なんでもないどころじゃないです
「ううん、大丈夫。なんでもないよ」と杏が答えるとレイネは、じっと見てくる。
そして次の瞬間──。
「そういえば、あーちゃん。ごめんね」
レイネが口を開いた。
「旅行代とかレイネが何とかするって言ってたけど、まだ渡してなかったね。こっちの世界のお金ってどうなってるか、まだよくわかってなくて……」
レイネは申し訳なさそうに笑いながら、腰の『がま口財布』に手を伸ばす。
「だから、どの世界でも価値が変わらないもの──」と言って、がま口財布に手を突っ込む。
その手は、肘あたりまで飲み込まれている。
──ちょっとー、物理法則反してるー!
驚くのもつかの間。
「これを持ってきたんだ」
レイネそう言って、がま口からがま口よりも大きな物を取り出す。
「……えっっっ?」
杏の目の前に差し出されたのは、 キラリと金色に光る金属の延べ棒。
「純金持ってきた」
レイネは、飴ちゃんあげると言うおばちゃんのノリで言う。
片手で持てるサイズ、でも明らかにずっしり重い。
しかも、それが2枚。
「純金? それに、がま口って、四次元ポケット!?」
驚愕のあまり思わずツッコむと、レイネはすました顔で返してきた。
「四次元? やだな、あーちゃん。四次元じゃ足りないでしょ? これは十一次元ポーチです」
あーちゃん、面白いこと言うね、とレイネは呟く。
「足りるとか足りないの問題!?」
杏はすでに思考停止気味だった。
出てきたアイテムもすごいが、それ以上に──
今、この場で淡々と語られている“価値観の異次元さ”がすごい。
だけど。
それでも。
杏にずしりと来たのはこの後だった。
レイネはまっすぐな声で、こう言った。
「あーちゃん。必要なことは、ちゃんと教えて──」
その声音には、責めるような響きはまったくなかった。
「レイネは杏じゃない。だから、杏のことは、ちゃんと話してもらわないと分からないの」
ただただ、真剣で、優しくて、そして少しだけ寂しそうに続ける。
「それに、まだこっちの世界のこともよく知らないし……」
指先で髪を絡める。
「だからね、遠慮しないで教えてほしいの。私、怒ったりしないから》》」
むしろ──と、レイネは微笑んだ。
「もし、必要なことを伝えて怒る人がいたら、それは言った方じゃなくて、怒った人の方が悪いんだよ」
──ああ、そうだ。
職場でも。今日の件でも。
レイネの買い物のことでも。
言いたいことはあったのに、言えなかった。
怒られるのが怖くて。嫌われるのが怖くて。
”波風を立てない”ことばかり考えて。
「……そうだね」
杏は、ぽつりと返す。
「気を使わせちゃって、ごめんね」
金の延べ棒よりも、次元ポーチよりも。
何よりもずっしりと杏の中に残ったのはレイネの言葉だった。
* * *
その夜。
杏はベッドの中で天井を見つめていた。
「必要なことは、ちゃんと教えてほしい」
レイネの言葉が、まだ胸の奥でじんわりと残っている。
言いたいことがあるのに、言えない。
どうしても、飲み込んでしまう。
自分を守ってるのか、相手を気遣ってるつもりなのか──もう、分からない。
スマホを手に取り、業務チャットを開く。
田中くんとのスレッドに、途中まで打ちかけたメッセージが残っていた。
『やっぱり、あれ、言ったほうがよくない? 私も一緒に行くからさ』
画面の下に、点滅する「送信」ボタン。
杏は、指をのせかける──
けれど、その手は、ほんのわずか震えていた。




