「邂逅」
平日の昼下がり。
レイネは一人、近くの公園のベンチに腰かけ、穏やかな陽ざしを浴びていた。
風はやさしく、草木の間をすり抜けるたびに、湿った土と青葉の匂いを運んでくる。
この公園は、隣接する古い神社の敷地と地続きになっている。
滑り台の向こうにある朱塗りの鳥居の奥には、小ぢんまりとした社が佇んでいる。
境内の隅には、苔に覆われた狛犬。
その奥には、ひときわ目を引く巨木がそびえていた。
かつては空を突くような勢いだったその御神木は、今ではすっかり枯れかけている。
灰色がかった幹には深いひびが走り、ほとんどの枝は折れ落ち、一片の葉もない。
残されたしめ縄だけが、その面影を残す。
木の周囲は黄色いトラロープで囲われ、赤いコーンが無造作に並んでいた。
レイネは、その木の向こうに広がる青い空を見つめる。
「お隣、いいかしら」
しゃがれた声が、レイネの耳に届いた。
声の方を向くと、杖を手にした小柄な老婦人が立っていた。
「どうぞ」
レイネが微笑んで答える。
老婆は「よっこいしょ」と小さな声を漏らしながら、ゆっくりと隣に腰を下ろした。
「もうねぇ、歳を取ると、あちこち痛くてね。もうダメね」
そう言って、老婆は肩をすくめ、小さく息を吐いた。
そよ風が吹き抜け、レイネの髪が揺れる。
木々の香りが、ふと懐かしさを誘う。
──向こうの世界の木々と、変わらない匂いだ。
心の中で、レイネは思う。
──あっちも、こんなに穏やかならいいのに。
* * *
「あの木はね……」
隣に座った見知らぬ老婦人が、ふいにぽつりとつぶやいた。
その視線は、公園の奥にある御神木へと向けられている。
「もう枯れてしまって、危ないからって、切られるそうなのよ……」
どこか寂しげな声だった。
「そうなんですね」
レイネは、静かに頷いた。
──確かにあの木は、もう長くはない。
レイネの目にも、その生命がごくわずかであることが見て取れる。
「子どもの頃から、ずっとそこにある木でね。寂しくなるわ……」
老婆は遠い目をして、どこか懐かしそうに続ける。
「あの木だけは、何があっても変わらないって思ってたのにね」
その表情に宿る記憶は、きっと今の枯れた姿ではなく、枝葉が空を覆い、勢いよく茂っていた頃の、あの御神木なのだろうとレイネは思った。
「失礼ですが、お姉さん、おいくつなんですか?」
レイネが問いかけると、老婆は少し驚いたように笑った。
「あら、お姉さんだなんて。日本語がお上手ね。もう90よ」
「90歳? とてもそうは見えません」
レイネにしてみれば、90年という時間は、取るに足らないほどの短い期間だ。
たった90年で、この世界の人間はここまで老衰し、思い出に浸るものなのか……。
レイネは、この世界の理、改めて目の当たりにする思いだった。
「お世辞がうまいのねえ」
そう笑いながらも、老婆は両手を見つめる。
しわの刻まれたその手は、老衰の証そのものだった。
「もう駄目よ。あちこち痛くてねぇ。新しい物にも付いていけないし。スマホでしたっけ、孫に買ってもらったのに、使いこなせなくて」
「あらま……」
レイネは小さく笑みを浮かべた。
他愛のない会話が、ゆっくりと続く。
風に乗って、土と若葉の香りがそっと舞い込んだ。
「あの木はね、私の命の恩人なの」
老婆は再び御神木に目を向けながら、ぽつりと語った。
「だから、いつまでも残ってて欲しかったのだけれど……」
「命の……恩人?」
レイネは、目を細めて尋ね返した。
「そう。命の恩人。まだ私がね、小学生だった頃……」
あなたのような若くて外国の方は知らないかもしれないけど、戦争をしていたの──老婆の声はやはりどこか遠くを感じさせる。
「帰り道だったと思うわ。突然、アメリカの戦闘機が低空飛行してきてね。今はこんな街並みだけど、その頃は本当に畑しかない田舎でね。隠れるところもなくて、必死に逃げたの」
レイネは、黙って耳を傾ける。
「機銃掃射の音が聞こえてきて、もう駄目かなと思ったけど、あの木の裏に逃げて、何とか助かった」
老婆の目からは、不思議と優しさが読み取れる。
「戦争が終わって、ほっとしたけど、物資も無いから親も必死に働いてね。気づいてみれば、もうこんなによぼよぼよ」
老婆は、そう言ってまた自分の手を見つめる。
ふと、レイネに顔を向け、申し訳なさそうに呟いた。
「あら、ごめんなさい。つい、昔話をしちゃって」
「いいえ。大切な話ですから」
レイネは、老婆の目を見ながら少し微笑む。
──杏はこのことを知っているのだろうか
「大変なご苦労をなされていたのですね」
こんな時、どんな言葉が適切なのだろうかとレイネは思いながら、過ごしてきた全ての時を肯定するように言った。
「そうねぇ──。何かあるたびに、私はあの木に見守られているような気がしてね。生きていられるのも、あの木のおかげ...」
幾重にも重なる皺は、微笑みを作る。
「……枯れてしまうのは仕方ないけど、寂しくなるわ」
でも、もうおばあちゃんだから、私もすぐに追いかけることになるのよね……。
そう言って、老婆は、寂しそうな笑顔を浮かべた。
「つらいことも沢山あったんですね」
残された時間を静かに受け入れているかのような老婆にレイネは言った。
「そうね。でもね、振り返ってみると、とても素敵だったと思うわ。──それに、今、若かったら、とても楽しいでしょうね。若さが羨ましいわ」
公園の中に静かな風が流れる。
「風が気持ちいですね」
レイネが言うと、そうねと老婆は目を細める。
しばらくして老婆は、買い物に行くと言って、ベンチからゆっくりと立ち上がる。
レイネは、その背中が小さくなるまで、ずっと見送っていた。




