【魔空空間】走れ32歳SE!!。ハイヒールで峠を越えよ。
小鳥遊杏、三十二歳。
ソフトウェア開発会社の横浜支部に勤めるSE。
Python、C系、SQLを一通り扱え、設計から顧客折衝までこなせるが、プロジェクトマネジメントや要件定義は苦手分野。
そんな彼女が今襲い掛かるこの現象を、次のように名付けた。
『レイネ不足』
正式名称:レイネが不足していて、ふがふが匂いを嗅ぎたい症候群。
ミッション:可及的速やかに、レイネの匂いふがふがを嗅ぐ。
そう、杏はいま、その真っ只中だった。
ただひたすらにレイネに会いたい。
匂いを嗅ぎ、レイネで満たされたい。
──一刻も早く帰宅せねば。ASAP、アズスーンアズポッシブルっ!
「電車の中で走ったら、早く着くかしら!」
もはや思考は迷走している。
杏は思った。
もはや、恥ずかしがってなどおれぬ。
必ず、純情可憐なレイネで満たさなければならぬと決意した。
杏にはサバサバなどは分からぬ。
杏は一介のSEである。設計書を書き、プログラミングで暮して来た。
電車を降り、マンションまで小走りに進む。
なぜ、こんな日にハイヒールを履いてしまったのか。
立ちふさがる坂道。
襲い掛かる普段の運動不足。
それでもなお、杏は走った。
路行く人を押しのけ、跳はねとばし※実際は、避けてます。
メロスは黒い風のように走った。
若いメロスは、つらかった。
幾度か、立ちどまりそうになった。
えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。
杏は、焦る心を押さえつけ、急いでマンションのエレベーターに乗り込んだ。
行き先階のボタンを連打する。
押してはキャンセルし、押してはキャンセルを繰り返す。
「もう!どうなってるのよ!」
杏は激怒した。
「あ、連打してキャンセルしてたのか。落ち着け、杏」
勇者《杏》は、ひどく赤面した。
「整え。整うのだ」
杏は、一人でそう呟くと、呼吸を整える。
エレベーターはゆっくりと7階へ上がる。
いつもよりその動きが遅く感じる。
これこそが『相対性理論』だ。
そしてエレベーターの扉が開くなり、自宅のドアを乱暴に開け放った。
* * *
その頃、レイネはリビングでアニメを見ていた。
「あー、うちの陣営にフリーレン欲しいなー」
フリーレンだけに、フリーレンタルしたい。てへへ。
などと言いながら、まとめサイトも同時にチェックしていた。
そこへ──ドタドタと轟音。玄関の扉が弾け飛ぶ勢いで開き、足音が迫る。
──縮地!?
レイネがそんな無駄な想像をした直後。
「ただいまッ!」と杏が飛び込んできた。
「わぁっ、どうしたのあーちゃん?」
驚くレイネに抱きつき、杏は叫ぶ。
「レイネ、ちょっとだけ我慢して!」
首元に顔をうずめ、ふがふがと三、四回、深呼吸。
「……落ち着いた」
ようやく杏は顔を上げた。
「キャラ変わってない? どした?」
きょとんとするレイネ。
杏は重々しく言った。
「例のサバサバ会……」
まるで杏の口からは邪気が吐かれているようだった。
サバト会だったんじゃないかとレイネは思った。
「あー、あの──」
レイネは杏に教えてもらったキャッチフレーズを言う。
「さわやかな風のように
ばらばらに見えても
ささえ合う私たち
ばく進する未来を
会話で彩る集い。
通称、サバサバ会。
今朝、楽しそうに出かけて行ったじゃない?」
杏は、レイネの言葉に、眉をひそめた。
「そう。今朝までは──」
その視線は遥かかなた。
遠いイスカンダルを見ているかのようだった。
「行ってみたら、何なのあれ? なんていうの、ねちねち会っていうか……」
杏は思案し、こう答えた。
「ささくれ立つ心を
ばらまくように語り
さげすむ視線と
ばりぞうごんでみたし、孤独を
会い紛らわす宴──
だったわ。ああ、なんて言えばいいの?こことは違う空間」
「魔空空間?」
レイネは、真面目な顔で、そう尋ねた。
しかし、杏に余裕はなかった。
「もう聞いてよ、聞いてくれなくても、勝手にしゃべるけど」
華麗なるスルー。
レイネは、アニメを止める。
「はい。どうぞ」と杏に向き合った。
「あーもー、何から話そう。口が一つなのが悔しい。優先順位が決められない」
レイネは、そんな杏を見て、微笑んだ。
「まずは、杏が気にしていた、キャリアの話から」
「キャリア?キャリアの話なんて、全然なくて…」
■レイネによるまとめ(抜粋)
キャリア談義なし。主に自慢話とマウント合戦。
参加者六名(杏含む)。
謎のざまぁ自慢:間違った見積を出し、顧客に上司が怒られざまぁと思った。
謎の恋愛談義:不倫継続報告、マチアプ年下男性攻略、合コン戦歴
趣味関連:海外旅行マウント、イケメントレーナー自慢(うちのジムの方がイケメンよ!というマウント合戦……)
最終的な結論:「私たちは自由を謳歌し、自立している」
おまけ:帰り道が途中まで一緒だった人が、占地さんを「ジメジメしてるから、シメジって呼んでいるの」とか、「あの人サバサバとか自分で言っちゃって、ねちねち全開じゃない?あなたもそう思わない?」など。
熱い手のひら返しで、火傷しそうになった。
「そんな感じで、引きずり込もうとしてきたので、慌てて帰ってきたのよ」
杏は、一通り話し終え、ようやく冷静さを取り戻したようだ。
「もう。何なのよ」
杏は、ワイングラスに赤ワインを注いだ。
「せめてもの戦利品で、ビオワインもらってきたから、飲も」
レイネは杏の言葉に、にこりと微笑んだ。
「こういうとき、『るねっさーんす!』っていうの?」
「言わない」
杏は、きっぱりとそう言った。
「わー、あーちゃんこわーい」と茶化しながら、ワインを一口飲んだ。
だが、すぐに首をかしげる。
「どうしたの?」
「こっちに来て初めて、向こうのほうが美味しいって思った。このワイン、熟成感、全くないね」
レイネは、まだ見ぬサバサバ会のメンバーを思いながら、そう言った。




