【悲報】異世界人と温泉旅行のはずが、深夜のオフィスでデスマーチ。
会議が終わった直後、杏は配布されたログファイルに目を通し始めた。
文字がびっしり詰まったファイルが、何十件も並ぶ。
エラーの発生箇所、システムの動作記録、テスト結果……。
(どこから手をつければいいの……?)
目は文字を追っているのに、意味が頭に入ってこない。
心拍だけが無駄に速い。
指先がじっとりと湿っていた。
焦りと緊張で、脳がまともに動かない。
それでも──やるしかない。
けれど、頭の片隅で、別の不安がじわりと顔を出した。
(……レイネに連絡、できない)
スマホに目をやる。
けれど、意味はない。
彼女はスマホを持っていない。
固定電話を引いていないし、あったとしてもレイネは使い方を知らない。
自宅にはタブレットがあるが、SNS関連のアプリは使用していない。
(このまま泊まり込みになっても、レイネに伝えられない……)
不安が、一つまた一つと重なっていく。
そんな中、会議用のチャットには次々と報告が飛び交う。
「ブロック間の整合性がとれていない箇所、多数発見」
「想定より広範囲にバグが波及している」
「修正対応は難航。手戻り発生中」
次々と流れる不具合の報告に、プロジェクトルームの空気がざわつき始めた。
そのなかで──
「できるところから全部直せー!」
覇村さんの怒鳴り声が響く。
(ちょっと待って、それ危ないって……)
全体の構造を把握せず、やみくもにバグを潰せば、整合性がさらに崩れる。
作業をやり直す羽目になるのは目に見えていた。
だけど杏は、言葉を飲み込んだ。
言えば怒鳴られる。責められる。
それがわかっていて、口が動かなかった。
(まただ……言いたいのに、言えない)
手元の作業に意識を戻す。
けれど、進まない。
画面の文字は滲んで、ピントが合わない。
時刻は、すでに深夜をまわっていた。
土曜になっている。
……もう帰れない。
なんで、こんなことに。
幸運体質じゃないの?
杏は、最近頻発した幸運な出来事を思い出す。
そこからの落差。
良いことがあれば、その分悪いことが起きる。
やっぱり、幸運体質じゃなかった。
レイネが来てから運が巡ってきたかと思ったけど──
──レイネ……
心が、ズキリと痛んだ。
あれだけ楽しみにしていた箱根旅行。
温泉に入って、景色を見て、美味しいものを食べて……
無邪気に「楽しみー!」とはしゃいでいた、あの笑顔。
(ごめんね。約束、守れそうにない)
積み重ねてきたやり取りが崩れそうになった時、胸の奥にチクリと走ったのは、別の後悔だった。
──そもそも、最初の段階で「これおかしくないですか」と言えなかった自分。
あの時、怖がらずにひとこと言っていれば。
面倒事を避けずに声を上げていたら。
ここまで事態はこじれていなかったかもしれない。
「必要なことを言ったときに、怒る人の方が間違ってるよ」
レイネの言葉が、頭の中で繰り返される。
あんなにまっすぐな言葉をもらったのに、杏はまた何も言えなかった。
今こうなっているのは、運なんかじゃない
プログラムは、運では動かない……。
必要な事を言えなかった、自分が招いたんだ..
疲労で重くなった身体に、後悔の鎖が絡みつく。
「ごめんね」
その言葉だけが、静かに何度も胸の中で反響していた。




