結婚式の朝に裏切られた私
何となく予感はしていた。
兄嫁のレオニーは私の婚約者のノーランが我が家に来るたびに必ず、私と彼のいるところに顔を出しては、ノーランの言葉に大げさに反応し、彼に対する好意を隠しもしなかった。彼女がノーランに頻繁に触れるのも、気になると言えば気になった。
でも、私は彼女は人妻だから男性とのやり取りに慣れているのだろうと自分を納得させていた。
兄のクライヴは、彼が十九歳の時に父が病気で亡くなり、侯爵家を継いだ。
それから二年ほどは、留学先から帰って来た第二王子サミュエル殿下の側近を務めていたのだが、領地の政経に力を注ぐために、退任させてもらった。
結果、兄は領地に赴いている時間が多くなり、二十二の時にサミュエル殿下の口利きで結婚したレオニーともすれ違いの日々が続いていた。
いや、すれ違いと言うより、レオニーが領地に行きたがらず、兄と一緒の時間を持とうとしなかったからなのだが。もうかれこれ一年半ほどにはなるだろうか。
私や母も夫婦の事なので一切の口は挟まなかった。だが、彼女は頻繁にお茶会や観劇に行ってはドレスを新調するので、そのことには母が苦言を呈したこともある。
その後、ノーランとのお茶会で「うるさい姑がいる私は可哀そうな嫁」と愚痴ったのには、本当にあきれてものが言えなかった。
母のいない所では私を顎で使うのも日常茶飯事だった。
私の茶色の混じった金髪は汚く見えるし、碧い瞳はその髪に合わないとも言われた。
兄と同じ色合いなのにどうしてこんなことを言うのだろうかと思った。
私は洋服の趣味も最悪で地味なのだそうだ。まあ彼女は毎日違う洋服を着ているので、そう見えるのは仕方がない。
兄嫁であり元公爵令嬢である彼女に逆らうことは、私にはできなかった。
本ばかり読んでいないでノーランと交流を持てと言われても、ノーランに会う時はいつも彼女がいて、たわいもない話で盛り上がっているので、私は相槌を打ちながら本を読むしかなかった。
ノーランの方も華やかなレオニーが自分に向ける好意はやはり嬉しいのだろう。それを窘めることはなかった。
それでも私に対しては優しく、婚約者と言う立場を尊重してくれていた。
時折、『私の大切なシェイラに、愛をこめて』というメッセージを付けた花束もくれた。
一抹の不安はあったが、父が亡くなる前にシェイラのためにと決めた婚約なんだから大丈夫と自分に言い聞かせていた。
好きだったのかと問われれば、結婚を楽しみにするくらいには好きだった。
今思えば、結婚式の前の晩に私の両手を握って、とても嬉しそうに言ったノーランの言葉をそのままの意味だと思った私は馬鹿だった。
「私は朝起きるのに時間がかかってね。結婚式に遅れるのが心配だから、今日はこちらの屋敷に泊めてもらえると嬉しいな。支度も一緒にして一緒に神殿に行こう」
これも演技だったと思うと怒りより悲しみが勝る。
結婚式の朝に起きて、朝食にも降りてこないノーランを心配した私は、近くにいた家令補佐のウェスにノーランはまだ寝ているのかと聞いた。
すると彼が
「はい。お嬢様が起こしに行かれたら良いのではないですか。ノーラン・プライス様も喜びますよ」
そう言ったので、私はメイドのリタと一緒にノーランの泊っている客間に向かった。
客間の扉をノックしても、返事がなかった。朝が苦手と聞いていたのでやはり起こしてあげたほうが良いのかと、鍵の掛けられていない扉をそっと開けた。
部屋に入り、さっと中を見渡して目に飛び込んだのは、レースのカーテンから漏れる柔らかい日差しの中に裸で寝ているノーランとレオニーの姿だった。
ベッドの傍には彼らの着ていた服が乱雑に脱ぎ捨てられていた。
絶句した私の耳に響いたのはリタの叫び声だった。
その声で目覚めたノーランは私を認めて、目を丸くした。
自分がどこにいるのか何をしているのか状況が呑み込めていなかったようでしばし呆然としていた。
隣に寝ているレオニーを見てハッとしたようにまた私を見つめて彼は言った。
「違うんだ。これは違うんだ!」
「何が違うのですか?」
「レオニーが眠れないと私の部屋に来てそれで添い寝をしてしまった」
「そうですか。添い寝って裸でするものだったのですね」
怒りを通り越すと、冷静になるものだ。
そこで、レオニーがうつぶせのまま言った。
「もう、ノーランったら何を騒いでいるの? 昨夜はあなたが激しくて疲れているのに。もう少し寝させて......」
「レオニー、起きるんだ! 我々には何もないということを言ってくれ」
「う~ん、何を馬鹿なことを......」
そう言いながら、彼女は体を起こして振り返り、やっと私の存在を認識した。
「あら、見つかっちゃったのね。これはね、私が悪いんじゃないのよ。ノーランが私を好きだって言うから、ついね。クライヴだって領地に長い間行っているかと思えば、戻って来ても留守ばかりで好き勝手しているじゃない」
「お兄様と一緒に領地に行くのが夫婦ではないのですか? 王都で贅沢三昧をしている貴女にお兄様のことを悪く言う資格はないです」
「だいたいこの家はいろいろとうるさ過ぎるの。公爵令嬢の私に、あれも駄目、これも駄目、挙句の果ては高位貴族の令嬢ならこのくらいのことは知っているはずだって」
「は? 駄目と言ったのはお父様から貰ったネックレスをお義姉様が取って行こうとした時だけです。それに高位貴族の令嬢の話は一般論ですよ」
「あら、珍しく強気じゃない」
「そうですね。今まではお義姉様と思うから尊重していましたが、どうでも良くなりました」
後ろから低い声が響いた。
「シェイラもういいよ」
「あ、お兄様、戻っていらしたのね」
「当たり前だろ、お前の結婚式だ。だが残念ながら結婚は取りやめになるが」
「はい。それでいいです」
私は思い切り頷いた。
「クライヴ! 早かったのね。お昼近くになると言っていなかった?」
「ああ、レオニー、君の顔が早く見たくてね」
裸のままのレオニーは兄の凍り付くような冷たい表情には気が付かなかったのか
「私もよ。偶然ね!」と、何の屈託もない様子で答えた。
「さて、我々のことは今は脇に置いておくとして。ノーラン、分かっていると思うが今日の結婚式は中止だ」
「嫌です。私は、シェイラと夫婦になりたい」
だったらこんなことをしなければいいのにと思ったが、口は挟まなかった。
兄はノーランの言葉を無視して家令のマルクに小声で何かを指示していた。
マルクが退出しようとした時に、少し大き目の声で兄は彼に言った。
「あ、中止の報と一緒に後ほど謝罪に伺うということも伝えてくれ。まずは神殿、そして筆頭招待者のサミュエル殿下からだ」
ああ、招待者の皆さんに結婚の中止を報せるのね。サミュエル殿下もきっとびっくりするでしょうね。
殿下は兄の一つ下で、私が小さい頃、側近候補だった兄に付いて王宮に行くと、いつも私と一緒に遊んでくれて、時には花の名前や木の名前、王宮のことなどを丁寧に教えてくれた。
「承知いたしました」
マルクはそう言って即座に部屋を飛び出した。
それから兄はノーランに向き直り、抑揚のない声で告げた。
「ノーラン。君の家に援助した分は返してもらう。シェイラが嫁ぐことが条件だったからね。当然、結婚式の費用も請求するよ」
「そ、そんな。シェイラ、君からも何とか言ってくれ。我々は私が十七、君が十四の時から三年間も婚約しているだろう? 愛人なんて男には良くあることだよ。一度ぐらいの過ちは見逃してくれ。君を一生大切にすると誓うよ」
「ノーラン、結婚式の日に不義って良くあることなのですか? それに私、あなたがもう気持ち悪くって結婚は無理。あなたを見るたびに今の姿を思い出してしまう人生なんてごめんだわ」
「私を愛していたのではなかったのか?」
「今となれば分からないわ」
「婚約解消されたら、困るのは君だよ。もう二度と結婚できないかもしれない」
「うーん、別にそれでもいいわ」
「嘘だろ」
ノーランはベッドの上で頭を抱えた。
レオニーは私達のやり取りを聞きながら、兄の顔を見て妖艶な微笑みを浮かべた。
「ねえ、ガウンを羽織っていいかしら?」
「そのままでいい」
「まあ、私の魅力的な体を見ていたいのね」
「もうすぐノーランとレオニーの両親、そして法務関係者も来ることになっている。現場を見てもらって君たちの処遇を決めるためだ」
「えっ」
レオニーは慌ててシーツを引き寄せ、露になっていた胸を隠した。
「この状況は、愛人を持つということとは少し違うからな。姦通罪になるのか? 鞭打ちの刑か? 俺にもわからん」
兄がさらりとそう言うと、ノーランがいっそう蹲ってしまった。
サミュエル殿下の側近ではあったが、二十歳まで騎士団の小隊長としても活躍していた兄から逃げられるわけもない。
私はそんなノーランに優しく声をかけた。
「ノーラン、お義姉様のことをずっと愛していたの? お義姉様とこのようになったのはいつからなの?」
知っても自分が傷つくだけかも知れないと思ったが、問いかけずにはいられなかった。
私の問いに直ぐに答えたのはレオニーだった。
「シェイラ、こういう仲になったのは三か月ほど前からよ。なにせノーランは顔は良いし、気配りはできるし、細めの身体も私の好みだったの。もちろんノーランは何度も情熱的に私を愛していると言っていたわ。これが真実の愛だって。うふふ」
「俺は、俺は、シェイラとの未来を夢見ていた。なのに......」
「ノーラン、もう何も言わないで。何も聞きたくない。私にできることはあなたに『さようなら』を言うことだけだわ」
それからレオニーは兄に向ってこう言った。
「ねえ、クライヴ。私の父は宰相なのは知っているわよね。だから私を罰しようなんて思わない方が良いわ」
「さて、どうなるかな? このことは瞬く間に社交界に広がるだろう。母上そうですよね」
「それは任せなさい。あっという間に広げてあげるわ」
母もいつの間にか兄の後ろに佇んでいた。
それを聞いたレオニーは大声で私たちに言った。
「男が愛人を作ってもいいのに。女が同じことをするとなぜ居場所を奪われるのよ」
母が答えた。
「その通りね。あなたの言うことも良く分かるわ。でも今、問題はそれではなく、娘の婚約者と息子の嫁とが関係を持ったことなのよ。つまり人としてどうなのかってこと。二人の欲が倫理観に勝ったことがあなた達の信用を失墜させたの」
「そんな偉そうに。私はただ、自分が生きたいように生きているだけなのに。それが許されない社会なんて無くなればいいんだわ」
私は、レオニーの言うことに初めて共感した。
「お義姉様、素晴らしいわ! 私も常々この社会に息苦しさを感じていたの。何といっても女性には厳しいですもの。
けれども、お義姉様はご自分のしたことがどんな影響をもたらすかを考えなくてはいけなかったの。あら、良く考えたら、お義姉様のお蔭で私は道徳心の欠けている殿方との結婚を避けられたのね。やはりお義姉様は素晴らしいのね」
レオニーには私の皮肉は伝わっていないようで笑みを浮かべていたが、蹲っているノーランは「うー」と呟いていた。
そこへノーランの両親が入室してきた。
ノーランが婚礼用の式服の一部を忘れたので、早めに我が家にそれを持って来て、ついでに美しい花嫁を見たかったという話だった。だから、結婚式の中止の報は道の途中で聞いたらしい。
ノーランにそっくりな細身の体にグレーの髪を持つ父親のプライス伯爵は二人の状況を見るなり、わなわなと震えて、「ノーランお前はいったい何をやっているんだ」と殴りかかろうとした。
それを止めたのは兄だった。
「伯爵、大変申し訳ないが、このことは公にして法の判断に委ねたい。とりあえず、婚約解消の手続きを済ませます」
書類はすでに傍にいる家令補佐のウェスが準備していた。
「公に?」
「ええ、これから来る法務関係者との話し合いにもよりますが。とりあえず、結婚は無くなりましたので署名をお願いします」
「はあ、こんなことになるなんて。お前の育て方が悪いんだ!」
伯爵は傍にいる夫人を怒鳴りつけた。
「なにをおっしゃいます。責任は平等ですわ。それよりもあなたが愛人を公然と囲っていることがノーランの道徳心の欠如に繋がったとは思いませんか」
「なにを!」
「二人とも落ち着いてください。それから明日のお宅での結婚披露のガーデンパーティも当然中止になりますので、関係各方面へのお知らせをお願いします」
「諸費用については?」
「我が家に非はありませんので、当然そちら持ちになります」
「うっ、仕方がない。それで援助金についてはどうなりますかな?」
「妹が嫁ぐ前提で契約を交わしていますので、当然、返していただきます」
「嘘だろ! プライス家はもう終わりだ......」
プライス伯爵は頭を抱えていたが、兄はしっかりと署名だけは貰っていた。
「まあ、面倒でも、公的な援助を申請なさるのが良いでしょう。プライス伯爵家の窮状を世間に知らせることになっても伯爵家が無くなるよりは良いのですから」
プライス伯爵は先代の投資や放蕩で財産が殆どなくなり、今は領地の道路や橋も補修する余裕もなく、我が家からの援助が頼みの綱だった。
ノーランの弟はまだ成人前なので、ノーランがどうなるかによるけれど、もしかすると領地は王家の預かりとなるかもしれない。
そうこうしている間に、レオニーの両親がやって来た。
父親のガルピン公爵は我が国の宰相を務めている。太り気味の身体は不健康そうだ。
ベッドの上のあられもないレオニーの姿を見て、二人ともひどく驚きしばし沈黙した。
我に返った公爵は烈火のごとく怒ってレオニーに突進したが、寸でのところで兄に阻止された。
「冷静になってください」
「こんな恥ずかしい場所に私を呼び出すなんてお前はそれでも侯爵なのか」
「ご存知かと思いますが、妹とレオニーの隣に裸でいるノーランは今日の午後に結婚するはずでした。ただの情事でしたらあなたを呼ぶなんてことはしません」
「そういえば」
公爵は今更気づいたように目を彷徨わせた。
「いいですか。今日は私の大切な妹の結婚式なのですよ! あなたの娘が何をしたのかしっかりと目に焼き付けておくべきです」
すると公爵が夫人に向かって言った。
「お前があいつを甘やかすからいけないんだ」
彼もすべて夫人のせいにしたいようだった。
赤い髪がレオニーに似ている公爵夫人は目を吊り上げて反論した。
「あなたは家庭を顧みることなく、いつも仕事でしたものね。愛人も数人いたこともありますし。だから私は常々あの子に生きたいように生きなさいと言っていただけですわ。耐えるだけの人生なんてつまらないじゃないですか」
「贅沢だけはさせてやったろう」
「それはそうですけど......」
『生きたいように生きる』その気持ちは分からなくはないけれど、レオニーは貴族の頂点にいることで、間違った方向にそれを解釈してしまったのだろう。
間を置かず「失礼します」と声がかかり、二人の年配の法務官が入って来た。
彼らは緑色のタイにガーネットのタイ留めを着けているのですぐにわかる。
白髪が目立つ法務官はラバーン、もう一人の小柄の法務官はデレクと名乗った。
彼らはベッドに裸でいるレオニーとノーランに目を止め
「私たちもいろいろ見ましたが、ここまであからさまなのは初めてです」
そう言って、あまり動揺することもなくさっとメモを取り出した。
「それで、今日は昼過ぎからアンドレス侯爵令嬢シェイラ様とそちらのプライス伯爵令息ノーラン様の結婚式が行われる予定だったということですが」
「そうです。ノーランの隣にいるのが私の妻であるレオニーです」
兄が答える。
「なるほど。レオニー夫人はこちらのガルピン宰相のお嬢様で間違いないですな」
公爵がラバーン法務官の傍に来て小声で
「何とかもみ消してくれないか。お金は払う」とそう言ったが、ラバーン法務官は表情を変えずに答えた。
「そのような贈賄に近い言葉を宰相ともあろう人が言っては駄目ですよ」
その後を引き継ぐように、デレク法務官がここに居る人々を見回しながら淡々と話をした。
「皆さま。ご存じのように私たちはこの状況を正確に記して、それぞれ関係者の聞き取りを行う仕事です。もちろん裁判になれば証拠提出と知り得た事実を語ります。アンドレス侯爵様が告訴しないのであれば、示談金などの話し合いも仕事になります。ただ姦通罪は厳しいものになるとご承知おきください。なるべく大げさにしたくないということであれば私たちの上司であるサミュエル殿下にご相談ください」
二人はしばらくメモに状況を書き留めていたが、後に皆に話を伺いますと告げて部屋を退室した。
彼らが帰ると、家令補佐のウェスは兄に書類とペンを渡した。
「では次に、レオニー。我々のことだが、これが離婚の書類にあたる。すぐに署名してくれ。言いたいことは多々あるだろうが、それは私も同じだ。これで君は自由になる。君の思うように生きるといい」
兄はレオニーの傍に行き、ペンと書類を渡して彼女が署名するのを見守った。
体の大きな兄に隠れて、私の方からはレオニーの表情は良く見えなかったが、珍しく何も言葉を発しなかった。
この状況では仕方のないことだろう。
「では、二人とも服を着て、すぐにでもこの屋敷を出て行ってくれ。レオニーの荷物は後ほど送らせる。それから二人とも今後この屋敷に入ることは許さないからそのつもりで」
そして兄はそれぞれの両親に向かって挨拶をし、私に退出を促した。
私は軽く公爵夫妻と伯爵夫妻に頭を下げて、母と兄と一緒にその場を後にした。
もちろん廊下にはウェスと使用人数人が控えている。何か室内であった時のためだ。
「待って、クライヴ、待って! 私が間違っていたわ。あなたを愛してもいいわ!」
レオニーの叫びに似た声が廊下まで響いたが、兄の表情が変わることはなかった。
兄は私の顔を覗き込み「大丈夫か?」と聞いた。
「どうかな。後から悲しくなるのかな。お兄様は?」
「俺の心配はしなくていいから、少し休め」
「ノーランもレオニーもガルピン公爵夫妻もプライス伯爵夫妻も、皆自分の事だけを心配していたわ。誰も私に謝ろうともしなかった。まあ謝ってもらっても惨めになるだけかもしれないけれど」
「お前の言う通りだ。彼らは尊敬に値しない人たちだから、縁が切れて良かったのさ」
「お部屋に一緒に行きましょうか?」と母に言われたが、少し眠りたいから大丈夫と言って断った。
母は私を抱きしめながら
「あなたには何も非はないのだから、どこに行っても堂々としていていいのよ」
そう言った。
「そうね。気分転換に王宮の図書館か資料室で働こうかしら」
「王宮か。サミュエルが喜びそうだな」
「え、どういう意味?」
「いや、何でもない」
三年後。今、私は妊娠六か月の身重だ。
あれから、ガルピン公爵家とプライス伯爵家の両家はノーランとレオニーが真実の愛というのを貫いて結婚したとすれば姦通罪も軽くなるだろうと考え、二人を結婚をさせた。
だが、結局、二人は貴族の身分をはく奪された。
市井で小さな小間物屋をしていると聞いたが、夫婦仲までは分からない。
公共事業を一手に担っていた宰相は、レオニーの数々の情事の噂と共に、多数の業者からの収賄の噂が広がり、宰相をやめざるを得なくなった。
今は、収賄の疑いで裁判中だ。
つぎの宰相は?
兄のクライヴ・アンドレス侯爵だ。サミュエル殿下からのたっての願いもあり、領地の経営も落ち着いてきたことからその任を引き受けた。
若く逞しい宰相は若い女性たちにとても人気だったが、つい最近、西の辺境伯のご令嬢との再婚が決まった。
さて、私はここに至って三年前のあの結婚式の朝の真相を知ることになる。真相と言うよりは背景といったほうがいいのかしら。
お察しの通り、私の夫は、サミュエル殿下だ。
ノーランとの結婚が解消されてから、私は希望通り王宮勤めをすることになった。
そして、サミュエル殿下との交流も再開した。そのお蔭でノーランに裏切られたことを思い出すこともなくなった。
そんな日々を過ごすうちに殿下と結婚することが自然の流れのように思われて、気が付けば殿下の求婚を受け入れていた。
ある日の夜、私はソファでレース編みをしていた。別室で仕事をしていたサミュエルが、やっと仕事が一段落したと部屋に入って来て私の傍に座った。
彼は私のお腹を撫でながらお腹の子に語りかけた。
「お父様はね、もう少しで君と会えることが楽しみで仕方がないんだ。お母様が他の男と結婚しようとした時は本当に焦ったが、間に合ってよかったよ」
私は「間に合うってなにが?」とサミュエルに聞いた。
すると、サミュエルは黒髪を両手でかきむしりながら話し始めた。
「あー、もう話してもいいか。元はと言えば、君の父親が俺の留学している間に君の婚約者を勝手に決めたことが発端かな」
サミュエルは、帰国して私が婚約したことにひどく落胆したそうだ。何とかこの婚約を解消させたいと思っていたが、王子の権力を振りかざせば世間から非難を浴びる。
どうしたものかと考えていたところに、宰相のガルピン公爵の収賄の噂を聞きつけた。
「彼は、その資金力で徐々に力をつけて行った。彼の派閥も大きくなって、王室にとっても脅威になって来たのだ。何とか収賄の証拠を押さえようとしたが、担当業者も不利益になることには口を噤んでしまうから上手く行かなかった」
そこで兄にレオニーと結婚して、公爵の内部を探って欲しいと頼んだ。
レオニーは自分本位で奔放な性格が災いして、二十歳近くになってもなかなか結婚相手が決まらなかった。一時期はサミュエルも候補に挙がったが、王家と公爵家とは血が濃すぎるという理由で国王が認めなかった。
ガルピン公爵家としても、兄と結婚すれば、なかなかこちら側になびかなかったアンドレス侯爵家を取り込むことができると思い、すぐさまこの縁談に飛びついた。そして、半ば強制的にレオニーを結婚させた。
「兄は領地から戻って来ても殆ど家にはいなかったのはそのせいだったのね」
「だが、レオニーを本当に愛したのなら、計画は変更してもいいとは言っていたんだ」
「残念ながら、そうはならなかった」
「ああ。クライヴのお蔭で少しずつ証拠が積みあがって来たのだが、決定打がない」
「あ、わかったわ。それでノーランの軽い性格を利用しようとしたのね」
「鋭いね。二人が不貞を働いて離婚になれば、公爵はメンツが丸つぶれだ。絶対にしっぽを出すと思った。ついでに君とノーランの婚約が解消されれば一石二鳥だ」
「もしかして実家の使用人にあなたの息がかかっている人がいたのかしら」
それは家令補佐のウェスだった。あの時、あまりにも手際が良くて、この人はこんなに優秀な人だったろうかと思ったことを覚えている。
ウェスはあからさまにノーランを唆したわけではなく、ノーランの自尊心をくすぐっただけとサミュエルは言うが、本当のところは分からない。
「だが、決定的な瞬間を押さえるのに時間がかかった。彼らも君たちに見つからないように用心していたからね。まさか結婚式当日になるとは思わなかった」
「もし、私がノーランと結婚していたらどうしたの?」
「第二案だな。結婚式に君を攫う」
「私の気持ちは無視?」
「でも、小さい頃は俺のことを好きって言ってたよな」
「そうだったかしら? 貴方の紫色の瞳が宝石みたいで好きと言った記憶はあるのだけれど」
「それは俺のことがすごく好きと同じことなんだよ」
「知らなかったわ」
社交界には、レオニーとノーランの噂が瞬く間に広がった。以前の社交界ではガルピン公爵の力が強かったので、噂もすぐ打ち消されたのだが、さすがにそうはいかなかった。
そして、その噂にガルピン公爵の収賄の事実も織り交ぜた。社交界は半年以上にわたってその話題で持ちきりだった。
ガルピン公爵の立場が危うくなると、徐々に人心が離れて行った。
公共事業の不正についても業者の言質が取れて、ガルピン公爵の失脚に繋がった。
「と、そういう訳さ」
「結局あなたの掌の上で私は踊らされていたわけなのね」
「ノーランの実家については何も手だししてないよ」
プライス伯爵家は領地を手放すことになり、領主権を失った貴族として存続することになった。その領地は今、サミュエルが管理している。
「これもすべて君を愛するが故だよ」
そう言って彼は私の髪を愛おしそうに撫でて、優しく私を抱き寄せた。
その腕の中で決心した。いずれ私の掌の上でこの人を踊らせてみせると。
私は彼の耳元で「サミー、愛しているわ」と呟き、邪心のない笑顔を彼に向けて彼の唇にそっと口付けた。
-- おわり --
お読みいただきありがとうございます。
実は、クライヴはレオニーに結婚式の初夜に「あなたを愛する気はないわ」と言われたのです。レオニーは武骨なクライヴが好みではなかったことと、無理やりに結婚させられたことに反発していたようです。
新連載「Love Story~エルとルークの場合」を始めました! この小説とは趣が違いますが、興味がありましたら読んでくださると嬉しいです。