変化の兆し
月曜日の朝。
「さすがに、まだ届かないかー……」
杏は、ひとつため息をついた。
即日発送に賭けて注文したレイネ用の服と下着。
だが宅配業者がくる気配は皆無だった。
「まあ、日曜昼じゃ無理よね……」
スーツに腕を通す。
今日は在宅勤務じゃない。
しかも朝イチで、あの苦手な取引先に直行しなければならないのだ。
ジャージ姿で寝ぼけ眼のレイネが、リビングからひょっこり顔を出した。
「あーちゃん。あわただしい」
「ごめんね。今日は会社行かないと。とりあえずお留守番してて」
「うん。わかった。ぼーっとしてる」
タブレットとマンガを渡しながら、杏はバタバタと身支度を続ける。
「あ、冷蔵庫に惣菜パン入ってるから。お腹すいたら食べててね。テレビも見ていいよ、リモコンこれ」
レイネはリモコンを受け取って、真顔でじーっと眺めた。
「これは……ケータイ?」
「ただのリモコンです」
靴を履きながら、杏は最後に一言。
「じゃ、行ってきます!」
「いってらっしゃーい!」
手を振るレイネに見送られ、杏は重たい月曜日の世界へと旅立った。
* * *
湿気を含んだ空気が、肌にまとわりつく。
(あー、また一週間が始まっちゃった……)
杏はマンションのエントランスを出て、いつもの電車通勤ルートに足を向けた。
今日の予定は、苦手な取引先との打ち合わせからスタート。
相手は、毎度おなじみ“威圧の塊”こと甲田さん。
常に威圧的で、粗を探す。
資料の本質的でない箇所──句読点の位置など──の指摘で、10分-20分ねちねちと費やすタイプだ。
杏にとっても、同僚にとっても天敵のような存在だ。
その証左に、普段なら同行するはずの担当営業も来ない。
孤軍奮闘は確実だ。
(セキュリティパッチの説明するだけなんだけどな……もう、胃が重い)
技術的には単純でも、相手が甲田さんじゃ何が起きるかわからない。
杏は心の中で何度もリハーサルを繰り返しながら駅へ急いだ。
──そして、電車。
月曜の朝の通勤ラッシュに、心の中で舌打ち。
(混んでる…座れるわけないか)
人波に押され、ずるずると車両の奥へ。
立ちっぱなし確定だと覚悟した──その瞬間。
「……え?」
目の前の席が、ぽっかり空いた。
まさかの奇跡。
しかも一歩も動いてないのに、タイミングだけでスルッと座れた。
(……え?なに?今日、運勢Sランク?)
パソコンを開いて、通勤ラッシュの中で静かに資料をチェックする。
誤字をひとつ、ふたつ、丁寧に修正していく。
(あと念のため……あの人、突拍子もない質問してくるしな)
万が一を想定して、関連資料や参考価格の文書も開いておく。
──ああ、早く終わりたい。
担当が変わってくれたらいいのに。
とこれから始まる会議のことを思う杏は、やはり憂鬱の塊だった。
* * *
取引先のオフィスに着いた頃には、少し汗ばんでいた。
緊張と湿度と月曜日の重圧。
全部まとめてスーツに染み込んでいる気がする。
会議室のドアを開けると、そこにはいた──甲田さん。
見るのも嫌だなと杏は思うが、いつもと甲田の雰囲気が違う。
しおれているというか、所在なさげに席についている。
(何かあったのかな? それでも、胃がキュッとする…)
とりあえず挨拶し、席に着くともう一人──見慣れない男性の姿が目に入った。
30代くらい、黒縁メガネ、穏やかそうな顔つき。
「今日から参加する佐々木です。よろしくお願いします」
(……新入りさん?)
打ち合わせが始まり、杏は資料に沿ってセキュリティパッチの説明を進めた。
緊張しすぎて手汗でタブレットがスベる。
(誤字……直しきれてないの残ってるじゃん!)
背筋が凍ったが──甲田さんは何も言わない。
むしろ、うなずいている。
(えっ、今日の甲田さん……やさしい!?)
予想外すぎて逆に怖いが、このまま逃げ切るしかない。
無事に説明を終えると、佐々木さんが口を開いた。
「今の説明、非常に分かりやすかったです」
えっ。
今のって、あの誤字残したやつですよ?
「パッチを繰り返すより、そろそろシステムごと見直した方がいいかもしれませんね。刷新のメリットと課題感、聞かせていただけますか?」
(……キタ!そういう系の質問、電車で準備したやつ!)
杏は用意していた補足資料をすっと開き、
費用対効果、リスク、スケジュール見通し──プレゼン講座で学んだ構成そのままに、落ち着いて説明した。
佐々木さんは熱心にうなずき、質問も的確だった。
(この人、甲田さんとは違うタイプだな…ちゃんと“聞いてる”)
そして打ち合わせが終わり、荷物をまとめていたその時。
佐々木さんが声をかけてきた。
「小鳥遊さんって、弊社内で評判いいんですよ。丁寧で、ちゃんとしてるって」
「えっ……そうなんですか?」
そんなこと、初めて聞いた。誰も言ってくれなかった。
「もし今の仕事で、何かしら行き詰まりや、変化を求める気持ちがあるなら──ぜひ、一度お話させてください」
その言葉は、杏の中で小さな石を投げたみたいに、静かに波紋を広げていった。
(転職の…? 誘い?)




