【悲報】自分の家なのに、ドアを開けるのが怖い。
深夜のオフィスは、さながら戦場だった。
パソコンのファンの音がうなる。
熱を帯びた空気に、インスタントコーヒーと焦げた神経の匂いが混ざる。
目の奥に焼きつくディスプレイの明かりだけが、夜を照らしていた。
「いや、だから、あの仕様が最初から無理だったんだって!」
苛立ちを隠さない声が飛ぶ。
「今さら言っても仕方ない!手動かして!」
別の誰かが言い返す。
どこかで、コーヒーの空き缶が転がる音がした。
「月曜……本当に間に合うのかよ……」
ぽつりと漏れる声が、やけにリアルだった。
疲労、焦燥、不安、諦め──
混濁した空気のなかで、すべてが遠くから聞こえる。
杏はもはや朦朧とし始めた意識の中で、「時間感覚」というものを失っていた。
※ ※ ※
土曜の午前、プロジェクトに追加支援要員が投入される。
杏の直属の上長・結城他10数名。
さっそく結城から着信がある。
「支援要員だったのに、ありがとう」
落ち着いた声が聞こえる。
結城は「状況確認をさせてくれ。まず、質問にはYesかNOで答えてくれ」
そうい言うと、設問を投げかけてくる。
杏は、それにひとつずつ素直に答える。
「──わかった。今の確認を踏まえ、小鳥遊から状況と進捗を報告してくれ」
あらかじめの設問で、杏は自分が何を伝えるべきか整理できていた。
自分でも驚くほど冷静に言葉にできる。
結城は静かにうなずきながら、杏の報告を聞き終わる。
「想定タスクをまとめて、引き継ぎの準備を。できたら、私に送り、休憩に入ってください」
「休憩?そんな暇は…」
杏は義務感で口にする。
「睡眠負債はバグの元だ。精度が落ちる。いいから休め」
「すいません...」
『すいません。テスト項目不備に気付いていました』
その言葉は言えなかった。
電話を切る。
タスク整理をしていると、チームのチャットに通知が光る。
覇村からだ。
作業指示が出されている。
チーム編成、役割、休憩の指示。
追加テストへの段取りと指示事項。
あくまでもプロジェクトの指示命令系統を崩さない結城のアドバイスが入ったのだろうと、杏は思う。
報告されるチャットの内容は、徐々に落ち着きを取り戻していくかのようだった。
* * *
資料を送ると、仮眠を取るために休憩スペースへ向かった。
脳がじんじんと重い。
背中は鉛のよう。
時計に目をやると、もう土曜日の午後に近い。
──もう、家には帰れない。
手の震えをこらえながら、スマホを取り出す。
旅行予約サイトを開く。
にこやかなキャラクターが、「女子会旅」を推している。
予約確認のページ。
右上には、淡々と表示されたボタンがあった。
『キャンセルする』
指が止まる。
時間が戻れば。
あの時に戻れれば──
しかし宝くじが当たるような、そんな奇跡は起きない。
ため息と共に、タップする。
画面には『キャンセルが完了しました』の文字。
シンプルな文章が、今の自分の心のように、冷たく無機質だった。
(ごめんなさい、レイネ)
胸が、痛かった。
あんなに楽しみにしていたのに。
箱根。温泉。ロープウェイ。ピザの店も、美術館も。
「楽しみー!」って、あの子、笑ってくれたのに──
そして夜。
ようやく一気通貫テストがすべて通った瞬間、プロジェクトルームの誰かが小さくガッツポーズをした。
あああ、やっと……誰かが呟く。
安堵の空気が、ひと息だけ流れた。
けれど、杏はその輪に加われなかった。
静かに椅子に沈み、こみ上げてくる感情を押し殺す。
──間に合った。
システムは正常。
納品もできる。
なのに。
心の中にあるのは、安堵感でも、達成感でもない。
ただひとつ、拭い去れない後悔だった。
(もし、あのとき言えていれば──)
レイネの顔が浮かぶ。
あの子の笑顔を思い出すたび、胸の奥に棘が刺さる。
楽しみにしていた予定を、裏切ってしまった。
最初の一歩を踏み出せなかった自分のせいで。
杏は、握りしめた拳を静かに膝の上に置きながら、
ただ、耐えていた。
こみあげてくる涙で視界が滲む。
心の中だけで、そっと呟いた。
「……レイネ、ごめんね」
* * *
日曜日の朝。
小鳥遊杏は、鉛のように重い足を引きずりながら、自宅へと向かっていた。
昨夜遅くまで続いた緊急対応。
プロジェクトのバグ修正は夜通しの戦場となり、気づけば空は白み始めていた。
金曜の時点では、あんなに楽しみにしていた箱根旅行。
レイネと一緒に、温泉に浸かって、美味しいごはんを食べて──
そんな夢のような週末は、あっけなく崩れ去った。
疲れた…
けれど今、一番の問題はそこじゃない。
玄関の前に立ち尽くす杏は、自分でも意外なほど、体が動かなかった。
──帰りたくない…
自宅なのに。
鍵も持っているのに。
ドアの向こう側へ進むのが、怖くてたまらなかった。
あれだけ会いたいと思っていたレイネに、今は心の底から会いたくなかった。
逃げ出したい。
旅行をキャンセルしたこと。
連絡すらできなかったこと。
『楽しみにしてる』
何度も言ってくれた、レイネの笑顔を思い出すたび、胸が締め付けられそうになる。
レイネは怒るだろうか。
それとも、あきれて黙ってしまうだろうか──張りつめた呼吸が苦しくなる空気
それを想像するだけで、足がすくんだ。
自分の家のドアなのに、開けるのが怖いなんて。
ため息をするが、吸い込む息は詰まる。
そして、鍵を差し込み、ゆっくりとドアノブを回す。
「──ただいま」
震える声が、玄関の空気に滲んでいった。




