お帰りなさい
自社に戻り、杏は打ち合わせの報告書を淡々と仕上げていた。
──が、指が止まる。
頭の中では、あの佐々木さんの言葉の後に続いた内容が何度もループしていた。
『小鳥遊さんの仕事ぶりについては、以前から社内で良い評判を聞いておりまして…』
『今よりももう少し規模の大きな事業に…新しいフィールドに挑戦してみたい、といったお気持ちが少しでもあるようでしたら…』
誰にも褒められたことのない自分が、まさか評価されてたなんて。
地味で真面目で、要領がいいわけでもなくて。
それでも、ちゃんと見てくれる人がいた。
──私、そんなふうに見られてたんだ…
報告書を提出して、定時で退社。
月曜の帰宅ラッシュは相変わらずギュウギュウだったが、不思議と気持ちは軽い。
自宅最寄りのスーパーで、夕食の食材を選ぶ。
(レイネ、こんなの食べたら喜ぶかな…)
並ぶ総菜や刺身、サラダ。色とりどりの野菜。
(ベーコンエッグ程度であんなに喜ぶ姿を見ると、こんなのあげたら──)
昨夜の夕飯も嬉しそうに食べてたレイネの姿を思い、杏はふと思う。
今日、彼氏の事が頭の中に出てこなかった。
その分、違うことに頭のリソースが割り当てられた。
そして何よりも、今はしてあげたいという気持ち
──ちゃんとしないといけない、してあげないといけないという、今までの彼氏との生活で感じていた圧ではない。
レイネにしてあげたいという気持ちには大きな違いがある事に気づいた。
──日が伸びてるな
夕闇に染まる町並みから見える空は、少しだけ春の色を含んでいる。
浮足立つような気持ちを抱きながら、マンションに向かう。
* * *
自宅に戻ると、「おかえりなさい」とレイネの声が迎えてくれた。
部屋に灯る明かりと、誰かが待っているという事実が、心をふっと温める。
「ただいま──って、なにしてんの?」
リビングでテレビを見てる風なレイネ。──が、画面真っ黒。なにも映し出されていない。
「テレビ見てた」とレイネ。
「いや電源ついてないじゃん」
杏がリモコンで電源を入れると、画面が一気に明るくなった。
「おおっ!?急に動いた!これ、こうやって使うのか!」
レイネの表情も明るくなる。
「えー、ずっとこのまま黒い画面みてたの?」
「どうりで。”テレビでも見てて”って、あーちゃん言うから、見てたんだけど、何が面白いんだろうって思ってた。こっちの人は変わった文化をお持ちで…」
テレビ番組より、仕組みの方が気になったのだろう。
立ち上がり、テレビの裏を覗き込むレイネに声をかける。
「まさか、一日中、真っ黒い画面見てたの?」
「ちがうよー」と否定しながら、タブレットとは違うんだね?人が中に入ってるわけでもなくて、どうやってんだろう?などとぶつぶつ独り言を言っている。
「ところでね」
レイネがふと振り返る。
「絵とセリフが一緒にある本、すごいね。革新的だよ。他にもある?読みたい」
「……あー、漫画ね」
「うん、『最終兵器彼女』っての、読んだんだけど──きゅんきゅんしちゃった」
「えっ、そのチョイスで!?しんどいやつ読んだなあ…」
まさか異世界人が、朝から重めのラブストーリーで心を揺さぶられるとは思わなかった。
「あ、あと。なにか、良いことあった?」
レイネが言った。
「わかるんだ?」
顔に出てたのかな。
「なんとなくね」
そう言うレイネはまたテレビの裏を覗いている。
杏は、少し考えてから「うん」と答えた。
言ってもわからないだろう──そう思っていたが、気づいたら口が動いていた。
通勤電車でたまたま座れたこと。
いつも不機嫌な甲田さんが今日は何も言わなかったこと。
新しい人に出会って、仕事ぶりを褒められたこと。
──そして、転職を勧められたこと。
「そっか、いい日だったんだね」とレイネは優しく微笑んだ。
仕事の話を真剣に聞いてくれる人がいるというだけで、胸の奥がじんわりした。
「春、早く来るといいね。あったかい日が、もっと増えたらいいな」
その言葉に、レイネはそうだね、と頷いた。
「うん、あったかいの好き。あと桜も。見に行こうね、絶対」
その約束の温かさが、月曜の疲れをふわりと溶かしてくれた。




