2日の【悲報】は、女神の「3分」に溶けていく。
「ただいま……」
リビングの手前で、杏は小さく、か細い声でそう言った。
まるで、返事を期待していないかのように。
「あ。おかえりなさい」
返事はすぐに返ってきた。
レイネがリビングのソファから立ち上がり、出迎えるのがわかる。
しかし、杏はレイネの表情を怖くて見れない。
杏の視界に入るのは、レイネの足元だけ。
最初に罵声はない。
冷たい空気の方だ。
杏は胃が縮む。
「ごめんね、レイネ…」
杏は消え入りそうな声で謝る。
「ん? 何が?」と、いつものきょとんとしたレイネの声が聞こえる。
杏は、その声音に驚きレイネを見た。
レイネの表情は、やはりきょとんとしている。
長い耳がやや下がり、要領を得ない面持ちだ。
杏は、もう一度言葉を選びながら言った。
「何がって、その、旅行が…」
レイネは、杏の言葉を聞いて、「《《ああ》》」と納得したように小さく声を漏らした。
だが、その表情には、杏が想像していたような落胆や怒りは微塵もなかった。
「旅行のこと? また行けばいいじゃない」
あっけらかんとした、あまりにも軽い返答に、杏は拍子抜けした。
「連絡もできなかったし……」
杏がそう言うと、レイネは首を傾げた。
「レイネにはわからないけど、お仕事でしょ。居ないのは心配したけど、杏も大人だし」
レイネの表情も、声音もやはりいつもと何も変わらない。
「でも、丸二日…」
「あー、大丈夫。レイネにとって一日や二日って、地球時間で言えば3分くらい。だから全然平気だよ」
「怒ってない?」
杏は、確信が持てず、もう一度尋ねた。
「なんで? お仕事頑張ってきたんでしょ?」
レイネは、杏の質問を理解できない、とでも言いたげな顔をした。
「それより、見て見て、あーちゃん!」
少し興奮気味の声でレイネは、さっきまで読んでいたらしい本を、誇らしげに杏に掲げた。
「レイネ、横浜まで一人で行って、本買ってきた。電車も乗れたよ!」
嬉しそうに掲げられた本を見て、杏は目を丸くした。
『探求』
文庫本の表紙に書かれた2文字のタイトル。
飾り気は一切なく、作者名が「柄谷行人」と続く。
──何それ...
杏には、それが一体どんな内容の本なのか、全く想像がつかない。
しかし、そんな難解そうな本を、レイネが嬉しそうに掲げてくるその表情と、わからなすぎる本の題名とのギャップが、杏にはたまらなく面白かった。
フッと、吹き出す。
レイネのあまりにも純粋な喜びと、その場に満ちる温かい空気を感じた途端、杏を縛っていた感情の堰が、ぷつんと音を立てて崩れていった。
ケンジの理不尽な暴力に植え付けられていた恐怖。
言いたいことが言えない自分自身の弱さ。
約束を破ってしまったことへの罪悪感。
積み重なった徹夜の疲労。
ぐちゃぐちゃの思考の中、恐れていた「怒られる」「失望を買う」と言う思い──ずっと山積され、さいなまれた思いの全ては、現実にならなかった。
それらの全てが、レイネの屈託のない笑顔と、「頑張ったね」という温かい言葉によって、まるで泡のように消え去っていく。
押し寄せる安心感。
許されるという感覚。
なによりも、この人は微塵たりとも私を責めていない。
目頭が熱くなり、頬に涙が伝う。
杏は、その場で声を上げて泣き崩れた。
自分でも説明ができない感情の波が怒涛のように溢れる。
ひきつけを起こし、呼吸もままならない。
それでも嗚咽は止まらなかった。
レイネは杏の隣に腰を下ろし、そっと抱き寄せた。
「よしよし。あーちゃん、頑張ったね」
あたたかな手のひらで、杏の背中をゆっくりと撫でる。
「大丈夫。大丈夫」
レイネは杏を優しく撫で続ける。
いつまでも、いつまでも──




