希望の夜空
食事を終え、部屋に戻ると、窓の外には横浜のきらめく夜景が広がっていた。
夜の街を照らす無数の光。
まるで宝石をちりばめた、巨大な絨毯のようだった。
「うわあ……」
レイネはため息のような声をもらすと、窓辺にぴったりと寄って見入った。
「……あーちゃんの家、どこかな?」
「反対側だから、ここからは見えないよ」
「そっかあ」
そのまま、しばらくレイネは夜景を見つめ続けた。
「……本当に、平和だなぁ。信じられないぐらい平和だ」
ぽつりと漏れたレイネの声には、驚きと安堵に混じって、どこか寂しさのような響きがある。
「……そんなに、レイネの世界ってひどいの?」
杏は隣に立ちそっと尋ねた。
レイネが杏の方を向く。
その瞳には、夜景の光が映り込んで、キラキラと揺れていた。
そうだね、とレイネは小さく呟く。
「そもそもね、こんなに夜が明るいこと自体、信じられない」
レイネはまた視線を窓の外に戻しながら続ける。
「電気もないし。街明かりは、ところどころ松明だったりする。私が住んでいるところは、もう少し進んでいて、魔法で照らしているけれど、それでも、こんなに広範囲が明るいわけじゃない」
言葉が少し止まる。
「街は暗いし、食料を売っている店舗もあるけれど、品数はないし、そもそも数量もない。いつも、足りていない」
レイネは、うつむく。
「レイネは向こうでは、この世界でいう上流階級にあたるけれど、下流階級というのかな……。私たちの一族と違う、杏と同じような人間にあたる種族は、本当にひどい状態だと思う」
農作物の生産性は低く、飲み水の共有も安定しない。
常に食糧難だから、人々は奪い合うし、争いごとが絶えない。
天災の影響もあるし、こっちにはいない異形の生物もいる……。
その声は、少しずつ震え始めた。
「向こうの人間は、ただ一日を生きることが、それ自体が希望。だけど、こっちは、生きている上で、希望を探せる。こんな世界だったら、どんなにいいだろう…」
レイネの瞳は潤んでいる。
煌めく夜景が、その瞳の中で歪んで見える。
「こっちの世界が、うらやましくて仕方がない」
そう言って、レイネは、こぼれ落ちそうな涙を必死に堪えていた。
暗い話をしてしまったね、とレイネは顔を伏せた。
その言葉に、杏は無邪気に相手に入り込んでしまったんだと、後悔した。
『ごめんね』
『ごめんね』
杏の言葉と、レイネの言葉が、不思議なほどに重なった。
そんな偶然に、二人は顔を見合わせて驚く。
目が合うと、穏やかな微笑みが二人の間に広がる。
微笑みながらも杏は、何かを言いたかった。
気の利いた一言を言いたかった。
けれど、その言葉は出てこない。
そんな自分が情けなかった。
何か言いたい、何かを言ってあげたい……。
でも、表現する言葉が見つからない。
それでも、何の慰めにもならないだろうけど、ひとつの言葉を見つけた。
杏は、レイネの目を見る。
「弘前公園、行こうね」
夜景が写り込むレイネの目を見ながら、杏は続ける。
「気の利いた言葉は思いつかないけど、こっちの平和をめいっぱい堪能してね。旅行、行くぞ」
「そうだね」
レイネは、杏の言葉に、ゆっくりと頷いた。
「いつまでも、この平和が続くといいね」
* * *
ほどなくして、就寝の準備を始めた。
バスルームから聞こえる水の音、そして、ルームウェアに着替える時の衣擦れの音。
二人はスイートルームのベッドに身を沈める──。
大きくて柔らかなベッド。
その感触に、レイネは思わず声を漏らす。
「……ああ、これぞ平和の象徴。ふかふかベッド。やわらかベッド。大好きベッド」
ごろごろとベッドの上を転がる。
「はしゃがないのよ」
杏は小さく笑いながらも、おやすみとだけ言って、目を閉じた。
しばらくして──
「あーちゃん」
レイネがぽつりと声を出す。
「……なに?」
「まくら投げ、する?」
「しません」
笑いそうになりながら、しれっと答える。
「あーちゃん」
さっきと同じ声音でレイネが言う。
「まくら投げは、しません」
「うん知ってる」
杏は、目を閉じながら、占い師の言葉や、レイネの言葉を思いだす。
『そのものの運命も変える』
『生きている上で、希望を探せる』
生きているだけで、希望がないこともあるのに……。
「あーちゃん、最後にいい?」
微睡みの中、レイネの声が聞こえてきた。
「向こうの世界ではね、夜になると星がすごくよく見えるの。沢山の星。その星に向かって、人々は星に願いごとをする。遠い星に向かって──」
レイネの声音はいつものように透き通っている。
「でも、こっちは違う。夜は明るくて、星はあんまり見えない。でもその分、願いが人の手元に降りてきてる気がする──星が見えなくなった分だけ、願いがひとの手元に来ている気がするよ」
煌めく横浜の夜景。
星が見えないほど明るいこの街で、その希望に溢れていたら、どんなにいいだろうと杏は思った。




