【遊覧船の告白】「大丈夫」という名の劇薬。ほどけない手と、消えない不安。
杏とレイネは、車を降りると、田沢湖畔に立つ御座石神社へと向かった。
湖底を覗き込む。
その吸い込まれそうになるほどの透明度に、二人は思わず声を上げる。
水底の岩肌や、ゆらめく藻の一本一本までが、まるで手が届くかのように鮮明に見える。
その後、 「やっぱりアレよねー」 レイネは、顔ハメパネルに顔を突っ込み、思い切り変顔したり。
──こういう瞬間、好きだな。
何も考えずに笑える。
レイネと一緒にいると、こんな私でも自然に笑える。
「次は、遊覧船ね」
杏は、レイネの興味が次に行く前に、手を取って桟橋へと向かう。
遊覧船は、静かに滑るように湖面を進む。
船内では、辰子姫の悲しい伝説が穏やかな音声で語られていた。
──辰子姫伝説──
美と永遠の命を求めた一人の娘、辰子。
観音様の啓示に従い泉の水を飲んだ彼女は、異常な飢えに襲われ、ともにいた従者の分の魚を食べ、やがて龍へと変貌する。
母の涙を振り切り湖に姿を消した辰子は、田沢湖で八郎太郎と出会い、心を通わせ共に暮らすようになる。
「永遠の美を願った結果、人間でなくなっちゃうなんてね。昔話って、暗いの多いよね」 杏はため息混じりに呟く。
杏は、返事を待った。
けれどレイネは、遠くの景色に夢中で、すぐには反応が返ってこなかった。
少しだけ、胸の奥がざわついた。
「私が美人だったら、あの水飲んじゃってたかも。……でも、私みたいなのには関係ないね」
杏は自嘲気味に言うとレイネの視線は湖面から、杏の方へと向く。
「そんなことないよー。あーちゃん、レイネより背が高いし、スタイルもシュッとしてるもん」
「そうかな。でも、レイネと比べないで。レイネみたいに美人じゃないし」
杏はそういって視線を外した。
「あーちゃん、優しいし、気が利くでしょ。辰子姫は、他の人の魚食べちゃったり、けっこう自己中だったよね。あーちゃんは、きっと魚を取らないし、シートベルト外してくれる」
レイネは近づいてくると、杏の手を優しく握りしめた。
「ありがと。でも、私の場合、優しいというより……決めきれないだけなの。いざって時、やっぱりダメで」
あえて小声で言う。
「転職のこととか?」
レイネがまた少し近づいてきた。
「それって、誰かを傷つけたくない、間違えたくないっていう、思慮深さなんじゃないのかなってレイネは思うよ」
その声は、杏の心にじんわりと染みこむ。
私のために、私のことを考えてくれている──。
「……そうかな」
杏はそういってレイネに視線を合わせる。
ライトグリーンの瞳に、杏の姿が映っていた。
澄んでいて、曇りがなくて──だからこそ、自分の姿がしっかりと映っている。
「今の職場の人たちのこと、ちゃんと考えてたんだよね。環境が変わる不安もあるだろうけど、それだけじゃないって、話してて思ったよ」
でもね、とレイネは続けた。
「杏は杏の人生を、自分でしっかり決めたらいい」
「私の人生……」
杏は、静かに呟き、心の中で深く思った。
だから、レイネ、あなたが必要なの、と。
* * *
下船後、二人は桟橋を歩く。
レイネは嬉しそうに「ばいばーい!」と三歳くらいの女の子に手を振る。
乗り合わせた親子で、 女の子も嬉しそうに手を振り返している。
「どこにいても、知らない人と絡むね」
杏は呆れたように言った。
「かわいいー。ちょーかわいい。ああん、持って帰りたい」
手を振り返す女の子を見つめながら、レイネはにこやかに言った。
「誘拐です、ダメー」
杏は冗談で返しながらも、内心のざわつきは収まらない。
レイネが子供に向ける表情は、杏に向ける笑顔と何ら変わらなかった。
「子供っていいよね。純粋で、夢があって」
桟橋を歩きながら、杏は呟いた。
「年齢関係なく、やりたいことは目指せばいいじゃないかな そういう世界でしょ」
レイネは、笑顔でまだ手をふりながら杏にそう言った。
「そうかもしれないけど、社会に出るとそう簡単にはいかないよ。やりたいこともなかったし、子供のころからずっと親の言いなりだった。いい大学行って、いい会社入って、結婚しろって。……でも、結婚はダメそうね」
杏はまた声を小さくして言うとレイネが少し近づいてくる。
「人の縁なんて、わからないよ。あーちゃんは優しいし、気遣い屋さんだから、きっといい人に会えるよ」
レイネはもう一度杏の手を握る。
その手の温かさが、杏の心に染み込んでくる。
「ダメだよ」
杏は小さく首を振った。
「そんなことないよ。急に異世界から私みたいなのがきたりするし。世の中、わからないよ。辰子姫も、変身したあと、八郎太郎と恋仲になって、もともと求めていた形とは違うけど、幸せになっているっていうじゃない」
レイネは、杏の目をまっすぐに見つめ、語気を強めた。
「きっとね、どんな境遇でも、傷ついた上で反省して、それを活かせる人と、傷ついて終わる人がいる。杏は、きっと前者だよ。大丈夫だよ」
大丈夫だよ。
レイネのその言葉と視線が、自分のためだけに向けられていることに、杏は心の奥でほっとする。
それと同時に、この届かない思いをどうしたらいいのだろうと思った。
──もっとこの人に、自分だけをみていて欲しい。
そんな気持ちをどう伝えればいいのだろうと杏は思った。




