【100年たっても大丈夫】携帯の死。あーちゃん、走る。
田沢湖のほとりをふたりはゆっくりと歩くと、遊水場の砂浜に降りた。
新緑が眩しく、木漏れ日が水面にきらめく。
すっかり通常運転に戻ったレイネは、湖面に手を突っ込んでは「ちめたい、ちめたい」と子どものように喜んでいた。
杏はそんなレイネを写真に収めながら、ふと考える。
この切り取られた時間が、どれほど貴重で──儚いのか。
さっき見た、レイネの取り乱した姿。
そして、“許嫁”という言葉。
聞くんじゃなかったという思いの反面、あまりにも衝撃的で、むしろ冷静でいられる自分に杏は戸惑った。
──これが正常性バイアス……?
あれ?わたし、意外にもちゃんと分析してる。
そう、この状況をちゃんと分析するのよ。
冷静に、そう。冷静に。
まず、私はレイネにいて欲しい。
もっと一緒にいたい。
味方でいてくれるって、レイネは言ってくれた。
あの言葉は、本当に嬉しかった。
心の奥底にまで沁み渡った。
でも、レイネには許嫁がいる。
レイネはきっと、もうすぐ人妻ね。
わたしは、おいてかれる。
レイネを見ると、ハンカチを取り出し、濡れた手を拭いている。
風が吹くたびに、心のどこかが冷えていく。
レイネの笑顔を見るほどに、内側に空洞ができていくようだった。
先を行くように、すっとレイネは歩き出す。
置いていかれて、私はどうしよう……
ああ、思考がぐちゃぐちゃしてくる。
いつ、おいていかれるの?
正常性バイアスはどこ行った?
レイネはどこ行くの?
え?いついなくなるの?
結婚したらいなくなる?
じゃぁいつ?
聞く?
聞いてどうするの?
すぐにいなくなるってなったらどうするの?
でも知らないと落ち着かない。
知ったら知ったで、どうしよう?
あぁーっ!
「ねぇ、レイネ」
「なーに?」
レイネは振り返る。
「その……許嫁って、いつ頃結婚するの?」
言ってしまった。
考えるよりも先に、喉をすべって出た。
「えー? いつって言われてもなー」
レイネの身体がぐにゃんとねじれる。
何か変なスイッチが入ったらしい。
そのまましゃがみ込むと、また湖に手を突っ込む。
水面をぐるぐるとかき回し始めた。
「レイネはいつでもいいんだけどー……さー」
──いつでもいい?
それって、つまり……
「私たちの一族って、あんまり結婚とかこだわってないんだよねー」
──こだわってない? ってことは……
「ほんとはぁー、すぐにでもいいよ」
でへへ、ヤダ恥ずかしー、もぅぅ、あーちゃんったらーと言いながら、レイネは両手を湖面にずぶずぶと沈める。
「あーレイネちゃん溶けちゃうー」と理性の片鱗も湖に溶けているようだった。
「すぐにって、いつ?」
不安が、とうとう形になって漏れ出した。
「遅くても、100年以内には、したいかなぁー」
でへへ、急ぎすぎかな?とレイネは水面をバシャバシャ叩き始める。
「そ、そんなことないよ!」
杏の声が裏返った。
──100年!?
いま、100年って言ったよね?
人生100年時代とは言うけれど、それって私の寿命まるまるじゃん!
キタ、これ。100年。
驚きとともに、100年ならまだいけるという謎の希望を感じる杏だった。
* * *
一通りの散策を終え、レイネは思い出し笑いでハッピー気分。
杏もまた、「100年」というパワーワードに謎の安心感を覚え、足取り軽く駐車場へ戻る。
「……あれ? なんか手が濡れてる
服まで濡れてるし、敵襲? 新手のスタンド使い?
レイネは杏から渡されたタオルで拭きながら首を傾げた。
杏はそんなレイネを横目に見ながら、ほんの少し落ち着きを取り戻した自分に気づいていた。
「このあと、鹿角に行って、道の駅で、きりたんぽと春の味覚フェアのいちご尽くしね」
我ながら、この旅いちばんの清々しさを感じるなと思う杏は、声を弾ませる。
「わーい! 道の駅って何か知らないけど興奮するー!」
「はいはい。 シートベルトしめてね」
「はーい、シートベルト締めて?」
いたずらっぽく真似するレイネに、杏は呆れたように笑う。
「もう……自分でできるでしょ」と言いながらも、レイネに身を寄せ、シートベルトを締める。
「甘えないのよ」そう、自立を促すようなことを付け加える。
──でも、本当は。
もっと、ずっと居て欲しいと思う。
誰よりも。
ふわりと香る、甘く清らかな匂い。
──レイネの匂いだ。
「……いい匂い」
ぽつりと漏れたその言葉は、エンジン音にかき消されていた。
* * *
道の駅かづので、予定通り食事といちごフェアを満喫。
「いちごって、さいこー!」
桜モチーフのミルクプリンをひと口食べたレイネは、目を輝かせて笑った。
ほんのり甘い桜ゼリーの中に、いちごが可愛らしくあしらわれていて、口いっぱいに程よい酸味が広がる。
「美味しいね」
つられて杏も、自然と笑みがこぼれる。
「フードファイターの胃袋が欲しい」
レイネが真剣な顔でつぶやく。
「こっちの世界、美味しいの多すぎ。胃袋、足りない」
「そんなに気に入ったなら……いっそ、ずっとこっちに居れば?」
杏は、少しだけ本音を混ぜて言ってみた。
「そだねー」
レイネはイチゴを食べながら返事をし、空っぽになった容器を覗き込む。
「食べたらなくなる。レイネ、悲しい」
その顔があまりに深刻すぎて、杏は思わず吹き出した。
* * *
車内には、Official髭男dismの軽快な音楽が流れている。
杏は、ちょっと選択ミスだったかもと後悔していた。
道の駅かづのを出て、弘前市へ向かう途中のこと。
──教習所の高速教習は、シミュレーターだけだったよね……。
それ以来、ほぼペーパードライバー状態の杏にとって、「高速合流します」は「パラシュート忘れてスカイダイビングします」レベルの無謀さに思えた。
『レイネ、ごめん。時間かかるけど、下道で行こうね』
──そう判断した自分を、今まさにちょっと責めていた。
「下道、選んだの失敗だったかなぁ。カーブだらけだし、道も細いし……」
ハンドルを握る手に、じんわりと汗がにじむ。
「がんばれー、あーちゃん! ちょこちょこ休憩しながら行こ!」
助手席のレイネが、明るく励ます。
その無邪気な声に、杏の胸にふわっと灯りがともる。
「ありがと。でも、運転しづらい……事故ったらごめんね」
「大丈夫だよー」
レイネは即答で笑顔を見せたあと「運転代わろっか?」と言ってきた。
「ダメダメ。その冗談に返せる余裕ないから、難しいこと言わないで」
「はーい。じゃあ、お口にチャック。チャックウィルソン」
「それ、おじいちゃんが言ってたやつ……」
杏は、改めて思った。
この子の現代用語の基礎知識って、一体どうなっているんだろう。
しばらくは、無言で運転に集中する。
道は細く、カーブも多い。でも、後続車はいない。
あおられる心配もないし、対向車も少ない。
道なりに進むだけでいい。
ブレーキ操作に慣れてくると、少しずつだけど、運転が楽しく思えてきた。
ちょっとだけ、余裕も出てくる。
横目でレイネの様子をうかがう。
助手席のレイネは、窓の外の景色を眺めていた。
木漏れ日がフロントガラスを通して、ふわっと車内を照らしては、過ぎ去っていく。
──100年かぁ。
レイネの口にした「100年」という言葉を、ふと杏は思い出していた。
無意識のままハンドルを切りながら、思う。
100年なら大丈夫って思えた。
でもその時間感覚に驚かない自分もいて、ちょっとおかしくて、なんだか気持ちがふわふわして──
「──あっ!」
突然、レイネが大きな声を上げた。
「え、なに!?」
杏は我に返る。
「あーちゃん、止まって!なんか居た!」
「なに!?驚かせないでよ!」
「早く早く、止まって!」
杏がブレーキを踏んで減速する。
その瞬間──
「パン!」
乾いた音が響いた。
ハンドルが、ぐにっと取られる感覚。
杏はすぐに異変を察知した。
「うそ……もしかして?」
車を路肩に寄せて停め、慌てて外へ出る。
タイヤには、金属片がぶっ刺さっていた。
「どうしよう……パンクしちゃった」
杏は頭を抱えた。
「直せないの?」
レイネが、心配そうに顔を覗き込む。
「スペアタイヤはあるけど、使い方わかんない……やったことない……はぁ、なんでこうなるのよ……泣きそう」
──下道なんか来るんじゃなかった
後悔が溢れ、目の前が真っ暗になった──が、ふわっとあの優しい匂いと、暖かさが訪れる。
「あーちゃん、まずは深呼吸……」
レイネがそっと抱きしめている。
言われるまま、大きく吸って、吐いてみる。
レイネの腕の中で、心が少しだけ落ち着いた。
「うん……レンタカー屋に連絡してみる。……って、圏外!? 現代日本で圏外?」
スマホの画面を見て、杏の声がひっくり返る。
アンテナ、ゼロ本。『圏外』表示。
「レイネのも、だめー」
レイネもスマホを見て、うなだれる。
「同じキャリアだもんね……」
あ、会社のやつも……ともう一台のスマホを見るが、やはり『圏外』
終わった……
杏は天を仰いだ。
「近くに電波入るとこ、歩いて行けないかな?もしくは近くにお店とか」
レイネの提案に、杏はカーナビで周辺を調べる。
「……あった。“薫風荘”ってのがある。けど、歩いて30分ぐらいかかりそう……」
スマホをポケットにしまい、杏は立ち上がる。
「ちょっと歩いてみる。もしかしたら、電波届くかもだし」
そう言って、杏は山道を小走りに進んだ。
どうしよう……
走りながら杏は不安にかられた。
レイネは世間知らずの異世界人だ。
自分が何とかしなくては。
自分がしっかりしてなくては。
でも、どうしたらいい?
どうしたら……?




