目を開けて、しっかり見るの。そうすれば怖くない
目を閉じて。
これから起こることは、お姉ちゃんとの秘密よ──
知らない女の人が声をかけてきた。
しゃがみ込み、視線を合わせてくる。
透き通った緑の瞳がきらきらと輝く。
その人が優しい微笑みを浮かべると、体の中がふんわりと暖かくなる。
言われるがままに目を閉じた。
春先の柔らかな日差しは遮断され、暗い世界になる。
視覚がなくなり、その分聴覚が研ぎ澄まされたその瞬間。
つんざくような──静寂。
風の音も。
木々がざわめく音も。
人の声も。
すべての音が動かなくなる。
「目を開けて」
鳥のさえずりのような透き通った声が聞こえる。
まぶたをゆっくり開けると世界は止まっていた。
父親も母親も、まわりの全ての人たちが、同じ形で留まっている。
羽ばたいていた鳥。
舞い散る花びら。
空の雲まで、すべて動いてない。
空気までぴたっと固まってるみたいで、息をするのもためらった。
「……え?」
自分の言葉がやけに大きく響く。
「いま、私とあなただけの時間。——行こう」
ふわっと抱き上げられ、宙を舞うと桟橋を越える。
花びらが浮かぶ水面に、ゆっくりと彼女は降り立つ。
敷き詰められた桜色の水面に波紋が広がった。
「……乗ってる! お水の上に!」
「自分の足で立ってごらん」
彼女と手を繋ぎ、水面に降り立つ。
足先が着くと波紋が広がる。
足の裏がやわらかくて、心が弾む。
ちょっと押すと「ぽよん」って返ってくる。
おもしろくなって、もう一歩、もう一歩。
そしたら笑いが止まらなくなって、思い切りジャンプした。
「トランポリンだ」
思いっきり跳ねあがると彼女が両脇を抱き、くるっと回してくれる。
桜色の世界がぐるぐるまわって、笑い声が広い空に吸い込まれていった。
「空飛んでるみたい!」
「じゃあ、本当に飛んじゃおうか」
そう言って、彼女はいたずらっぽい笑顔を浮かべる。
ぎゅんっと重力を感じる。
気付くと、ほんとうに飛び上がっていた。
足が地面から離れて、風が頬をなでていく。
ふわふわと浮かぶ雲が体を横切る。
ひんやりとした感覚。
小さく、遠くなった地面。
父も母も、豆粒より小さく見える。
──高い。怖いっ……
ぎゅっと目をつぶり、彼女の手を握る力を強くする。
その手だけが頼りだった。
宙に放り出された感覚。
どこにも足がつかない浮いている。
ドキドキと脈打ち、不安と恐怖が一杯になる。
「目を開けて、しっかり見るの」
透明感のあるあの声が、胸の奥に届く。
「足元がおぼつかないと怖いけど、しっかり見れば怖くない」
促されうっすらと目を開ける。
どこまでも広がる青い空。
揺蕩う雲。
握る手の先に、白い髪を靡かせる彼女。
「ほらみて、桜が輝いている」
眼下に広がる弘前城と桜の並木。
堀には一面の花びらが流れている。
それらは春の日差しの中で、きらきらと揺らめく。
「怖いことがあって、辛いことがあっても」と、静かに語りかけるよう彼女は言った。
「──あなたたちには、叶えるすべてがこの世界にはある」
自分たちがまるでひとひらの花びらのように空を舞う。
やがて、ゆっくり地面に降り立つ。
父と母と兄弟と、元居た場所だ。
この時間が始まったその場所に戻ると、彼女の手が肩に置かれる。
変わらず透き通った緑の瞳が語りかけてくる。
「もう一度、目を閉じて」
心が躍る中、言われた通りに目を閉じる。
再びやってくる暗い世界。
思い出したかのように、耳に、音が戻ってくる。
人々の声。
風の音。
木々がざわめく音。
そして聞こえてきた彼女の声。
『さぁ、目を開けて』




