【ヴォエエエエ】セル結合の悪夢と、覚醒の鼓動
その日の午後。
杏は出社し、例の『炎上案件』の振り返り会議に参加していた。
納品はなんとか済んだものの、遅延、不具合、工数の増加……
反省点は山盛りだ。
進行役は、プロジェクトを推進していた覇村チーム。
彼らが提示した対策は、ざっくりこうだった。
・作業期間が短かったのは不可抗力。
・その中でコミュニケーションが不足し、チェック漏れが発生した。
なので、今後はチェックリストを導入する。
……うん、ありがち。
「チェックリストがあれば大丈夫」と繰り返す覇村たち。
議論は盛り上がることもなく、ぬるくループし始めた。
──このままじゃ、また同じこと起きるよ……
杏はあきらめと同時に、怒りも憶えていた。
テスト項目を削除した。
強引に進めた。
その結果、レイネとの旅行も無くなり、休日返上だった。
人のことをなんだと思っているんだ……
会議はチェックリストの内容に入っていた。
ぼそぼそと話し合われる。
『この句読点、こっちじゃないですかね』
『印刷した方がいいから、セル結合した方がいいと思います』
セル結合?
え?セル結合?
エクセル方眼紙?
時代遅れだよ。
そこじゃないよね。
問題は、そこじゃない。
そんなことじゃない。
杏はうつむきながら、会話を聞いている。
パソコンの画面下に、社用チャットの通知が飛んできた。
送り主は、あの田中くん。
”毎度これですね……”
短い言葉に、妙な説得力と共感があった。
そのとき、杏の中で、ふっと何かが灯る。
レイネの言葉が、脳内に再生された。
『必要なことを言ったときに怒るとしたら、怒る人間の方が間違っている』
杏は、手を握りしめる。
その手の中に汗が溢れているのがわかる。
「あの……すみません」
会議室に響く、目的を失った声たちを遮るように、杏は口を開いた。
「なんだ、小鳥遊」
覇村が、睨むようにこちらを見た。
その威圧感に、杏は思わず言葉を飲み込んだ。
──やっぱ無理、怖い
けれど。
そのレイネの言葉が、もう一度背中を押した。
『理想の自分だったら、どうするだろう?』
杏は、震える声で続けた。
「チェックリストの導入だけでは、対策として不十分です」
一瞬の静寂。
会議室の空気が、重くなる。
杏は続けた。
震える声を抑えながら続けた。
「本来必要だったテスト項目を飛ばした原因には触れていません。チェックリストを増やすだけでは、根本的な解決にならないと思います」
「……は?」
覇村が眉をひそめた。
重たい空気がさらに冷たくなる。
直視できない杏は、画面を見続ける。
「おいおい。チェックリストにケチつけてるのか?そもそもお前、テスト補助要員だろ?現場も知らないくせに、偉そうな口きくなよ」
「す、すみません……」
杏は、思わず俯いた。
そのとき。
「……覇村さん」
低く、落ち着いた声が響いた。
課長の結城だ。
落ち着いてはいるが、鋭利だった。
「今の発言、確認させてください。補助要員は発言するな、という意味でよろしいですか?」
「……あぁ?」
覇村が挑戦的な声をあげる。
「この会議の主旨は、なんですか?」
結城の声は、淡々と鋭利さを増していく。
「関係者全員が意見を出し合い、今後に活かすための場ですよね。直前に支援に入った私も呼んでおきながら、関係者の言動を封じるような発言は、会議の主旨に合致していません。そもそも、あなたが設定した会議にもかかわらず、です」
会議室が、ますます冷えきり、刺さるような空気になる。
「それに──」
結城はさらに続ける。
「人の時間を奪う会議推進の仕方は、よろしくないですし、先日の案件も、多数のリソースを投入する結果となっています」
まずは、そこから見直してくださいと結城は言い放つと立ちあがる。
「必要があれば議題を整理し、改めて会議を設定してください」
戻るぞ、小鳥遊と結城に声をかけられ、杏もあわてて席を立つ。
それに続くように、参加者も静かに席を立ち会議室を去っていった。
* * *
「……ありがとうございます」
廊下を歩きながら、杏は結城に深く頭を下げた。
「いや、別に」
結城は、微笑みながら言った。
「ただ、あの場で小鳥遊さんが発言するとはね」
「めちゃくちゃ緊張してました。いまでも手汗がすごくて」
何余計なこと言ってんだ自分と、杏は思った。
結城は軽く笑う。
「上司は上手く使え。報連相は、相変わらず微妙だな」
「すいません」
杏はまた頭を下げた。
「そもそも。小鳥遊さんが矢面に立つ必要ないだろ」
「すいません」
杏はまた頭を下げた。
「しかし、成長したな」
結城は立ち止まって言った。
「……え?」
「後でまた話そう」と言って結城は、別の会議室に入っていく。
その時、社用携帯がチャットの着信を知らせる「ぴろん」と音が鳴った。
画面には、田中くんからのメッセージだった。
『あの場で発言するなんて! マジ、小鳥遊さんのターンでしたね! その通りだなって思っちゃいました!』
そのメッセージに小さく杏は笑った。
──そう思うなら、田中くんも、言いなさいよ。
そう心の中で返事をした。




