは思っていました。
いつも人の評価に自分を委ねている感じで。
私の国にはあまりいないタイプ……こっちの人の特徴なのかと考えていましたけど、菊さんやシゲさん、マツさんを見てると、やっぱり違う。
どうして杏は、自分がやってきた事を受け入れないんだろう。
だから繰り返すし、必要としてくれる何かを求め続ける事になるのに。
浮きは波に揺れ続ける。
シゲさんが海を見ながら口を開いた。
「浮きを見てる間は、余計な声は聞こえてこねぇ。若い子らには、そういう静かな時間が足りねぇのかもしれねぇな。テレビやSNSの雑音が多すぎるじゃねぇか」
「雑音、ですか。あーちゃん、スマホやテレビばっかり見てますし」
レイネは心の中で“それか漫画か、推しのライブ映像”と付け加えた。
「若いうちは追いかけたくなるもんが多いからな。静かに向き合う時間が、釣りがあるとできるんだけどなぁ」
「また釣り?」
マツさんとレイネの声が重なる。
シゲさんは気にせず続けた。
「そりゃ周りのキラキラしたものだけ見てたら、自信なんか育たねぇよ」
それにな、俺らの時代は高度経済成長期で共通成功要因があったけど、いまは無いだろ。
社会的にも難しいだろうな。
浮きを見ているシゲさんは、そう言った。
──高度成長期?
もう少しこの世界の成り立ちや歴史を知らないと、分らないことだらけだとレイネは思った。
「シゲさんって、仲違いしたときって、どうしてました?」
「理由によるよ。あとは、時間が解決したりだな」
「時間か……」
レイネは言葉を反芻した。
「で、レイネちゃんはどう思ってる?」
「……本質的には優しいと思うんですよ。ちょっとズレてるけど」
レイネは、思い出し笑いをこらえながら続けた。
「私を旅行に連れていくために懸賞で当てようとしてたり。努力の仕方、違うーって。ほんとあの時どうしようかと思いました」
それでも高揚した声は小さくなる。
「他にも、いろいろあって楽しかった。でも、やっぱりどこか届いていないというか、届かないというか。なかなか思いは通じないですね」
浮きが静かに揺れ続ける。
「どうしてあげるのが、いいのかなぁ……」
レイネは呟いた。
「なぁレイネちゃん。人は変われると思うか?」
「人によります……ね」
「一生かけても他人を変えることは出来ないかもしれない」
シゲさんは次の言葉をためらうように間をおいた。
「自分の未来をどう過ごしたいかだよ。短い人生だ。その時間を割くほどのことかどうか、考えた方がいい」
「でも、レイネが離れて行ったらあーちゃん寂しくないですか。大丈夫かな?」
「そりゃ、淋しいただろ。ただそういう人は誰かいてもいなくても、寂しいもんだ」
レイネは返す言葉を見つけられず、ただ浮きを見つめた。
「前を向いて歩いているとき、離れてしまう関係もあるさ──親子の縁でも、友人関係でも。何よりも、過ぎた時間は戻らないぞ」
シゲさんは竿を振りなおした。
「それでもな、オジさんは思うんよ」
胸張って生きて。
笑って生きて。
若い人たちに希望を感じてもらえるような大人にならないとなって。
大人が暗い顔してちゃ、若い人たちが将来に希望なんて描けないだろう?
だから、笑って生きられる選択をしないといけない。
「シゲさん、良いこと言う」
レイネはそう言うといたずらっぽく続けた。
「レイネ、いつかは結婚するの。だから、お手本見せて。希望を見せて」
「え?どういこと?」
素っ頓狂な声をシゲさんが上げる。
「奥さんと仲いい所みたい。ちゅーって。若者に希望を」
「バカ言え!」
シゲさんは恥ずかしそうにそう言った。
レイネは「仲良しさんなところ見たい」と、シゲさんを肘でつつきながら思った。
短い人生だ。その時間を割くほどの物かどうか。
シゲさんのその言葉をレイネは反芻しながらも、ひとつの思いが頭によぎる。
──時間なんていくらでもあるしな、と。
シゲさんが言うような「短い人生」を、自分は歩んでいない。
けれど、杏は違う。
彼女は限りある時間を、誰かに託している。
もし、杏が「笑って生きられる選択」ができないのだとしたら。
もし、自分という存在が、彼女の笑顔を支えられるのだとしたら。
人間の一生なんて、自分にとって一瞬だ。
レイネは、再び竿を握り思い直した。
”そう。時間なら、いくらでもある”




