再生
老婆の姿が見えなくなると、レイネは立ち上がった。
風に揺れるワンピースの裾が、静かな午後の光に透ける。
レイネは御神木の方へ歩み寄ると、その先を見上げる。
青い空に突き刺さるように、ぽつんと一本立っていた。
──五百年くらいかしら。
「こっちの世界は、やっぱり短いね」
誰に向けるでもなく、レイネはそっとつぶやいた。
辺りを見回し、人の気配がないことを確かめる。
トラロープを越え、御神木の根元へと歩み寄った。
すっと幹に手を触れる。
指先からは、わずかに残された御神木の命の揺らぎを感じる。
「あなたは、もう少しの間、この国の人たちを──この平和を、見守っていてね」
静かに語りかけると、レイネは片耳のピアスを外し、そっと右手の指先に当てる。
「痛いの、嫌いなんだぞ……」
そうこぼしながら、針先を肌に沈める。
じわりとにじんだ一滴の血を、その根元に落とし込む。
その血は、枯れた御神木の中に輝きながら吸い込まれていった。
* * *
数日後。
レイネは、再び同じ公園のベンチに座っていた。
穏やかな日差しが降り注ぎ、木々の湿った匂いが、風に乗って運ばれてくる。
「お隣、いいかしら?」
聞き覚えのある、少しかすれた声が届いた。
レイネは、顔を上げ、微笑みで迎える。
「こんにちは。どうぞ。──お会いするのを楽しみにしてました」
「あら、覚えてくださってたのね……」
老婆は少し驚いたようなそぶりを見せ
「──こんなこともあるのねぇ……」とレイネに微笑みかける。
隣に座ると老婆は、御神木の方へと視線を向けた。
レイネも、その視線を追う。
二人の視線の先には、先日まで枯れていたはずの御神木が、新緑をまとい、陽光を受けて風にそよいでいた。
枝の先には青々とした若葉が芽吹き、樹皮のひび割れからは、わずかに若い樹液の香りすら感じられた。
かつて立てられていた伐採予定の看板はなくなり、トラロープも、赤いテトラコーンも撤去されていた。
地面には、きらめく木漏れ日が降り注ぎ、まるで何事もなかったかのように、小鳥たちが枝の間を飛び交っている。
近くの芝生では、親子連れがレジャーシートを広げ、シャボン玉に興じている。
子どもたちの笑い声が風に乗り、虹色の玉がきらきらと光を反射しながら、空へ舞い上がる。
「生きているうちに、不思議なことは一回や二回ぐらいあるのかもしれないですね」
レイネは、何食わぬ顔で、老婆の『こんなこともあるのねぇ』という言葉を肯定した。
老婆は、しっかりと緑を携えた御神木を見上げていた。
「──まだまだかしらね」
まるで自分に語りかけるように呟いた。
「まだまだ、これからですよ──」
レイネは、力強さをもって応えた。
「まだまだこれからです」
目の前のシャボン玉を追いながら、レイネは老婆が感じているであろう超自然的な感覚と、いつもの杏の姿を思い出す。
なぜ、わずかな時間の差で、これほどまでのふたりの世代に分断が起きているのだろうか。
そう思いながら、レイネは、空に溶けていくシャボン玉の行方を、静かに最後まで見届けていた。
きらきらと輝くそれが風に揺らいだとき。
──あ、そうだ……
レイネの脳裏にあることがよぎる。
躊躇はしたが、意を決して老婆に声をかけた。
「あの……キャットフード、いりませんか? 沢山余ってて」




