【八戸上陸】サイドブレーキの悪夢。うなるエンジン。『全集中。息の呼吸!!』
八戸駅に到着した杏は、レンタカーの手続きを済ませ、無事に車へ乗り込んだ。
運転席に座り、ハンドルを握る。
その手は、小鹿のようにぷるぷると震えている。
──落ち着け、杏。落ち着くのよ、私。
心の中で自分に語りかける。
深呼吸だ、全集中──息の呼吸よ!
「……ふう」
大きく一息ついた杏は、隣のレイネにこわばった声で言う。
「いい、レイネ。私が『大丈夫』って言うまで話しかけないで」
「はーい。で、なんで?」
天真爛漫そのものなレイネ。
「ちょ、今からダメ! 久々すぎて手汗がヤバいの! 集中したいの!って、それよりシートベルト!」
意図しなくても声が大きくなる。
「シートベルト?」
きょとんとレイネ。
「ええ? なんでそれが分かんないのよ!?地震のなんとか波とか知ってるくせに!知識の偏りすごすぎるでしょ!」
余裕の無い杏の声。
レイネは「なんとかじゃないもん、P波とS波だもん」
しょんぼりと言いながら、手探りでベルトを引っ張る。
「これ、どうすればいいだ?」
ニコっと微笑むレイネ。
「もうっ……!」
杏は体を乗り出し、レイネの至近距離に近づく。
と、その瞬間──
ふわりと、甘く清らかな香りが鼻腔をくすぐった。
森の奥にある泉のような、透明感のある香り。
清々しく、ぱっと世界が明るくなる感覚が広がる。
──え? いい匂い……
落ち着く。
なんかもう、落ち着く。
癒しのアロマすぎる。
同じボディーソープ使ってるはずなのに……個体差?
香りの魔法?
関西人じゃないけど、思わず「めっちゃええやん」って言いたくなるレベル。
なにこれ。
なんていうの、オキシトシン満開……。
「……ふう。じゃあ行くよ」
パチンとシートベルトをはめると落ち着いた声でそういった。
一度座りなおし、杏は車を発進させる──が、車はうなりを上げるばかりで動かない。
「あれ?」
足元を見直す。
アクセル踏んでる、ブレーキは……あ。
──サイドブレーキ!
「うわ、やっちゃった」
慌ててサイドブレーキを解除し、もう一度アクセルを踏む。
今度は車がすんなりと前に進み始めた。
「あー、びっくりした……」
安堵の息を吐いた杏。
一方、レイネは目を輝かせて言った。
「こいつ、動くぞ!」
* * *
最初の目的地、八戸市博物館に到着すると、杏は緊張した面持ちで駐車場に車を停めた。
サイドブレーキ、Pポジション、エンジンオフ──。
ひとつひとつ、念入りに指差し確認。
「......着いたよ」
チェック完了の宣言とともに、ふぅっと息を吐く。
──緊張しすぎて手汗びっしょり……!
10分運転しただけなのに、肩バキバキだし心臓ドコドコ鳴ってる。
ああ……あの匂いが恋しい……。
レイネの香り。
歩くアロマテラピー。
嗅ぎたい。
全力で嗅ぎたい。
小一時間嗅ぎたい。
いや、でも……言えない!
『レイネの匂い、嗅がせて!』なんて口にしたら、ただの変態だ、私!
──どうする、どうする!?
シートベルトを外しながら葛藤していると、ふと、神の一手が脳内にひらめく。
──シートベルト!?
「レイネ、シートベルト外してあげるから、ちょっと待っててね」
──きたあああぁあ! 自然な流れで接近できるこの神ムーブ!!我ながら天才すぎて震える!
自分のシートベルトをパチンと外し、レイネのほうに身を乗り出す。
慎重にロックを外し、丁寧に巻き戻すふりをして──そっと、近づく。
──あ、うっすら感じる。もうちょっとよ、あと少し距離を詰めて!
杏の顔が、レイネの首筋のあたりに接近する。
やるならいつ?今でしょ!どうする?GOする!
このまま静かに、ナチュラルに、深呼吸よ。
杏は、胸をときめかせながら全集中──息の呼吸!!
そのときだった。
……え?
レイネが突然、杏を抱き寄せた。
ふんわりとした胸が、杏の頬にふれる。
「あーちゃん、運転、お疲れさま。ありがとう」
その声は、胸に押しあてられた耳を超え、頭に直接響く。
……ああああっ
何この状況、天国?
いや罠?
一気に嗅ぎたい!
吸い込みたい!
でも、そんなことしたら、変態って思われるーッ!
杏の脳内は、一瞬で理性と欲望の渦に巻き込まれた。
「はい、あーちゃん深呼吸してリラックスするー。はい、息を吐いてから、鼻からゆっくり大きく吸うー」
レイネのやさしい誘導に従って、杏は素直に深呼吸をする。
肺の奥にまで染みわたる、あの清らかな香り──。
……ああ、尊い。
杏はしばし、レイネの腕の中でふにゃふにゃになっていた。
幸せホルモン の波がひと段落したところで、現実が戻ってくる。
「あ、ちょっとレイネ……この角度、地味にしんどいかも」
「ごめんごめん!」
レイネはさっと手を離す。
杏は、赤くなった顔を隠すように鞄の中をごそごそといじりながら、あれ、財布どこだっけかなと呟く。
平静を装いながら、もし心を読まれてたら相当恥ずかしいなと気持ちは乱れていた。
* * *
車を降りて博物館へ。
杏の心配をよそに、レイネは館内でも好奇心いっぱいに質問を投げかけてくる。
そんな彼女のいつも通りの様子に、どこかホッとしながらも……
この戸惑いを知って欲しいという思いも、拭えない事に杏は戸惑いを感じ始めていた。




