見えないプレッシャーは世の常です
日曜の夜──
純金が文鎮と化した昨日から一夜明け、ナンバーズ4の当選。
杏の心には束の間の安堵が戻っていた。
(よかった……これでカードローン生活は回避……)
だがその隣には、別の意味で『頭が痛くなる』風景が広がっていた。
リビングのテーブルの上。
哲学書と医学書に囲まれながら、レイネは中学受験問題集を開いている。
どうやら、『重心の求め方』を解いているようだった。
──その横には、旅行雑誌。
そして、さらなる爆弾が一冊。
『ゼクシィ』である。
煌びやかな表紙、やたらとデカい「結婚式特集」ロゴ。
そして祝福の花が舞い散る。
あきらかに周囲の書籍陣とジャンルが違う。
「……ねえレイネ」
杏は、地雷本を指差しながら声をかけた。
「なんでゼクシィ買ったの……?」
レイネは問題集から顔を上げ、無邪気に言った。
「それ? カートに入ってたからポチっと!」
「……あ、私の過去のカートね……」
──聞きくんじゃなかった。
カウンターパンチを喰らった杏は、もうひとつの『気になる本』を見て思う。
それとなくゼクシィを置いたときの、無言の圧と男性の気持ちは、こんな感じなのかと。
もちろん、レイネにそんな意図はこれっぽっちもない。
それはわかっている。
きっと、ただの好奇心だ。
だが問題は、ゼクシィと並んで『日本の歩き方』があるせいで──杏は『無言の圧』を強く感じる。
ふと、杏の脳裏に浮かぶ。
過去のダメ男たち。黒歴史ダイジェスト。
──ユウマ「悪い、ちょっと金かして?返す返す(返さない)」
(お前、財布にしか興味ないだろ……)
──ケンジ。自宅に居座りながら、こそこそスマホで浮気相手とLINE連打。
(その親指、封印したろか)
──そして、最大の黒歴史・タケシ。
同棲までしたのに、不機嫌→無言→説教→最終的に、グー。
(私の人生、どこで迷子になった?)
杏はため息をつく。
その横で、レイネは問題集に向かいながら「鉛筆削りってすごい発明だよね」と感心している。
なんだろう、この安心感。
でも消えない『焦燥感』。
妹は大学時代からの彼氏と順調に結婚して、今や一児の母。
地元の病院で看護師をして、家族みんなから愛されてる。
両親が何も言ってこなくなったのも辛い…。
そんな私は──
ゼクシィと哲学書に囲まれて、『異世界人とルームシェア』してる。
「……はぁぁぁぁ……」
再び深いため息が漏れた。
響いた空気は、ちょっぴり重たくて、ちょっぴりおかしかった。
* * *
「……はぁ……」
杏のため息は、今日2回目。
リビングの空気が少しだけ重くなった瞬間──
中学受験の問題集を解いていたレイネが、ぴたっと手を止めた。
「あーちゃん、どうしたの?」
杏は、咄嗟に笑顔を作った。
「うん、大丈夫。仕事のこと」
とっさに嘘をついたが、それはそれで、杏の心の中の心配の種だった。
あの覇村さんの指示で進められているプロジェクト。
テスト項目を削減したまま進めれば、きっと、どこかでバグが出るだろう。
分かっているのに、何も言えない自分が嫌だった。
「ため息つくと幸せの妖精さん逃げちゃうよ」
レイネは相変わらず、ほんわかとしゃべる。
「……妖精さん?」
杏は、ため息をついた自分を思い返しつつ首をかしげる。
「うん。妖精さんが死んじゃう」
翻訳魔法のせいか、つたなく訛るのが救いだ。
「……それ、けっこう切ないやつ……」
ため息で死ぬ。
だとしたら、死屍累々《ししるいるい》の三十路ではないか。
「するなら、深呼吸」
微笑みながらレイネはまた問題集に戻った。
その横顔を見ながら、杏はこっそり考える。
(この子、ほんとに異世界から来たんだよね……?)
最初に降臨したとき、正直「詐欺?ドッキリ?バグ?」と脳内エラーを起こしかけた。
だが今や、杏の生活にすっかり溶け込んでいる。
レイネが使役するブラウニーちゃんで、部屋はいつもピカピカ。
ティッシュの箱は空になったらすぐ補充されるし、脱ぎ捨てた靴下がいつの間にかたたまれて戻ってくる。
何これ、暮らしの神?
※注:杏はレイネが女神であることまだ知りません
それに比べ、杏が付き合っていた男たち──
脱ぎっぱなしの服、残しっぱなしのカップ麺、放置された電気。
誰一人として、自分の部屋を「清潔」に保ってくれた者はいなかった。
杏は彼らの不機嫌さに気を使い、プライドを刺激しないように自分は我を押し殺す。
かくいう自分は、何かをしてあげないと自分を保てないのに、やがて自分が我慢の限界を超える...
そして、今──
髪は魔法で一瞬で乾き、洗い物がシンクに貯まっていることはない。
レイネは料理を始め、家に帰るとご飯がある。
杏のルーチンを邪魔することなく、仕事の話をしても、嫌な顔一つしない。
好奇心もあるのだろうが、「それでそれで?」「どうなったの?」と、話を促して真剣に耳を傾けてくれる。
「……もし、あの最悪な日にレイネが来てなかったら……」
つぶやくように、杏は心の中で考える。
あの日、冷蔵庫の前で心が折れかけていた自分を、レイネは引っ張り上げてくれた。
「ねぇ、レイネ」
気づけば口にしていた。
「なーに?」
「もしさ。金の延べ棒がちゃんと換金できて、お金に余裕があったら──何したい?」
その質問に、レイネの目がキラリと輝いた。
「旅行!」
即答だった。
「弘前公園だけじゃなくて、もっともっと色んな場所に行きたい!
あとね、夜景が綺麗なとことか、お祭りとか、街で人がいっぱい歩いてるとことか……」
両手をぱたぱた動かしながら、レイネは話し続けた。
杏はそれを見て、ふっと笑う。
(そうだよね。観光しに来たんだもんね、この人)
なんというか、この空気感。
お金の話をしてるはずなのに、妙にあったかい。
そして、杏の口から自然と出ていた。
「じゃあ、今度の週末、旅行行こうか。ナンバーズ当たったし!」
「えっ!?いいの!?ほんとに!?やったーっ!」
バンザイするレイネの服は、いつもの豚ジャージ。
もう何かがはみ出ることもない。
これなら──安心して旅に出られそうだ。




