ずしり、ずしり
午後からは出社。
杏は主担当のプロジェクトに関する関係者と打ち合わせをする。
テレワークもいいが、直接会って話すとだいぶ進捗したような気分にもなる。
フリーアドレスで空き席を探していると、例の田中くんがいる。
「──いま、大丈夫?」
杏は、猫背で眼鏡の寝ぐせがまだついている田中くんに声をかける。
「例のテスト項目……やっぱりマズいと思うんだよね」
「ですよね。僕もそう思うんです。でも……」
相変わらずぼそぼそと早口でしゃべる。
「……ほら、覇村さん、いるじゃないですか」
(うん、知ってるよ。胃が痛くなる名前だよ)
田中くんいわく、上司に相談してみたこともあったらしい。
でも、やんわりと「その判断は覆らないよ」と止められたそうだ。
「たぶん、上も逆らえないんだと思います」
──わかる。わかるけど……だからって黙ってていいの?
杏の中で、ぐるぐると思考が回る。
自分の担当範囲ではない。関係ないと言えば、関係ない。
あくまでも自分は、工数不足を支援する補助要員で、指示された部分を処理する役割だ。
このままプロジェクトオーナーに任せればいいんだ。
でも──
(仮にこれでバグが出て、炎上したら?)
そのとき、誰が困るのか。
誰が修正に追われるのか。
誰が「ちゃんとチェックしてなかったのか」と問われるのか。
──たぶん、田中くんたち。プロジェクト担当者達だ。
けれど、誰がそれを“最初に”言うのかといえば──
(私……じゃないよね?)
ぐるっと視線を巡らせても、誰も何も言いそうにない。
いや、言えないのか。言いたくても、言えない。
言ったところで空気が悪くなるだけ、そんなの損だ、って。
仕事が終わり、退勤。
夕方の空は、昼でも夜でもない、グレーがかったオレンジ。
春めいてきた月曜の夕日とはまるで違った。
電車に揺られながら、杏はスマホで銀行口座を開く。
そこに書かれている数字は、数万円のみ。
──足りない。
ああ、このままではカードローンデビューか?。
32にして、カードローン。
──情けない…
ため息が出る。
それは、残額だけが要因ではない。
午前中にチャットで見てしまった「抜けてるテスト項目」の話。
あれ、見なかったことにしていいの? 本当に?
それに加えて──
(レイネ、勝手に買い物してたなぁ……)
高額の医学書、哲学書、ゼクシィまで。
しかもレイネ、めちゃくちゃ嬉しそうにしてたし。
言いたいことはあるのに、言えない。
「レイネ、生活費や旅行代出してくれるって言ってたよね?」
口に出す勇気が出ない。
どんよりとした気持ちが積み重なるだけ。
何も言えない自分が情けなくて、気づけば何度もため息が出ていた。
(どうして、いつもこうなんだろう……)
***
家のドアを開けると、レイネがリビングから顔を出す。
「おかえりなさい、あーちゃん!」
「……ただいま」
昨日のように、笑って返そうとした。けど、うまく笑えなかった。
「……あーちゃん、なんかあった?」
そう言われた瞬間、杏の喉の奥で、何かがつっかえている気がした。
「ううん、大丈夫。なんでもないよ」
そう返したけど──
(なんでもない、わけじゃないのに)
言葉だけが、空しく部屋に響いた。




