京都は見るもの、奈良は感じるもの?
ここ数年来の京都はものすごい人で、新幹線で京都駅に着くと大きなキャリーケースを転がしながら歩く外国の人々であふれている。いつからこんな感じになったのだろうと記憶をたどるけれど確かなことは思い出せない。昔からたまに京都に行くことはあったけれど、近年私用でよく京都を経由することが多く、せっかくここまで来たのだからと、思いついた神社仏閣やお庭に足を向けるようになった自分も多くのにわか観光客の一人にすぎないから。
たしかに魅力的で、それは年を重ねたからより感じるようになった気がする。個人的にはTV番組の影響も大きいのだと思う。様々な京都の自然、歴史、食、文化の美しさや魅力を紹介する番組のなんと多いことだろう。それらを飽きることなく見ている自分。そんなに紹介するに足る中身があるということなのだとも思う。
山々に囲まれ、風情ある川が南北を貫き、比較的コンパクトなエリアに都会的な「今」と、そこにごく自然に「古」が混在し、「犬も歩けば棒にあたる」ではないけれど「ちょっと歩けば見どころにあたる」という感じがする。
自分もその一人なのに観光客の多さに辟易するけれど、素通りはできない気がする街。
初夏の青もみじを透過する木漏れ日、秋の見上げた空に重なる少しずつ色の異なる紅葉の様に「ああこうして着物の柄が生まれるんだろうな」などと自然の美しさから生まれたであろう日常の美を納得させられる。連綿と続く歴史やその中に息づく伝統や文化など詳しくは知らないけれど「美しい」ということを目にして感じられるものが随所にあり、人はやっぱりこんなにも「美しいもの」に引かれてしまうのだと実感する。
少し前だけれど奈良の小さな駅のホームに置かれた自販機に「京都は雅、奈良は鄙び」というキャッチコピーを見て「うまいこと言うな~」と感心した。
最近奈良を散策する機会が増え、京都ほどではないけれど確かに奈良も外国の観光客が増えたことを実感する。商店街の飲食店なども少しずつだけれどずいぶんお洒落な店も増えた。ただそれがちょっと寂しい気もする。奈良は見どころが点在し、それらの多くを短時間で訪れることができない上に、一か所一か所も広くて見るのに時間がかかってしまう。奈良の良さを味わうには時間がかかるのだ。東大寺に行けば、何といっても大仏様や仁王像はそのスケールに圧倒されるけれど、私は二月堂から見る奈良盆地の景色が好きだ。生駒山に対峙してベンチにぼんやりと座っている時間が心地よい。県内一の中心部でも高い建物が無いからだろう。
当麻寺近くの食事処で、お茶を飲みながら低くたなびく薄い雲間に見える大和三山が、ずっと昔もこんな景色だったのかなと心に沁みた。変わらないものの中でゆっくり流れる時間の「心地よさ」という不思議。現代の産物である電車が横切る平城宮跡は、朱雀門や大極殿など復元された建物があるとはいえただただ広い原っぱという気がするけれど、多くの観光バスが止まっている。そこに見えるものはそんなにも無いけれど、古の人が行き交っていた同じ場所に立つことで古の人々の息遣いを感じることができるのかもしれない。より時をさかのぼり記録が少なく謎も多いことにより想像力をかきたてられロマンを感じるのかもしれない。
そんな風に考えると、京都は見てその魅力を堪能できる街、奈良はその魅力を感じる街という気がする。そして、これからも京都は変わりながら輝く都、奈良は変わらない魅力がある都であってほしいと願う。
例えば京都の禅寺の座禅などのように感じる魅力や、奈良の吉野の桜の見事さといった事も多々ありますので、あくまでもざっくりとした一つの感想です。




