第二章 梔子
その男は頭に一本の角が生えていて、耳の先は鋭く尖り、口を開けると恐ろしい牙が姿を現す。瞳は小豆色で、透けるように白い肌と墨のような真っ黒な頭髪、目を惹く眉目秀麗さが特徴的だった。
男は昨日、優心と会話をしたことで彼のことが頭から離れず、住処である山頂の湖には戻らずに優心の後を付けていた。
目の不自由な優心が躓く可能性のある石ころは彼に気づかれないように取り除き、先日いじめて来た子供達が視界に入れば、目の前に立ちその眉目秀麗な顔でキツく睨め付け、怖がらせて追いやった。
優心は相変わらず、自身のために避けてくれた人々に頭を下げている。男は少し彼らが羨ましくなって、そっと優心の前に現れて彼を避けようとした。けれど、立ち止まった優心は礼を言うことはなく、顔を上げて男の顔を覗き込むような姿勢をとった。鼻から匂いを嗅ぎ取る仕草をする。
「昨日のお方ですか?」
男は予想外の反応にどう答えて良いか分からず、口を噤んでしまう。
「…、本を拾ってくださったお方ですか?」
自分のことを言われているのだという確信がもて、少し咳払いをした後にぎこちなく答えた。
「あぁ」
「やはりあなた様でしたか、とても甘い…梔子のような香りがします」
男の住処の近くには梔子の木があり、夏になるとその香りが男の衣服に移る。
「梔子だ」
「やっぱり!でも、この辺に梔子の木はありませんよね?」
「…あぁ」
「私はまだ目が見える時に四季香山の山頂で見たことがあります!」
興奮している優心とは別に、男は少し驚いた様子で、優心の光をも通さない瞳を覗き込んだ。
「…目は見えていたのか?」
「………はい、7つの時に失明する前は周りと変わらず見えていました」
母親への気遣いから、優心は視力のことを自身から口にするのは避けており、少し間が空いてから答えたことに男もそれ以上追求しようとはしなかった。
「梔子は好きか?」
「はい!とても良い香りがするので、以前摘んで帰った時、母はとても嬉しそうでした」
「…母親が好きなのか?」
「いえ、私も好きですし、母も好きで、父も好きです」
「そうか」
「それに梔子の実には消炎、止血、利胆、解熱、鎮静などの作用があるんですよ!」
優心は興奮気味に話し続けた。
「私は草木が好きなのですが、それらを好きになったのが梔子のおかげなのです!以前、山奥で迷子になり、梔子の香りに誘われてその方向へと歩いたのです。途中で崖から滑り降り、見渡すと湖があって沢山の梔子の木がありました。まだ花の咲く季節でしたから、そこに実は落ちているはずがないのに、何故か手に実をすり潰して水を混ぜた塗り薬を持っていたのです。私は崖から落ちてぶつけた打撲部分にそれを塗り、湖の周りを歩くといつの間にか父の目の前にいました。とても不思議な出来事で、鮮明に覚えています。それをきっかけに沢山の草木と触れ合い始めました!」
一人でに喋り終えた優心は男が黙り込んでいるので、話しすぎたと申し訳なさそうに声をかけた。
「あなた様…」
男は瞳を大きく開き、目を潤ませながら優心のことを見つめた。
「黒水だ。……そう呼んでほしい」
「黒水様」
「あぁ」
「足を止めてしまい、申し訳ございません。また、会えたら声をかけても良いでしょうか」
黒水はその誘いを受け入れる。それから優心は別れの挨拶を言い、ゆっくりと歩き始め、黒水は自分が後を追っていると悟られないよう、追い風に注意しながら優心の歩く後ろをついていった。
黒水は優心が家に入るのを見届けてから、山頂まで駆けて行き、湖に向かって何かを唱える。すると、先程まで無かった湖の底へと繋がる道が現れ、ゆっくりとその中に入って行った。中には立派な門構えが立ち、黒水は大門の隣にひっそりと建つ小門から中に入った。
中はとても賑やかだが、人間とは異なる外見を持つものが沢山いた。その者たちは黒水の姿を見るとすぐに彼の元へと駆け寄って来て、彼の様子をまじまじと観察していた。
「黒水様、お怪我はございませんか?」
「黒水様、昨日はどうしたのですか!?」
「黒水様、無事で何よりです!!」
妖怪と呼ばれる容姿を持つ彼らは、黒水のことを大変慕っている様子だった。
「あぁ、すなまい。心配をかけた」
そう言って群衆たちを通り抜け、庭の端に沢山の木々が立ち並び、小道へと歩いてゆく。彼の後を付けていた妖怪たちも、その小道からは進みはせず、主屋に向かって走り出し、宴の準備を始めた。
黒水は沢山の木々を抜け、その奥に建つ離れ屋敷へと入って行った。
その屋敷の周辺には春咲く沈丁花、夏の梔子、秋の金木犀、冬の蝋梅がそれぞれ数本づつ植えられており、今は白い梔子の花が綺麗に咲き誇っていた。彼はその中でもより綺麗で瑞々しい物を選び、枝から切り取ると、切った先の枝を潰し広げ、葉を一部残しながら切り落とした。
屋敷から細やかな細工が施されたガラス花瓶を持ち出し、そばの井戸から水を汲み入れ、梔子を生けた。数日で枯れてしまうことを恐れ、その生花に念ずるように意識を集中させ、自身の生命力を分け与えた。
離れ屋敷の裏にある塀には隠し扉があり、この城内に住む妖怪たちに知らせぬまま、片手に梔子を生けた花瓶を持ち、また湖の外へと歩きだした。下山時は細心の注意を払って、その白く大きな花弁を落とさまいと歩く。山に住む野獣たちは黒水の気配を感じると怯えて逃げ出し、誰一人としてその行手を阻む者は居なかった。
町に出て、人のいない中を音を立てずに歩き、道中で前からの光に気がつくと、木陰に隠れる様に、彼らの集団に見つかり厄介事を起こさぬ様に息を潜めた。
集団は声を合わせ、火の不始末について警戒を促し、拍子木の音が町中に響く。
黒水の大きな耳はその不快な音に耳を塞ぎたくなったが、どうにか耐え忍んで、すぐに歩きだし、昨日と同じように優心の家の向かいの家の屋根に寝そべり、彼が家から出てくるのを待った。
まだ夜四つ時(夏至の22-23時)で四時程待たなければならないと言うのに、黒水は耳を済ませて聞こえてくる幾人の寝息から、優心のものだけを聞き取る。
夜八つ時(丑三つ時、夏至の0-2時)になっても、ここら辺には妖怪は現れない。それは黒水が両者のために住処を分けるため、妖怪を見つけては保護または倒して湖の底へと連れて帰ったからだ。城内に入る際に黒水は妖怪と口約束を交わす。
「ここから出てはならない。出た者は我がお前の死を持って償わせよう。代わりに安静を与えよう。お前がここで寂しさも苦しみも忘れて笑い終える一生を」
最初は隙を見て逃げる者も、黒水の命を狙う者も居るが、手に掛けることはなく場を納めて、また日常を過ごす。その内に妖怪達は自ら湖の底で住む事を良しとして、たまに黒水に人間の作る飯を強請るくらいだった。
花瓶を月明かりに翳し、月明かりを反射する光を見ては、瞼を閉じた。鼻に意識を集中させ、梔子のその甘い香りを嗅ぐ。
暗闇に甘い匂いがするだけだった。
朝五つの終わり時(夏至の8時前)優心が家から顔を出した。
昨日のように優心の身に危険を及ぼす物を排除していると、その手の梔子の香りが優心の鼻まで届いてしまう。優心は少しの間気づかないフリをして、いつも通り歩いていると、その香りは左右に移動したり、遠くに離れて行ってしまったかと思うとまた近くで香る。
優心は黒水が自分の周りをついて来ているのだと感じ、立ち止まる。
突然の優心の行動に、黒水は驚くように彼の姿を視界に入れた。杖の持たない片手を口元にやり、いつもは開けている目を強く閉じて声を出さずに笑っていた。
黒水はゆっくりと優心に近づき、彼の顔を覗いて見ると、それは苦しみや痛みではなかったことに安心し、安堵したが優心に服の裾を掴まれ、硬直してしまう。ここで振り払えばきっと優心は倒れてしまうし、万が一、黒水の持つその鋭い爪が優心の肌に触れてしまえば、柔らかな肌を傷つけてしまう。
「黒水様でしょう?」
優心は上を見上げて、そう声に出した。
「……あぁ」
「今日はとても良い香りがします!」
声のした方向へ顔の角度を変えて、嬉しそうにそう言った。
「梔子だ」
「わかっております。先ほどからずっと黒水様の行動が香りで教えてくれているのです」
「……」
片手に梔子を持っている事で、いつも以上に距離を取らなければならないのに、その事を忘れていた黒水は朝からの自分の行動を振り返って、尖った耳を赤く染めてしまった。
今日は30もの小石を避け、獣を追い払い、子供達や通行人、運び人、物売りに睨みをきかせた。それも優心の道行先を右往左往して、少し先へ行っては戻って来てを繰り返していたのだ。
「私は今日、杖にも爪先にも小石を感じることはなく、誰がしに絡まれることもなく、人もあまり感じませんでした」
優心は袖を掴んだまま、続ける。
「そう言えば、昨日も何事もなく通ったと認識しております」
優心は少し目を細め、口は半月の様に笑い感謝を告げた。
「けれど、私はこう見えても強いのです。どうか黒水様のお時間を大切にしてください」
「……」
黒水は善意でやっていたことを拒まれてしまい、どう返事をして良いのかが分からなかった。
「……。黒水様はこれから何処に行かれるのですか」
優心はの質問にまた口を閉ざした。
黒水の今日の予定は優心の行手の安全確保と片手に持った梔子の生花を優心に渡すくらいで、これと言った行き先は無かった。
「私はこれから寺子屋に行くのですが、黒水様は寺子屋に通われておりましたか?」
「…いや」
「では藩校に通われていたのでしょうか?」
「いや」
「……?」
優心は頭を傾げ、少し考え込む。
「先日、本の題名を言ってくださったので、文字について読めると存じておりましたが、ご自身で学ばれたのですか?」
「……いつの間にか読めていた」
黒水の読み書きの取得は、人間の日常生活に溶け込んだり、川に流れる滲んだ瓦版を見る内に自然と覚えて行ったのだ。
「それはとても卓越したことですよ!普通は寺子屋などで読み書きや計算、地名や商売用語などを教わるのです。教えなく覚えるなど、黒水様は本当に賢いお方だ!」
褒められて機嫌が良くなった黒水はいつも以上に話し出した。
「山の草木も全てわかる。川の魚も人の病も、妖怪も計算も地名も商売用語も全てわかる」
「本当ですか!師も知らないことも知っているかも知れません!」
「知っている」
優心は疑うことはなく、黒水も本当にそれら全てを記憶していた。
「黒水様の見る世界はさぞ美しく、そして規則的に見えることでしょう!」
その言葉はどんなに知識を増やそうと見ることのできない優心が言うには余りにも哀れで、黒水は口を噤んだ。
優心は以前、目が見えていた時の疑問をふと思い出し、言葉にする。正確な答えが聞きたいわけではなく、黒水の考えを知りたかっただけの質問だった。
「…どうして空は青いのでしょう?」
「光の加減だ。チリを射て近いと青く、遠いと赤い」
黒水は優心の期待を上回った回答をして、優心は唖然としてしまう。
「………。チリを射て、近いと青く、遠いと赤い?」
「あれだ」
「……?」
優心が見れない事を忘れていたかのように太陽を指さした黒水はその名称を口に出した。
「つまり、日暮よりも日中の方が太陽に近いのですか?」
「チリが舞う距離が近い」
「チリが舞う?」
「あぁ」
黒水の瞳は人では到底見れないようなさきを見通し、加えて小さきものが良く見える。だから、この世のあらゆる物事を幾千と見て来たのだ。ただ、優心はそれらを見ることが出来ず、黒水もあまり説明が上手くないのも相まって、なかなか疑問は消えない。
両者とも突き詰めていくが、優心の方が寺子屋の事を思い出す。
「黒水様、申し訳ございません。私は今から寺子屋に行かなければならないのです。どうか、またお話を聞かせていただけませんか」
「あぁ」
「本当ですか!黒水様のお時間に融通の効く日時はいつでしょうか?」
「いつでも構わない」
「では今日の夕七つ時(夏至の15-17時)、ここでお会いできませんか?」
優心の時間合わせに黒水は返事をしなかった。
「やはり、突然でしたでしょうか?」
「…いや、約束はしたくない」
「約束ですか?」
「……その」
黒水は少し歯切れは悪そうで、優心はそれではと別の提案を出した。
「また会えた時に、はよろしいですか?」
「あぁ」
明確な日時や場所を指定しない約束には黒水も承諾するのだと優心は記憶した。
「では、今はここで失礼致します」
「気を、つけて」
「はい!ありがとうございます」
黒水は梔子の生花は渡さず、優心の背後を追って寺子屋まで見送った。
もし優心が転けてガラス花瓶が破れたとしたら、きっと怪我は免れないと考えたからだ。優心の家の前に置き、拾った瓦版の空白に優心殿と描きそれを花瓶の下に置く。
それからまた寺子屋の付近の屋根に登り、優心の一日を見守っていた。
帰り道に優心の前に現れようか悩んだものの、暇な奴と思われるのも少し嫌な気がして危険分子の排除だけを行った。その際に、比較的に大きな石を優心の通る横道に置く事で、黒水は自身がやっている事をバレないように工夫した。
優心は黒水の思う通りに杖でその石の存在を確認すると、それを避けて道を進んでいく。
黒水は優心を見届けてから、住処に急足で帰った。それは昨日の帰った際に宴をすると気合を入れていた妖怪達には内緒で出て来てしまった負い目からだった。
「ただいま帰りました」
優心は自宅に着くと、今朝も嗅いだ匂いが家の中でする事に疑問を感じた。
「母上、いらっしゃいますか?」
優心がそう声を出すと、母親が玄関まで歩いて来て優心の帰りを迎えた。
「お帰りなさい」
「はい、ただいま帰りました」
律儀に挨拶を返す優心の持つ杖を母親が預かり、いつもの壁に掛ける。
優心が聞くよりも先に母親がこの甘い匂いについて話す。
「とても良い香りでしょう?」
「はい、梔子の花ですよね?」
「そうなの!真っ白でとても美しいわ!」
母親の喜びを遮ることはせず、見えない梔子を美しいと褒めた。
「ガラス花瓶もとても素敵なの!」
「ガラス花瓶ですか?」
「そう、宝石の様に光を放っているわ」
「眩しくは無いのですか?」
「お天道様の下だと少し眩しいかも知れない」
母親は優心に笑顔を見せて、彼の彼女の弾むような声を聞いて笑顔になった。
家の中に入り、少し時間が経ってから、聞きたかった疑問を母親に尋ねた。
「何故、梔子が家の中にあるのですか?」
「あら、言ってなかったかしら。家の前にね、あなた宛に置いてあったの。誰からの贈り物か分かる?」
優心が思い当たる人物は一人しか居ないが、確証は無いので少し濁しながら返事をする。
「お礼は何が良いかしら?優心、相手の方が喜ぶものは知っている?」
「……分かりません」
「そう…、匂い袋は気に入ってもらえない?」
優心は母親が送り相手を女性だと勘違いしている事に気づき、自身の色恋を期待させてしまったのだと少し躊躇しながらもやんわりと否定をした。
「どちらかと言うと、食べ物の方が良いとおもいます」
「あら、花より団子なのね。でも、送ってくれたのは花なんだけど」
母親は楽しそうに笑って、何にしようか迷っていた。
「っあ!そう言えばこの先に新しく甘味処が出来たらしくて、そこのあんこ餅が人気なの!まだ空いている時間だし、少し出掛けてくるわ!」
母親は、息子が何処かの育ちの良い娘に好かれているのだと思い、親心からか優心に物を言わせず巾着を持って出かけてしまった。
優心は一人ため息を吐き、梔子の香りを嗅ぎながら、黒水の言っていたことを考えた。
「チリが舞っている距離……、ダメだ、分からない」
その頃、甘味処についた母親がお返しの餅を2つと家族のための餅を3つ頼んでお会計をする。
「姉ちゃん、どえらい別嬪さんやな〜」
夫婦を切り盛りをしている甘味処は、丁度妻が買い出しに行っていたタイミングで、夫の方がお会計をしていた。
その若い夫は優心の母親を見るなり目を輝かせて、おまけと言って餅をもう一つ包んでくれる。
「あら、どうもありがとうございます。でも、もう立派な息子が居るんですよ」
「えっ、奥さんやったんか!こないな美人を捕まえた旦那の顔が見てみたいわ!どうもおおきに!」
「ありがとうございます」
母親は包みを二つ持って家へと歩き出した。
甘味処の奥から若い男の声がした。笠を深く被ったその男は、話しながらゆっくりと店主の横へと移動する。
「なぁ旦那、あらなんとも綺麗な女やったな、…それに懐かしい匂いも気に入った」
「えぇ、えらい別嬪さんで緊張してしまいましたよ。おまけなんかしてしもて、嫁が知ったら怒られますわ!けど、そんな匂いなんてしましたかねぇ」
店主の言葉に返事はなく、横を向くとそこには誰も居なかった。
「ただいま帰りましたよ」
玄関から母親の声が聞こえ、座っていた優心は立ち上がり、足の感覚だけで玄関までたどり着く。
「母上お帰りなさいませ。すみません、私のためにお金を使わせてしまって」
「良いの、それは私が嫁ぐ前に貯めていたお金だから、使っても怒られない」
もとより、優心の父親が彼女に対して怒ったことなど一度もなかった。
「それなら余計にっ」
優心の言葉、母親の言葉によって遮られてしまう。
「優心のためでもあるけれど、私も一度は食べてみたかったの。お礼に二つと、家族で四つ!店主がおまけで一つくれたの!今晩三人で食べましょう!」
少女のようにはしゃぐ母親にそれ以上は遠慮の言葉は言わずに感謝を述べた。
深い笠を被り、その下から赤黒い髪を揺らす男が、鼻歌を歌いながら歩く。
どうにも気分の良さげなその男から、金をせしめようとする男がぶつかろうとした。男は瞬く間に姿を消し、笠を被った男が大きなゲップを出した。周りには、ただの食い過ぎな男のゲップにしか聞こえず、気にも留めない。
男はより一層機嫌が良くなって、今度は口から歌いはじめた。何とも綺麗なその歌声に町中の人は魅了され、年頃の女達はその男に群がり始めた。
「お兄さん、とても素敵だわ」
「顔もとてもお綺麗なのね」
「ねぇ、一緒に出掛けない?」
男は慣れた口調で話し出した。
「姉ちゃん達のその誘いはとぉっても魅力的だけど、おらぁ、ちょっと会いたい女が居るんだ」
残念と女たちは去っていき、男は空気を嗅ぐ仕草をして、ゆっくりとその香りの先へと歩いていく。
男が目的地へと着くのにはそう時間は掛からなかった。口角を上げ、口の中を覗かせた男の歯は獣のように鋭かった。男は先程と同様にその美しい歌声を発しながら、ある家の中へと入っていった。
優心は母親に梔子の送り人について詳しく問われていて、彼女の期待は裏切りたくは無いものの、嘘を吐くのも忍びないと唸っていた。
その様子はまるで母親に恋愛事情を聞かれたくは無い思春期の子供のように写り、より一層彼女の期待を高めてしまう。
逃げるように他の話題を探すため、周りに集中すると梔子の香りがする。優心は思い出したかのように今よりも幼い時の話をする。
「そう言えば、昔も梔子を家で生けていたことがありましたね!」
無理やり話題を変えたことは母親には丸わかりだったが、その質問にきちんと答える。
「えぇ、貴方がまだ7つになる以前だったわ。山草取りに行って迷子になったが、貴方が懐に梔子を刺して下山して来たの。その香りで貴方を見つけることが出来てのよ」
その梔子は3日ほどで枯れてしまったが、花弁を袋に入れておくことで、優心はその香りを楽しんだ。
彼が物を写せなくなったのはその数日後で、彼がもう一度両親を喜ばせようと梔子の花を摘むために山に向かう最中だった。とても涼やかで美しい歌声が聞こえて来たのだ。その歌声に興味をそそられ、寄り道をしていると突然眼の痛みを覚え、二度と光を映さなくなってしまった。
そう、今聞こえるこの歌声のように、とても美しい響きだったのだ。
優心は突然両目を抑えて踠き出し、息子の突然の異変に母親はただ息子を抱きしめ、背中をさすることしかできなかった。彼女は優心の異変が起きたのは今聞こえるこの歌声のせいだと勘づいて、後ろを振り返ると、“それ”はすぐそこに居た。
痛みで気絶した優心が目を覚ますと、先ほどの痛みは消え、歌声も無くなっていた。静まり返った家の中で、唾を飲み声を上げる。
「母上」
返事はなく、優心の声だけが家の中に響く。
「母上、何処ですか」
少し床を這うように前進し、母親の居場所を探す。
もう一度声を上げようとした時に、手に髪のような物に触れた感覚がした。
優心はその辺りを手を広げて探し、人の顔や体がそこにある事を見つけた。
「母上?寝ているのですか?」
優心はその転がる母親の身体に触れ始めた。最初は衣服の上を触っていたが、首にたどり着くと夏だと言うのにまるで体温がないその身体に怯えた。
「は、母上…」
優心は母親の体を揺するが、母親は動きはしなかった。
外傷もなく寝ているかのように青白く、綺麗な母親と部屋の隅で怯えながら縮こまり、泣きじゃくる子供を見つけたのは、2時後に帰って来た彼女の夫で子供の父親だった。
部屋には甘い梔子の香りはなく、夕焼けに照らされ綺麗に光るガラス花瓶だけが残されていた。