冷蔵庫の中と凍り付いた想い
プロローグ
「──って、あんた誰ぇええぇぇぇ!?」
その悲鳴が部屋中に響いたとき、杏の理性は冷蔵庫ごと吹っ飛んでいた。
* * *
数時間前──。
小鳥遊 杏は、ぼんやりと窓辺に立っていた。
引っ越しのトラックが角を曲がるのを、ただ見送るだけだった。
そのトラックは、別れた元カレ・タケシの荷物を持ち去っていく。
「……終わったんだ」
風が、春なのか冬なのか判断しきれない微妙な冷たさで、頬を撫でる。
四年の交際にしてはあっけない幕切れだった。
最後の一言は「お前には飽きた」
これが最終回だとしたら、人生の脚本家に石を投げたい。
部屋は、がらんどう。
冷蔵庫の音が妙に響く。
座った床の冷たさが、変に気持ちよかった。
そのまま寝そべる。
「このまま、消えたい──」
どれぐらい時間がたっただろうか。
杏は空腹を感じていたが、起き上がる気力もなく、涙でぼやける床を見続けた。
ぱちぱち。
突然、天井の蛍光灯が点滅し始めた。
パチパチ。
──停電?
ガタンッ!!
冷蔵庫の方から音がした。
──え? なに?
杏は四つん這いで、冷蔵庫に近づく。
それは、ブーンブーンと唸り声をあげていた。
まさか、冷蔵庫も故障?
電化製品も私から離れていくの?
みんな、さよなら──と思った時だった。
冷蔵庫の扉が、ゆっくりと丁寧に、勝手に開いた。
──え? ひと? ひとだよね?
開かれる扉を、細く白い手が押している。
白い法衣のような服を着た、銀色の長い髪の女だ。
貞子ー?
とあるホラー映画のネタを思い出す。
ちがう、あれはテレビからだ。
こっちは冷蔵庫。
でも、リアルタイムであの映画は見たことないぞ?
お笑いのネタで見ただけだ。
え、ほんとは、冷蔵庫だっけ?
あ、多分冷蔵庫だ。
ま、まさかお迎えー?
消えたいって思ったけど、お迎えが貞子ー?
杏はパニックに陥りながらも、頭の片隅で境遇を嘆いた。
青白い冷気とともに冷蔵庫から出てきた女は、部屋に降り立つ。
「んんー」と解放感たっぷりに背伸びをする。
そして──
ぱちんッ。
音を立て、法衣の胸元のホックが外れる。
「あーもー」と、なにやらぶつぶついいながらホックをはめなおす姿は、妙に人間らしい。
けれど、横顔は整いすぎていて、なによりも目立つのは、その尖った耳だ。
──ひとじゃない? あ、こっちみた。
ライトグリーンの瞳が杏に向けられ、にっこりと微笑んでくる。
「──って、あんた誰ぇええぇぇぇ!?」
その悲鳴が部屋中に響いたとき、杏の理性は冷蔵庫ごと吹っ飛んでいた。
* * *
「縺阪∪縺輔≧縺ァ縺ッ縺ェ縺▒▓█░▲▼」
そのエルフ耳の女は何か声を発した。
が、杏の耳には意味のわからない音にしか聞こえなかった。
──え? 話しかけてる? 意味わかんない。
この異常事態に、杏の心臓はバクバクと頭の中まで響く。
女は困ったような表情を浮かべたあと、もう一度微笑んだ。
“驚かせてごめんなさいね”
──頭に声が響く? なにこれ、こわっ!
杏は恐怖で後退し、床でじたばたともがく。
けれど腰が抜けていて逃げられない。
杏の混乱はピークに達していた。
女は困ったようにため息をつく。
また何かを呟くと、右腕にうっすらと燐光が帯びる。
冷静な表情のその女は、近づいてくる。
──やだ、ちょっと、あっち行って!
近寄らないでッ! たすけてー!
女の手が杏の頭に触れる。
その瞬間、ざわめいていた脳内が、すっと落ち着く。
頭の中で鳴り響く、鼓動の音もない。
波打つ心臓の動きも、静かになる。
それどころか、いままで感じたことのない、クリアな気持ち。
さっきまで胸の中にどんよりと居座っていた気持ち──失恋の思いも、後悔から宿る自責の念も消えている。
「驚かせてごめんなさいね、私の名前はレイネ」
再び微笑んでくる。
今度は日本語ではっきりと言った。
「こちらの言葉でいう『異世界』から来ました」
「い、異世界?」
「はい。異世界。こっちの世界に来るための扉を探してたら、ちょうどよかったんで」
レイネが指さす先には、冷蔵庫があった。
「──冷蔵庫ね」
「れーぞーこ?」
レイネは首をかしげる。
「え? 冷蔵庫知らないの? どういうこと?」
落ち着きを取り戻した杏は、床に座りなおした。
「私の世界には無いものですね。れーぞーこーとは、なんですか?」
レイネは首を傾げる。
さらさらとした長い髪が揺れた。
「冷蔵庫も知らないなんて、宇宙人と話してるみたい」
何が起きたんだ、私の人生。
そう杏は思った。
「あ、宇宙人じゃなくて、異世界人です。さっき言いませんでしたっけ?」
レイネはきょとんとした表情を浮かべる。
「どっちでもいいわ」
杏は呆れたようにそう言うと、レイネは不服そうに口を尖らせた。
「えー? あっちはピンクで足4本ありますよ。心外です」
それに、ぱっぴー道具とか出すんでしょ?
レイネ、そんなの持ってない。
そう言って、あきらかに不服な表情を浮かべた。
一体何の話だ?
杏はそう思いながら、冷蔵庫が何であるかを説明する。
「なるほど。食料貯蔵庫みたいなものですね」
レイネと名乗った異世界人は、ぽんと手を打つと続けた。
「確かに食料貯蔵庫から出てきたら、驚きますね!」
いや、そうだが、そうじゃないだろ。
ツッコミが追い付かんと杏は思った。
困惑している杏を置き去りに、レイネは思い出したよう言った。
「突然来て、突然お願いするのも変ですが──」
一緒に旅行、行きませんか?日本旅行。
そう、レイネは言った。
──は?旅行?
その提案を聞いて、杏の思考が一瞬止まった。
……いや、なにその展開。
冷蔵庫から出てきて、旅行?
フリーダムすぎるでしょ。
レイネは杏の返事を待たずに続ける。
「こちらの世界来たばっかで勝手がわかりません。費用はすべて私が持ちますので──」
ガッツポーズをとるように、力を込めて言った。
「案内人として、一緒に行きましょう!」
”会話とはキャッチボール”
杏の頭の中によぎる常識。
異世界人には、その概念が無いのだろうか。
でも、費用持ち?タダで旅行?
ふと、自分の今の状況を思い出す。
失恋。
無気力。
空っぽの部屋。
未来の予定ゼロ。
冷蔵庫から異世界人。
──明らかにおかしな現実……これは、夢か。
「タダなら、いいよ」
夢だし。と杏は思う。
その答えに、レイネは花が咲いたような笑顔を見せた。
「ありがとうございます。これから、よろしくお願いしますね」
その笑顔を見ながら、杏は思った。
……妙にクリアな意識の中で見る夢だなあ、と。
こうして、冷蔵庫からやってきた異世界女子・レイネ。
失恋でどん底、失意真っただ中な杏の、奇妙でちょっとおかしな日常が始まったのだった。




