あと半日で週末だ。そしたら箱根。
金曜日の午前中。
小鳥遊杏はオフィスの片隅で、いつもと同じようにパソコンの画面に向かっていた。
モニターに並ぶ数字や文字列を、黙々と処理していく。
1週間の疲労があって、目の奥がじんわりと重いけれど、不思議と気分は悪くない。
それどころか、少し浮ついた気持ちすらあった。
──あと半日。
この数時間を乗り切れば、週末には『あの時間』が待っている。
(ついに……箱根)
思わず、顔がゆるむ。
先週からこつこつ準備していた、レイネとの温泉旅行。
予約を取った宿は、会社の福利厚生でちょっとだけランクを上げた。
部屋に露天風呂こそないけれど、食事の評価は高くて、内風呂も趣がある。
ロープウェイにも乗って、空から大涌谷を眺めて──
ガラスの森美術館のきらめくガラス細工の前では、あの子なら、本当に映えるに違いない。
温泉に浸かって、「あーちゃん、凄い!」って言いながら、湯気に包まれて笑うんじゃないか──
そんな想像が、自然と胸をあたためてくれる。
仕事中だというのに、ふと頬が緩みかけたそのときだった。
パソコン画面の隅に、1件の通知が届く。
『緊急会議。今から指定のURLに入ること。』
チャットグループの名称を見て、杏の心臓が一瞬止まりかけた。
──あのプロジェクト
数日前、設計書にはあった機能が、テスト項目から削られていた。
あのとき、胸に残った違和感が、未消化のまま燻っていた案件。
(まさか、まさか……)
頭の中が、すっと冷える。
高鳴っていた期待は、急降下していった。
* * *
オンライン会議の画面には、関係者たちの硬い表情がずらりと並んでいた。
カメラ越しでも伝わる緊張感。
嫌な予感は、的中していた。
冒頭、プロジェクトの概要が簡単に振り返られたのち──会議は本題へ。
「本日未明に実施した社内テストにて、重大なバグが複数検出されました」
報告したのは、テストを担当していたエンジニア。
その声には、動揺と疲れがにじんでいた。
「想定していた一気通貫テストが、通りませんでした。機能連携が崩れており、現在の状態では月曜の受け入れテストに進めません」
一気通貫が通らない。
それは、端的に言って「システム全体がまともに動かない」ということだ。
月曜朝から、ユーザーによる動作確認が予定されている。
そして、ユーザーの使用開始はその週の木曜日。
つまり──「延期」は許されない。
「よって、これより月曜朝までに、全バグの修正および再テストを完了させる必要があります。全作業メンバーに加え、補助要員も含めて、可能な限りの人員を投入します」
その言葉に、杏の背中を冷たいものが走った。
(……うそ、でしょ……)
まだ金曜日の午前中。
でも、月曜までにバグを潰して、一通りのテストを通すって──
それ、実質、丸2日会社に『缶詰確定』ということでは。
さっきまで頭の中で流れていた、箱根の湯けむりも、美術館のガラスも、レイネの笑顔も、全部、真っ白に消えていった。
(箱根、無理じゃん……)
呆然とする中、会議は進んでいく。
誰かが「原因は?」「どうして今まで気づかなかった?」と声を上げる。
だが、根本的なところには触れない。
──基礎的なテストを最初から削っていたこと。
誰も、それに言及しようとしない。
あの時、確かに違和感はあった。
でも、誰も言わなかったし、杏自身も「波風立てたくない」と黙ってやり過ごした。
(やっぱり、ちゃんと言うべきだったんだ……)
今さら、そう思っても遅い。
もう、今の彼女にできるのは、目の前の修羅場をくぐり抜けることだけだった。
杏の脳裏には、荷造りをするレイネの姿が浮かび上がっていた。




