第〇話【幕間】Girl in the mirror
私はただの人間である。名前は───あえてここでは言わないことにする。いつもは話したいことに忠実になる余り話を長くしてしまう私だが、今回は手短に行こうと思う。
単刀直入に言おう。私には『ある言葉』を伝えたい者がいる。しかしその者に会う手段は一つとしてこの世に存在しない。何故なら彼女は実在しないから。正しく言えば、私が書く文章にのみ生存するのだ。
で、あれば。私から言葉を伝える方法は一つだってありはしないのだ。
周りを見渡せば、同じような境遇の者達が皆一様にそんな者達との交流に成功している。あらゆる方法を使って言葉を送り、労い、自身の想いを伝えている。
正直言って羨ましい。私にはできないことだから。遂に私は諦めることにした。無理なものは無理なのだから仕方ない。
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私は行きつけのバーに来ていた。いつも座る席に腰かけ、いつも頼む酒を飲み、いつもと変わらない景色の中で独り溜息を吐く。そうだ。私は独りなのだ。勘違いしないで欲しい、私にも友人はいる。下らない理由で集まっては下らない話題で盛り上がり下らない酒の席を共にする者もいれば、ふと会えば立ち話に花が咲いてそのままの足で共に食事に行く者もいる。用も無いのに連絡を取ってみれば結局合流して行動を共にする者だっている。
だが私は真の意味では独りなのだ。誰にも晒していない自分がいる。晒せない自分がいる。それを晒してしまえば終わりだと強く信じている。だから晒さない晒せない。
───実は、たった一人晒せる者がいる。それこそが彼女なのだ。私は彼女の全てを知っているが、彼女もまた私の全てを知っている。隠すことが出来ないのならばそれはもう晒していることと同じだ。しかし先に書いたように彼女に会うのは不可能だ。会うことが出来ないのならばそれはもう存在しないことと同じだ。
どうしようもない疎外感から私はグラスを一気に傾けて中身を喉へ流し込む。……っ。少し酔いが回るのが早まってるようだ。手洗いに向かう為に椅子から立ち上がり、おぼつか無い足取りで一つの扉の下へと歩いていく。
便器に向かい合って胃の中の物を吐き出そうとするが、出てくる気配がない。吐いてしまえばいっそのこと楽になれるのだが……。出ない物は仕方ない。諦めて出ていこうとして扉に手をかけて───気付く。
背中に、視線を感じた。
後ろにあるのは洗面所だ。窓も無い以上、そこには誰かが立つことはできない。振り返ると───探し続けた彼女と目が合った。
「……そんなところにいたのか、クソッタレ」
「ここは便所よ。垂れる前に来るべきだ」
笑っていない彼女と言葉を交わす。彼女にもまた、私の前でだけ晒せる姿があるのだ。
「おい、よく聞けロクデナシのウスノロ。俺にはお前に言いたいことがあるんだ」
「マヌケなあんたがあたしに何を言うってンだ? 独りぼっちを慰めろってなら左手に頼みな」
こちらが攻撃的な口を叩けば負けじと返してくる。成程流石と言うべきか。
「俺はお前が嫌いだ」
「あたしもあんたが嫌いだ」
互いの視線がぶつかり、火花を散らすような勢いになる。
「だから、お前は責任を持って俺が殺す。…………必ずな」
自分の口角が上がるのがわかる。告白しよう、これは強がりだ。本当は恐ろしい。今すぐにでも飛び掛かって来られたら命は無い。その恐怖心から己を、相手を欺く為の笑み。きっと引き攣っていることだろう。
「…………あんたの思い通りにはならないよ。絶対にね……♡」
ヤツも口角を上げて、いつもの顔に戻る。シャクだが、これが強がりではないことは私が一番わかっている。
右の拳を振りかぶる。ヤツは左の拳を振りかぶった。同時に拳を相手に叩きつける為に腕を伸ばす。ヤツの顔に、身体に、背面の壁に、ヒビが入る。砕けた世界の一部が陶器に落ちて騒がしい音を立てる。
「おい、どうした?」
扉を開けられ、店主に醜態を見られた私は、『酔ってフラついた拍子の事故だった』と弁明して金を払う。人の良い店主のおかげで出入り禁止にはならなかった。
店を出て夜風に当たりながら家路に着く。右の拳は所々切れたり鬱血していた。が、この痛みが今は勲章な気がして少しばかり誇らしい。
顔を上げて空を見ると。
歪に欠けた月が、私を見下ろして笑っているように見えた。