名探偵女神の事件簿:ごりらのはなくそと、消えたキャリーバッグ。
月曜日。
杏はいつも通り出社する。
幸い、泣きはらした後の目の腫れは引いている。
あの後、涙が引くまでどのくらいの時間がたったのだろうか。
泣き止んだ後は、用意された食事を摂り、泥のように眠った。
その日は、プロジェクトの残処理を行い、一日が過ぎる。
火曜日の朝には、ユーザー側テストが無事完了したと報告があった。
プロジェクトは完了したようなものだ。
想定よりずっとスムーズに進み、水曜日の本番稼働も何事もなくクリア。
納品、引き渡しに必要な物はすべてそろった。
そして──木曜日と金曜日の代休と土日で4連休を作った。
その4連休で、約束を取り返す。
レイネと行く、箱根旅行の日だ。
* * *
「……さてと」
── 木曜の朝。
杏はクローゼットの奥にしまい込んでいた一眼レフカメラを取り出す。
「久しぶりの出番だね」
レンズキャップを外し、ファインダーを覗く。
今日は旅に出る。
レイネと一緒に、温泉と自然と美術館と──たくさんの“初めて”を共有する、そんな時間が始まる。
「全部、撮ってやるんだから」
思わず口に出たその言葉に、杏はひとり笑った。
リビングから「あーちゃーん!準備できたよー!」とレイネの明るい声が聞こえた。
声の方を向くと、キャリーバッグの上に座って、帽子をかぶったレイネがニコニコと手を振っている。
その姿は、すっかり現代人女子大生──
「よし、行こうか。箱根の旅、はじまりはじまりー!」
杏はキャリーのハンドルを引き、玄関を出る。
「って、ちょっと待って!」
突然、レイネの声が響く。
杏はドキッとした。
「ど、どうしたの?」
まさか、この場で何か問題が——と焦る杏。
「このかばん、持ち歩くの大変だから、11次元ポーチに入れていい?」
……え?
杏は思わず目を見開く。
まさかの手ぶら旅行の完成だった。
「えーっと、それ、便利すぎ!」
杏は驚きながらも、笑いがこみ上げてきた。
「でっしょー!」
レイネは自信満々にそう言いながら、ポーチに荷物を吸い込ませた。
* * *
「なんか…異様なにおい。硫黄か!と、『言おうか!』と」
箱根湯本駅に着いた瞬間、レイネは言う。
「はい。スイカで、ピッってやってね」
杏は淡々とICカードをタッチしながら聞き流す。
「あーちゃん。レイネ、ラップしてみた」
「ラップじゃないです、オヤジギャグです」
改札を出ると、目の前には早川のせせらぎが流れている。
杏は指さして、ふと口元が緩んだ。
「ほら、あの川の音。いいでしょ? 都会じゃなかなか聞けないよ」
「うん、いいね。トーキョーサバクより、ぜんぜん落ち着く」
そのコメント、どこで覚えたの。
* * *
チェックインまで少し時間があるので、駅前の温泉街をぶらぶらする。
レイネはお土産屋の食品サンプルに「本物!?」と驚いたり、イロモノお土産代表『ゴリラのはなくそ』を手に「ごりらのはなくそ」と言って杏に見せてくる。
「あ、はい」
「ごりらのはなくそ」
「わかったから」
相手をしてくれない事がわかったレイネは、寂しそうに「ごりらのはなくそ」と言ってパッケージを戻すと、「どの層にウケるんだ、これ?」と呟く。
それは、こっちのセリフよ、と杏は思う。
途中足湯を見つけたレイネが声を上げる。
「なにこれ、足だけ温泉? 天才?」
「足湯っていうの。座って、足だけ浸かれるの」
「入ろ。入ろ」
明らかにテンションが高いレイネ。
しかし、見るからに人だかり。
「入りたいけど、結構待ちそうだよね...」
「大丈夫だよ」とレイネが足湯に近づくと、タイミングよく人が立つ。
「あーちゃん、こっちこっち!」
すご、この子、やっぱり何か持ってる?
* * *
夕方、二人は旅館へとチェックインした。
趣のある木造の門をくぐった瞬間、レイネのテンションが再び急上昇。
「うわぁ! 作りがすごい。木造?マジ木造? 感動!」
フロントに入れば、木彫りの逸品や調度品を見るなり、「人が作ったの?まじ?変態的じゃん!」
あまりにも貧相な語彙に、翻訳魔法がバグり始めたのかな、と杏は思う。
畳の廊下、障子の窓、ふわっと香るお香の匂い──
レイネはきょろきょろしっぱなしだ。
「こちらのお部屋です──」
部屋を案内してくれた仲居さんが去るなり、あれこれ探索し始める。
その様子にふと杏は思う。
見た目は大人、中身は子供──名探偵レイネ
「レイネー、浴衣選ぶよー」
押し入れを開けて観察中のレイネにお尻に向かって言う。
「私が、見て欲しいのそっちじゃないよー」
「ユカタ、ユカタ」
レイネは杏のところに戻ってくるなり、
「ヤダ、かわいい。ナニコレ」
「だから浴衣だってば──どれか選んで」
「ヤダ、どれもいい、全部ムリ?」
といった割には、あっさりと朝顔柄を選ぶ。
「左が上よ。右が上は、あの世の人だから」
「え、なにそれ、縁起コワ……!」
杏は着方を教えながら、帯を締める。
──ホント、出るとこ出て、へこむところへこんでるね。
杏も浴衣を着る。
「さぁ、温泉よ!」
* * *
そして、いよいよ温泉へ。
タオルを手に、大浴場に向かう途中も、レイネの好奇心の塊できょろきょろ周りを観察している。
「温泉入るとき、ルールあるからついてきてね」
脱衣所に貼られているインバウンド向け説明を一緒に読む。
・湯浴みをする
・温泉に入る前に体を洗う
などなど
「あと、書いてないけど湯船にタオル入れないで。あと、髪も結ぶの」
「はーい」
腰まである銀髪を杏は結びお団子にしてあげていると、レイネが注意書きを見ながら言う。
「お風呂で泳がないでって書いてあるけど──」
「うん?」と杏。
「温泉で泳ぐ人いるの?」
「子ども、とかかな?」
いざ浴場の暖簾をくぐる。
湯気がふわっと立ちこめて、ほんのり木の香りがする。
檜の浴槽にとうとうとお湯が張られている。
「ひろーい」レイネは声を上げると杏に聞いた。
「泳いでいい?」
「ダメです」




