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9/11

 伊原が神崎と出会ったのは、大学に入学して間もない一年生の春のことだった。

 伊原は内部進学、神崎は外部受験だった。知り合う前から伊原が神崎の名を知っていたのは、外部受験組が少数派であったからではなく、単純に神崎が当時から目立つ存在だったからだ。

 前年の甲子園大会は惜しくも準決勝で敗れたものの、その端正な顔立ちと長身をもって当時ローカル局はもちろん、全国ネット局の報道番組は神崎雄一をヒーローに仕立てあげていた。プロ球団入りが注目される中で大学に進学するらしい。そういう朝のニュースで見たのを覚えている。

 幼少の頃からテレビに夢中で、体育会系の部活動に所属することもなかった伊原にとって神崎は羨望の対象だった。名前まで俳優のようで人並みの嫉妬もした。

 そんな神崎雄一の進学先が同じ学校であると知って驚いた。同じ歳だとしても、朝一人で起きられないなんていう理由で劣等感を抱える自分とは生きる道がまるで違う。

 そう思っていた。


「それは結局同棲と何が違うんだ」

 隠すつもりは無いけれど少なくともしばらく誰にも話すつもりのなかった、そういう話を最初に話すことになる仲になるとはまさか思ってもみなかった。

「言葉の印象が全然違う。今までの話聞いてた?!」

「印象ね」

 様々な紆余曲折を経て同じ職業になった二人は、時間さえ合えば学生時代より多少低くなった頻度で食事へ行き、比較的真剣な仕事の話もするようになっていた。番組の担当変更で多忙だった伊原のスケジュールがようやく合った金曜の夜、しかし話題になったのは「どうやって起きているのか」だった。

 伊原も避けられないと覚悟していた。神崎は、憎らしいことに容姿や運動神経だけでなく口が固いと信用の置ける友人だった。

「金銭のやり取りはなく好意があって」

「給与と善意」

「だから……何が違うんだよ」

 神崎は揶揄うでもなく心の底から「理解が出来ない」といった表情で首を傾げた。その時、空間を仕切っていた襖が開いた。テーブルに備え付けられたボタンで呼び出された店員だ。ボタンを押した神崎が、

「生、おかわりお願いします」

 と注文する。

「おひとつでよろしいですか?」

「ふたつください」

 まだ手に持ったジョッキに半分入っていた伊原がそう言うと、店員は「かしこまりました」と口角だけ上げて注文を承り去って行った。そして居酒屋の客席は再び個室に戻る。

「恋愛感情はないし、触れたりとかはもちろん甘い雰囲気だったりとかそういうのもないから付き合ってるとは言わない。朝早く起きられないところを起こして頂いている。お金は受け取れないと言うのでせめて空いていた部屋を貸している。以上」

 こういう俗な話題として挙げること自体がこむぎさんに対して失礼千万では?!と動悸がして、伊原は残りのビールを飲み干した。必死になって否定する友人の仕草に引っ掛かりを覚えつつも、

「好きでもない異性と一緒に暮らすなんて、俺ならどんな理由でも御免だけど」

 本人がそう言うならそういうことでいいかと納得した。

 朝起きるのを克服したのか。まさか実家に戻ったかと思っていたが、同居相手と良好な関係を築いているならそれ以上の事情を聞き出すこともない。

 人前に出る仕事柄から「その女、実は伊原のファンかストーカーか何かなのでは?」と頭をよぎりもしたが、身元は十分はっきりしていて伊原側から頼み込んだのだと言う。それなら親密な間柄かと問えば、そういうわけでも無いと言う。

 事実とすれば相手は大した度胸か変わり者だろう。

 伊原も男とはいえ警戒心が足りないと思うが余程必死ということだ。

 神崎は、大学生時代にアナウンサーを志し父親の反対を押して就職試験を受ける伊原を横で見ていた。相談に乗るうちに自分も同じ道に入ってしまう程のすぐ傍らだった。

「異動の報告はしたのか」

 神崎の言葉には「誰に」報告したのかが抜けているが、伊原には何を聞かれているのか分かった。神崎も、伊原が就職をして家を出てから親と連絡を取っていないのを知っている。それを気にかけてくれているのだ。

 担当が朝番組に変更してから二週間が経過していた。起床も仕事も順調だった。こむぎが持ち帰ってくるパンは相変わらず美味しいし、すっかり彼女の言葉に甘えて用意してもらっている食事で健康状態もいつになく好調だ。

「……連絡してないけど、もう知ってそう」

 いつになく歯切れが悪い。

「それはそうだろ」

 神崎が何を言いたいのかは分かっていた。

 連絡をすれば穏やかな家族の談笑とはいかない。母は久しぶりの連絡に喜ぶだろうが、一度自分と連絡を取っていることを知れば、自分と父との諍いに巻き込むことになる。それならば触れない方がいいと言い訳をして目を背けてきた自覚もあって、後ろめたかった。

「俺が言いたいのは、人気順位なんてもうどうでもいいってことにはならないのかってことだよ」

 そう言って自分の事のように怒る、優しい友人を持てたことに伊原は改めて感謝する。

 野球は大学までだと決めていたのだと、様々な就職活動のひとつとしてアナウンサー採用試験に付いてきた受けた友人は、伊原が父親から突きつけられた仕事を続ける条件にあっさり到達してしまった。

 これで伊原自身が二位なら「お前さえ同業者にならなければ」なんて神崎を少しは恨んだーーーかどうかは分からないが、五位以内にも入ったことがない。全国ネットワークのキー局は五局ある。その中の順位ともなれば前回の八位も十分誇るべき、客観的に見て既に身に余る評価だった。

「人の助けがあるとはいえ、時間通りに起きてやれてるんだろ?」

「それで納得させられるならいいけど、そうはいかないと思う」

 人の力を借りて構わないなら最初から実家から通えば話は済む。強情な父があくまでも自立を求めてくるのは明らかだ。

「お待たせしましたー」

 間延びした掛け声の、注文を取りに来たのとは別の店員がトレーに生ビールを二つ載せてやってきた。他人に聞かれては憚る会話だった。二人して黙ってそれを受け取り、そのまま口をつける。

 こむぎとの関係が今どれだけ良かろうといつか終わりは来るだろう。現在は利害が一致し協力をしていても、まさか定年退職するまで起こしに来てくださいとは言えるはずも無い。

「最初から許してもらおうなんて気もないよ」

 知ってるだろ、と伊原が言うと神崎はいつものように納得の行っていない表情をしていた。

 父の指摘通り、この体質が原因で大きな失敗をするかもしれない。誰かに迷惑をかけるかもしれない。

 それでもこれは自分の人生だから。例え我儘だろうと親子の縁を切られようとも、今の職を手放したくなかった。



 同居を始めてから最初の一週間は、伊原よりこむぎが帰ってくる方が早かった。一人営業で売り切れ次第閉店せざるを得ないパン屋あさひは、テレビ取材の影響で客数が増え、正午頃には店じまいしていた。その後からは仕込み量を増やしたということで、朝の放送を終えた伊原の方が早く帰って来ていた。

 自宅の玄関を開けると、久しぶりに部屋の明かりがついた状態で帰宅したことに思い当たって伊原は心が軽くなるのを感じたが、理由はそれだけではなかった。

 玉ねぎのポトフだ。ソーセージも煮込まれて香ばしい匂いもする。

 こむぎは自分の帰りが遅くなろうとも夜の内か早朝に朝食用の食事を用意してくれていた。本人は「ただの家庭料理です」と謙遜するが、食べ歩きが仕事の一部でもある伊原から見ても十分レストランとして成立する腕前であることは間違いなかった。

「ただいま戻りましたー……」

 誘われるようにリビングへ行くとこむぎの姿は無く、テーブルの上に見慣れない大ぶりのクッキー缶のような箱が置いてあった。こむぎの私物だろう。

 それはともかく、とコンロ台に乗った寸胴鍋の蓋を開けた。予想通り玉ねぎとソーセージ、それからじゃがいもと人参のポトフだった。居酒屋でしっかり食べてきたのに条件反射のように空腹を覚えた。

「おかえりなさい」

 聞き慣れてきた声に振り返ると、パジャマ姿のこむぎが浴室から出てきたところだった。いつもは伊原が寝る挨拶をして部屋へ引っ込んだ後に入っているようなので、こうして出くわすのは初めてだった。

「お先にお風呂頂きました」

 時計を見ると22時を回っていた。明日も早く起きるだろうに、相変わらずの短い睡眠時間に驚かされる。

「明日はお仕事お休みですね」

「はい。目覚まし不要の日、です」

「了解しました」

 週末に担当している放送はない。休日は大抵撮りためた録画放送を消化するか、透かし遠出をして食べ歩きをするかに使用していた。こむぎに起こしてもらわない限りは7時過ぎに起きることになる。

 彼女は休みの日をどう過ごしているのだろう。考えが巡り始めるが、すぐに止めた。そもそも伊原の知る限りパン屋あさひに定休日は無い。

 狭い事務所のソファで寝泊まりしていた頃よりさすがに身体は休まっているだろうが、オーバーワーク気味なところが気にかかる。一日のほとんどを働く時間に費やしているのに、私生活にも隙が見えず、風呂上がりでもその長い黒髪は既に乾かし終わっている。

「夕飯まだでした?」

 そういえば髪が下りたまま結われていないのを見るのは珍しいな、とまじまじ見ていたことに気付いて、伊原はポトフにまた目を戻した。

「食べてきたんですけどとても美味しそうだな〜と……」

 取り繕ったが嘘ではなかった。

「軽く食べます?」

「えっ」

「お酒飲んできたんですよね。飲み直すならつまみにでもどうぞ」

 伊原にとってはまたとない申し出だ。食べ足りないし飲み足りなりてもいなかったことを見抜かれている。

「……こむぎさんは俺を甘やかしすぎだと思うんですよ」

「食べませんか」

「食べます」

 そうと決まったら行動は早い。貰い物の白ワインをたしか冷蔵庫の野菜室に入れたまま忘れていた。以前はずっと空だったが買い足されている野菜をかき分けて、奥の方からワインボトルを取りだした。

 一緒に飲みます?と誘おうとするが、さっき「ちゃんと眠らなくて大丈夫なのか」と心配したばかりだった。そんな気遣いを他所にして、こむぎは伊原手にに切られたワインボトルをじっと見ている。

 もしかして飲みたいのか?!と期待を込めて差し出すと、遠慮がちに口を開いた。

「ずっと野菜室に入ってるので気になってたんです。何かのタイミングで飲むつもりなのかなと……」

「一人で家飲みはあまりしないし、もっぱら缶ビールが多くて入れっぱなしに。仕事関係で頂いた物なんです。いいやつなんですかね」

「特別の年代物というわけではないですけど、シャブリというシャルドネ種だけで作られた白ワインです。飲んでも美味しいし料理にも使えるフランス産です」

「その口ぶりは好きなんですね」

 味はもちろん「料理にも使える」という所に合理的な愛着を感じ、彼女らしいと思った。

「ーーー特別詳しいというわけではないんですけど」

 好きなのか。何の根拠もないけどお酒に強そうだなと想像して楽しくなってしまった。あらかじめ居酒屋で入れてきたアルコールのせいもある、と言い訳をしておく。

「こむぎさんも良かったらいかがですか」


 ワイングラスもないのでコップに注いで乾杯した。追いやるように野菜室に入れたままで保管状況はいかがなものかと疑ったが、

「最適な選択です」

 というこむぎのお墨付きまで頂き、余計ご機嫌になってしまった。

 食欲を鑑みて大量に作られたポトフを皿に盛り付け、朝食用にとパン屋あさひから持ち帰られたバケットをスライスしてもらった。こんな時間にしっかり食事を取る罪悪感は潔く捨てた。

「めちゃくちゃ合う……」

 これを機にワイングラスを買おうと決意させるほど料理の相性が良かった。駅前で買って帰る出来合いの料理も美味しいし、大抵のそういった料理はビールがよく合うが、彼女の作る料理は断然ワインが合うのではないかと伊原の食い意地は囁いた。こむぎはワインだけを口につけて満足そうに見える。グラスは2つ買うことに決める。

 あらかた食べ終わろうというところで、帰宅してからずっと気にかかっていたことを伊原は聞いた。

「その箱、こむぎさんのですか」

 一目見て模様の施された美しい缶入りの菓子だと思ったが、よくよく見るとその姿は年季が入っていて南京錠まで取り付けられている。伊原には見覚えがなかった。こむぎは曖昧に唸った。歯切れが悪く珍しい反応に余計に興味が湧いた。

「最近帰りが遅い理由は、前にもお話した通り仕込み量を売上に合わせて増やしたせいもあるんですけど、店を閉めた後に事務所を少しずつ掃除してるんです。レシピと過去の売上履歴が出てくれば助かるし、実家を引き払ったあとの荷物が詰まっていて地震とかあったら崩れてきそうでしたから。ゴミ出しや整頓はともかく、ある程度何がどこにあるのか把握してきたところで出てきたのがこれです」

 ワインが残っているグラスを置いて、こむぎは缶の箱を手に取った。横に振ると微かに音が鳴った。

「書類のようなものが、結構な量しっかり入ってるような気がして」

「探していたお父さんのレシピ等ではないかと?」

「はい」

 頷くこむぎに、伊原は今更というような可能性に気付いた。

 それってもしかして見つかったら自分がお役御免になる代物なのでは?

 まさかすぐに見放されることはないだろう。先日のカボチャコロッケパンのように季節限定商品のようなものまで全て事細かに残されているわけではないだろうし、どうしたって最近までの味見役は必要とされるはずだ。一気に上がった心拍数を抑え込むように胸元を抑えている伊原の事は気にもかけず、こむぎは箱を睨んでいた。

「……それで、中身は確認したんですか」

「いえ。鍵が見つからなくて」

 思わずほっとした自分を叱咤した。伊原の事情を差し引かなくとも見つかった方がいいに決まっている。

「鍵はもうどこにもないのかもしれません。鍵穴に詰め物がされているようで、例え見つかっても意味がありませんから」

 一体どうしてそんなことをしたのか。

 鍵は開けるためにある。閉めた後にもう二度と開けられたくないのなら中身を捨ててしまえばいい事だ。箱を閉じた本人だろうと恐らく考えられるこむぎの父のただならぬ意図を感じた。開けられたくはない、開けてはならないという強い戒めのような気配さえある。

「それなので、工具、特にニッパー等があればお借りできないかなと」

「……あっ、こじ開けちゃうんですか」

「店の事務所で見つかった以上は重要な書類かもしれないので」

 合理的なこむぎらしい。工具なら玄関の靴入れのところに滅多と使わない一式があった。以前立て付けの悪くなったテレビ台を自分で直そうと買い揃えたものだ。まさかこんな風に役目を得るとは思わなかった。

 リビングに戻って「もしよければ」と開ける役を請け負った。パジャマ姿で作業するのは不釣り合いだ。こむぎは遠慮しながらも作業に自信があるわけでもなく伊原に託した。

 受け取ると、なるほどずっしりと重い。重い割りに振るとカタカタと一定の音がした。確かに紙の類が入っているというこむぎの見立ては正しい気がした。

「錠が太いので断ち切るよりも、逆側の蝶番を外す方が早そうです。どうしますか」

「早い方でお願いします」

「了解です」

 明日も早い彼女の身を思えば伊原もそれに賛成だった。箱はなるべく傷つけたくないと勝手に慮ったが、無理に断ち切って傷つけるより比較的脆そうな方を外す方が余程綺麗に中身を取り出すことが出来るだろう。ニッパーではなくマイナスドライバーを隙間に当ててハンマーで叩くと、いとも簡単に箱の蓋は取れた。元より貴重品を保管しておくような用途で頑丈に作られたものではないのだろう。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 こむぎは伊原への感謝こそ込めながら、箱の中身に関してはただ目的を果たす為に何も重大なことなどないようにそれを開けた。伊原の方が余程動揺している。

 大切にしている手紙やアクセサリーを仕舞っておくような装いは、そういえば強面の先代の姿には似つかわしくないような気がした。グラスに残っていたワインを飲み干し、伊原は聞いた。

「探していたレシピはありましたか」

 中身は数枚ということはなく十枚も二十枚も紙が入っていたようで、こむぎは黙々と箱の中を漁っていた。中々真剣に探しているなとワインボトルに手を伸ばそうとした時だった。こむぎは缶を逆さまにして中身をテーブルの上に全て出してしまった。

 怒りでも投げやりでもなく、まるでそれこそ焼き終わったパンを取り出すような無駄のない動きでそうするので、伊原はぼんやりとそれを見届けた。

 中身はレシピではなかった。売上を書き留めた書類でもなかった。逆さまにされた箱から出てきたのは裏側の白紙だったが、それが全て現像された写真であることは捲らなくても分かった。

 何十枚もある写真を一枚ずつ捲っていくこむぎの表情は、しっかり乾かされた髪と同じで特別艶かしいわけも見詰めてはならないものでもないのに、自分が観察してはいけないもののような気がして、伊原は席を立った。

 その音で我に返ったこむぎが、 は、と顔を上げた。しまった、と思った。

「俺、部屋に戻ります。食器は明日片付けておくのでこむぎさんはゆっくりーーー」

「もう少しだけここにいてくれませんか」

「……はい」

 写真にはどれもこむぎと、こむぎの母らしき女性が映っていた。幼い写真から学生服姿まであった。一番新しいと思われるのは高校入学式の写真だった。セーラー服でまだあどけなく校門の前で立っている。

「当日来なかったくせに、これをどうやって手に入れたんでしょうね」

 自分がそばにいていいのか。一人になりたくはないのか。その答えが、きっと思い出話の中に込められている。

 父の想いに反して自分は勝手に店を継ぐのだと断言したこむぎを、伊原は出会ったその日から、眩しいような後ろめたいような気持ちで見ていた。似ているようでまるで真逆なようにも感じている。

 親から縁を切られようともこの仕事は続けられる限り続ける。例えどんな手を使おうと、誰の手を借りようと力を尽くすけれども。

 自分は正面から向き合えているか?見て見ない振りをして逃げているだけなのではないか?話し合える相手はまだこの世に存在しているというのに。

 そういう勝手な伊原の自責の念は、こむぎの瞳からほろりと零れた涙を見つけて吹き飛んでしまった。



 午前2時半より少し前、寝過ごすことは無いが、さすがに寝不足を感じる。顔を洗って歯を磨く。朝食はいつも店の仕込みの途中に食べているが、今日だけは妙に空腹を覚えて、鍋から小さなボウル一杯分のポトフを上げて電子レンジで温めた。いくら照明をつけ音を立てようとも目を覚まさない家主というのは、間借りをしている身としてストレスが少ない。

 手早く胃の中におさめたこむぎは、食器を洗い片付けて、伊原の部屋に向かった。

 今日は起こさなくていい。起こすつもりもない。

 ただ仕事に行く前に顔を見たいと思った。今日は6時前になっても放送がないし、と言い訳をする。

(どうして泣いたんだろう)

 感情的になったつもりはなかったのだけれど。きっと久しぶりに飲んだ白ワインのせいだ。厳しいだけで嫌われているとは思ってはいなかった。それでも自分には関心が無いものだと、ずっと思っていた。

「……困らせてごめんなさい」

 寝顔に向かって頭を下げた。伊原さん慌ててたな。それが少し可笑しくて涙は直ぐに引っ込んでしまった。困らせてしまったけど一人でいなくて良かった。あの狭くて暗い事務所の中で一人あの箱を開けている自分を想像する。写真の中にはいない人の話を聞いてくれる人がすぐそばにいて良かった。

 昨夜に拭ってもらった頬を自分で撫でて、こむぎは仕事へ出かけた。



 午前7時半より少し前、結局この時間にしか一人では起きられないのかという失望を塗り重ねて起きた。人気のないリビングがいつもより寂しく思えて伊原はテレビの電源をつける。顔を洗って歯を磨いている間に、ポトフが入った鍋に火をかけておく。残りのバゲットを厚めに切ってトースターにかけるのも忘れない。コーヒーを入れるための熱湯も用意して。

 一通り朝食の準備が整ったところで伊原は頭を抱えた。

 誰に対してでもなく平静を装ってはみたものの何の意味もなかった。昨夜こむぎと交したワインの次に、上から塗るように神崎とのビールを思い出す。苦々しい味だ。

(恋愛感情はないし、触れたりとかはもちろん甘い雰囲気だったりとかそういうのもないから)

 ない。そんな、甘い雰囲気ではなかった。世間話の延長のようなものだった。なかった。本当に?雰囲気はなかったけれど本当にそういう感情がないと誓って言えるか。思わず手を伸ばした時の頬の皮膚の感触と、それを何度も繰り返し再生していた夢の中の彼女を回想する。まずい。非常にまずい。

 芸能人ではない。会社から禁止もされていない。出会いは取材がきっかけだろうと、誰に咎められる話ではない。しかし、

「好意を寄せてくる男を起こすのは無理がある……」

 今更の話では?と脳内の親友が無情に指摘する。あのいくら合理的で効率主義なこむぎさんでも、さすがに御免こうむりたいに違いない。相手から自分がどう思われているか今まで深く意識したことは無かったが、少なくとも無害な人間として認知されているからこそ、今この状況はあくまでも起こして欲しいからという理由で成立している。

 例えばこの先どうにかなって相思相愛になることがあったら万事解決だろうが、もしいつかそんな事があったとしても、自ら行って砕ける訳にはいかない。仕事は週5日あって週5日起こしてもらわなければならない。その間に一日たりと微妙な関係性があっては滞りがでる恐れがある。

 どんな手段を使ってでも仕事を遂行するつもりではあったが、この先果たして一緒に暮らしていて隠し通せるものか。もしかして既に漏れ出ていたりはしないか。こむぎの父が南京錠を付けて厳重に閉じ込めていた感情も、ああやっていとも簡単に力づくで開封されてしまうというのに。

 何がきっかけだ、と混乱した頭で冷め始めているバゲットに齧り付く。またもう一口と頬張る。外はパリパリ中はふんわり。トーストしたことで、湿度のあった食感はもちもちとした食べ応えになる。大変なことになったと思うのに、身体中が幸福感で満たさていく。

「……おいしい」

 出会ったその日から胃袋は掴まれていることだけは間違いなかった。

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