とっくに人類は滅んでいる
「スマホ、置いてきちゃったな」
レイネはひとり呟いた。
慌てて飛び出してきたせいで、何も持っていない。
財布も、十一次元ポーチも。
──あるのは、ジャージとサンダルだけ。
どうしよう。帰ろうかな。
そんなことを考えながら、レイネは公園へ向かった。
子どもたちの声が響く。
その喧騒を、ベンチに腰掛けた老婆が静かに見つめていた。
「お久しぶりです。隣、いいですか?」
声を掛けると、老婆は柔らかに微笑んだ。
「どうぞ。しばらくぶりね」
レイネはそっと腰を下ろす。
二人の間に沈黙が落ちる。
遊ぶ子どもたちの笑い声。
ときおり聞こえる鳥の鳴き声。
風が、二人の間を抜けていった。
やがて、レイネは口を開く。
「少し……話してもいいですか」
「あらたまって。どうしたの?」
うつむきながら、ぽつりと言った。
「わかっているつもりでしたが、やってしまいました」
友人を怒らせてしまった──そう、呟いた。
「あらまぁ」
老婆はそれ以上促すことなく、静かに待っている。
レイネは言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
誰しも、触れてほしくないことがあると、わかっているつもりでした。
正しいことを言ったところで、その人を、かえって傷つけることがある事も。
どうしたらいいのか、わからない。
言葉って、不便ですね。
苦笑まじりにそう言った。
老婆は穏やかな声音で応える。
「そうね。言葉ひとつで傷ついたり、傷つけたり。
良かれと思っても、受け取る側の準備ができていないと……どうしてもね」
レイネの視界が、涙でにじむ。
「もどかしくて、憂鬱です。どうしたらいいのだろう」
暗い顔のままの問いかけに、老婆の声音は変わらない。
「この歳になって振り返るとね……どうしても分かり合えない人もいるの。
『仕方なかった』と思えることもあれば、『ああすればよかった』と悔やむこともある。
でもね、すべてが上手くいく人生なんて、ないのよ」
「ありがとうございます」
レイネは礼を言い、ふと気づいた。
「──ええっと」
言いよどむと、老婆が笑みを浮かべる。
「菊よ。小林菊。下の名前で呼ばれることが多いかしらね。呼んでくれた人たちは、もう先に逝ってしまったけれど」
「すみません。レイネと呼んでください」
「レイネさんね」
はい、と頷くとレイネは続けた。
菊さんの言葉はわかるんです。
すべてが上手くいくことなんてない。
受け取る側の準備ができていないと伝わらない。
それは、わかっているんですけど、もの凄く切ないです。
『だれかや他人』を変えることができないもどかしさがあって、すごく切ないです。
他人なので、いつかは別れが来て、いつかは思い出に変わる。
今もこの感情も、思い出に変わる。
そうとわかっているんですが、割り切れない。
すごく切ない。
「大切な人なのね」
「はい。この国に来て初めてできた友人ですし。しかも、私より年下で……そんな相手は初めてで」
レイネは少し、考える。
異世界のことをそのまま語るわけにはいかない。
──少し、脚色して話そう。
足元を歩いている蟻を見つめながらレイネは言った。
私の故郷は、三百人もいない小さな村でした。
私が生まれるまで、ずっと子どもがいなくて。
今でも、その村では、私が最後の子供です。
周りを見て育った私は、要領もよく、それなりに何でもこなせると思っていました。
だから、自分より年端のいかない人であれば、多少なりとも導いてあげることができるとも思っていました。
でも、駄目ですね、慢心です。
完全に慢心でした。
今は、何をしたらいいかが分からない。
菊はそっとハンカチを差し出す。
「ありがとうございます」
レイネは溢れてくる涙を拭った。
ハンカチからは、淡い白檀の匂いがする。
「つらいでしょうね」
レイネは静かに続ける。
人は短い時間しか生きられないせいか、答えを急いでしまう。
それがかえって遠回りなのに。
短いのに、他人との関係に苦しんで、描いている自分自身との関係にも苦しんで。
生きていくのが苦しいんじゃないかって思ってしまう。
そして、それを感じてしまう。
でも、私が変えてあげられることは何もない。
「──菊さんはこの世界で、どんな思いで生きてこられたんですか?」
レイネの問いに、菊はゆっくりと答えた。
「前にも言ったかしらね。振り返ってみれば、素敵な人生よ。
傷つくこともあったし、誰かを殺したくなるほど憎んだこともある。
戦後の生活は苦しかったしね。
それでも──やっぱり、生きてこそよ」
言葉を刻むように語り、最後に微笑んだ。
「それに、人生がそんなに悪いものなら、人類なんて、とっくに滅んでいるわよ」
菊はレイネの手を取った。
小さく、枯れ枝のように冷たい手。
それでも優しさを感じる。
「あなたといるとね」
菊はレイネに向かって言った。
「なんだか元気になるのよ。女神様と一緒にいるようでね。だから、そんなにめそめそしないでね」
そう言って、菊は小さな袋を取り出した。
「ほら、飴ちゃん。あげる」
取り出したのはチュッパチャプスだった。
「孫が大好きでね、買い置きしているんだけど、『おばあちゃん、もうそんな年じゃない』って怒られちゃうの」
二人は顔を見合わせ、声をひそめて笑いあった。
飴を口に含み、レイネはつぶやく。
「糖分が足りなかったのかな……」
口いっぱいに広がる甘み。
涙の塩味が返って、その甘さがいっそう愛おしく感じる。
「そういえば、お孫さんはおいくつなんですか?」
「もう三十歳を超えたかしらね」
「それは、たしかに”もうそんな年じゃない”ですね」
レイネはそう言って、また静かに笑った。




