【弘前公園】七輪咲きの夢
杏とレイネは、花筏の上にかかる赤い橋の上で足を止めていた。
「ありがとう」と繰り返したレイネの声が、杏の胸にじんわりと沁みる。
「どういたしまして。来られてよかったね」
「うん、すごく綺麗」
桜を見上げるレイネの瞳は赤みを帯び、うるんでいるようにも見える。
杏もつられて見上げ、「きれいだね」と相槌を打った。
「泣きそう」
レイネが小さくつぶやく。
杏の世界はすごいよね──。
レイネは続けた。
昔の人が未来を思って紡ぎ、積み重ねてきた結果が、今この光景なんだろう。
自分は決して見ることのない未来を、それでも信じて託す気持ちと、それを受け継いでいく意思は、どれほどのものか。
満開の桜を見上げたレイネは「まいったな、涙でぼやけちゃうよ」と言った。
「見たいのに、もっと見たいのに。涙が邪魔をする」
その声は少し震えていた。
「本当に羨ましい」
レイネの言葉に、杏は返す言葉を探せなかったが、「羨ましい」という響きが自分のことのように嬉しかった。
気持ちが少し浮き立ち、杏も桜を見上げる。
──あ、あれって…。
「レイネ、見て!」
「ほぇ?」
「あれ、七輪咲きじゃない?」
「おぉー、すごーい」
杏の指先の向こう側、寄り添うように七輪の花が咲いている。
「見た夢が叶うらしいよ?」
そう言って杏は『どんな夢をみたい?』と聞いた。
「夢か……あーちゃんは?」
「秘密。 今はレイネのを聞きたい」
「そうね……夢でも、この光景を見たいかな」
その言葉に、杏は胸の奥でそっと笑みをこぼす。
夢にまで見たいと思ってくれるほど、この景色を気に入ってくれたのだ。
連れて来て良かった……そのレイネが見たい夢の中に、私はいるだろうか。
でも”この光景”だから私もいるだろう。
今夜、わたしは望む夢を見れるだろうか。
どんな夢をみるのだろうか。
少し冷たい春の風の中、肩が触れる部分だけがじんわりと温かい。
このままずっと、こうしていられる気がした──その時。
「──じゅうたんにのりたい」
小さな子供の声。
見ると、母親に抱かれた赤ん坊と、「じゅうたんにのりたい」と駄々をこねる幼い子、その横で宥める父親の姿があった。
花筏を絨毯に見立てて言っているのだろう、と杏は思う。
「子供って、発想が自由よね──」
杏がそう言ったとき、レイネの体温がすっと離れた。
* * *
レイネは涙でぼやけた、晴れ渡る青と桜色の世界を感じていた。
数え切れない意思と努力が世代を越えて重なった末に咲く花──。
この光景は、私ひとりが何千年生きても決して成しえない。
多くの人が紡いできたからこその色。
長い歴史の中で、きっと否定もされ、幾多の失敗もあっただろうに。
それでも今、こうして咲いている。
諦めず幾重にも積み重ね続ける努力が花開いている。
それは、私の世界にはないもの……
「──どんな夢を見たい?」
杏が尋ねてきた。
どんな夢?
目の前の景色そのものが、もう夢のようだ。
この世界に来てから、すべてがそうだ。
ひねれば出てくる飲める水。
清潔に保たれた街並み。
潤沢な食料と、高度に発展した食文化。
進んだ医療と、助け合う仕組み。
それらが自然に組み込まれた経済社会。
高い識字率と行き届いた教育。
この桜のように、過去からの多くの遺産を受け継ぎ、
未来へとつなげようとする意思。
平和の維持と、自己決定できる基盤。
決してすべてが完ぺきな世界ではないが、
間違えもある世界だが、
こうして人々が変わらず桜に心震わせる世界。
なのに……
──どうしてあなたは、この世界と自分を否定しているの?
「夢か……あーちゃんは?」
杏の言葉や表情の端々に漂う空虚さ。
旅が進むにつれ、それを感じることが増えた。
「秘密。今はレイネのを聞きたい」
その声音には、私に、自分が望む答えを応えてほしい思いをそれとなく感じる。
「そうね……夢でも、この世界を見たいかな」
正解ではない。
でも外れでもなく、嘘でもない。
そんな答えを選ぶ。
舞い散る花びら。
肌を撫でる冷たい風。
触れ合った場所から伝わるぬくもり。
あなたは、そこにいるのよ。
そこにいるあなたの価値は、私がいなくても変わらない。
どう伝えればいいのだろう。
これは魔法では解けないわね──そう思っていたとき、小さな声が聞こえた。
「じゅうたんにのりたい」
声の方を見る。
そこには赤ん坊を抱く母親と幼い子を宥める父親。
花筏を絨毯に見立てているのだと、レイネは思った。
「子供って、発想が自由よね──」
そういう杏の声が聞こえる。
レイネはその子に近づくと、しゃがみ込み目線を合わせた。
「絨毯の上、乗せてあげる」
まだ四歳くらいだろうか。
きっと弟か妹に注がれる親の視線に、少し寂しさを感じているのだろう。
疲れや不安も混じって、気を引きたかったのだろう。
幼い子供らしいなとレイネは思った。
驚いたように見つめてくる子供に、レイネはやわらかく微笑む。
目を閉じて。
いい?
これから起こることは、お姉ちゃんとの秘密よ──




