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「全く同じ商品のように感じます。胡椒の効いたコロッケとバランスが丁度いい柔らかい甘めのパン……ソースとマヨネーズの量もそのものです。写真送りますね。そういえば去年の秋はカボチャコロッケが売られていて」

「カボチャ?」

 こむぎが走らせていたペンをピタリと止めて顔を上げた。

「詳しくお願いします」

 伊原はかぶりつこうとしていた2個目のコロッケパンとこむぎの鋭い目つきを見比べる。

 売れ残ったら持って帰る、という有難い予告通り、帰宅してきたこむぎはバッグいっぱいのパンを持って帰ってきた。朝食にしようという話だったのに、一日それを楽しみにしていた伊原は結局我慢できず夕食にすることにした。

 食欲を抑え込み、頭を回転させて記憶を辿った。

「10月の頭くらいからだったと思います。駅前のハロウィンイベントに合わせて各店舗一緒に関連商品を売っていました。詳しい企画内容は……すみません、よく覚えていません」

 翌年の今頃こういう状況になると知っていたら隅から隅まで記録に残していただろう。しかし現実は当然そうもいかず、いつも商品写真しか撮る習慣はない。

「食べましたか?」

「食べました。甘めのカボチャコロッケで、確か具はカボチャだけでした。クリーミーで生クリームとか入ってるのかなというくらいで……マヨネーズなし、ソースのみ。写真見つけ次第でシェアします」

「本当に助かります。来年に向けて備えます。……あの、今度カボチャコロッケも試食いただいても?」

「もちろん喜んで!是非食べたいですし、協力させてください」

「ありがとうございます。手を止めてしまってすみませんでした」

 続きをどうぞ、と促されてありがたく頬張り直した。

 役得。棚からぼたもち。鴨が葱を背負って来る。朝起こしてくれる人がパンまで持ってきてくれる。

 伊原は、向かいの席でペンを止め自分で焼いたパンを分解しながらコーヒーを飲んでいるこむぎを眺めた。上手い言葉が見つからない。感謝では収まらない、こちらが与えられすぎているという不安も募った。部屋を借りる分の家賃が浮いたらいいと空き部屋を提供したものの食事まで頂いてしまっている。

 金銭的報酬は受け取りたくないのだという意志の固さに伊原はどうしたものかと眉をひそめ、最後のコロッケパンの一口を飲み込んだ。

「あの」

「はい」

「……お店はどうですか。順調ですか」

 なにか手がかりは無いものかと聞いてはみたが、世間話にしかなっていない。

「おかげさまですごく好調です。テレビの影響もすごくて、今日は閉店時間より早めに売りきってしまいました。仕込み数を直します」

「そしたら今自分が頂いたコロッケパンは……」

「味が完成しているか分からなかったので試作品です。コロッケもパンも一個ずつ作るというわけにはいかないので、どうしてもそんな量に」

 7個分のコロッケパンが収められた胃のあたりを思わず撫でた。なんて有難くて幸福な話だろう、と伊原は感謝しかけるが、今はそういう問題ではない。

「パン屋さんってパンだけじゃなくてコロッケ部分も作るんですか!」

「珍しくはないですよ。でも修行はほとんどパリだったので、コロッケのような日本の惣菜はまだ慣れなくて、再現できたとしても一人営業で時間内に作って店に並べられるようになるのはまた別の話です。正直先代はどうやって作業していたのか教えて欲しいくらい。ソーセージやあんこの具材は仕入れ品、クリームとかフィリングはソース作りの延長上でなんとかなるんですけど」

「十分尊敬します」

「伊原さんは料理しないですか?せっかく立派な設備がついてるのに」

 こむぎのいう通り、伊原の自宅には家族世帯でも十分な程のシステムキッチンが備え付けられているが、すっかり使い余していた。

「簡単に卵を焼いたりラーメン茹でたりはしますけど、ほぼ外食で済ませちゃってます。作ってるうちにお腹が減って待ちきれなくなって……例えばカレーを鍋で煮るとするじゃないですか。そうすると野菜切って肉炒めてみたいなことしてるとカレーのルーを入れる前からもう食べたくなって、でもちゃんと美味しくカレー食べたいしで我慢しなくちゃいけなくて、自分で自分を拷問してる気分になって……」

 人に話しても共感されたことのない悩みを打ち明けると、共感はされなかったが、こむぎは真剣にその話を聞いていた。それなら、と思いついたように言った。

「余程手の込んだものでなければ今後私が食事作りますよ。もしキッチンを使って構わなければ、ですけど」

「えっ」

 それは嬉しい。反射的に思わず立ち上がりそうになった程、もしそんなことがあるなら嬉しい。特に仕事が多忙だった日の帰り道はいつもは大好きで通う駅前のチェーン店のテイクアウトも味気なく感じた経験が何度もあった。しかし、

「いや、いやいやいや……」

 逆に仕事を増やしてどうする。首を横振っている伊原に、こむぎは「そうしましょう」と押した。

「パン屋が言うのもなんですけど、朝食としてならともかく、夕食にパンだけだと食事として栄養バランスが悪すぎます。ほぼ炭水化物ですから肉や魚や野菜も入れた方が良いです」

「た、確かにそうなんですけど、そこまでしていただく訳にはいかないです。キッチンも調理道具も風呂場でも何でも好きに使って欲しいし、足りないものがあったら補充します。でも起こしに来て貰ってパンまで持ってきてもらってお給料も払えないとなると、さすがに申し訳が立ちません」

「それはこちらの台詞です。ただでさえあさひの情報出してもらってすごく助かってるのにその上お部屋まで使わせてもらって、仕事行くついでに伊原さん起こすだけで、このままお世話になるだけというわけにはいかないです。パンだって、売らずに食べきれなくて捨てるはずだった分しかまだ持ってきていません。それにキッチンお借りしていいなら、私が自分で食べる分を作るついでに伊原さん分を作るのくらい何でもない労力なので、全然それでも足りないんです」

「確かにそうかもしれませんが、こむぎさんの作った料理って絶対すごく美味しそうじゃないですか?!」

「それは期待しすぎですけど、それの何が悪いんですか」

 こむぎは心底理解できないと言いたげな顔をしているが、伊原もアナウンサーを生業にしているくせに、上手く言葉に言い表せないでいた。無理に言葉にするなら「だってあなた女の人じゃないですか」だ。

 家族でも恋人でもない男の家に通ってもらうリスクは報酬にしても替えがたい。藁にもすがる思いで頼んだはいいが、あまりにでもなんでもないように、こむぎは「このくらいのことは大丈夫」と言い、さも当然かのような冷静な顔と理論で井原を打ち負かしてきた。部屋に住むよう誘っておきながら話の筋が通っていないのも自覚がある。

 それでいて「この生活に嫌気がさし出てきて行きたくなったら、何時でも辞めてください」とも言えないでいる。卑怯なことに事前の約束として提示もできないままだ。実際そうなったら再び困り果てることになる。言うまでもなく選択肢は無い。そこまで強制出来る筈もないのに。

「……分かりました。こむぎさんの手間にならなければお願いします。でも、もし俺に出来ることがあったら言ってください」

 こむぎにしてみれば大袈裟に聞こえるだろうことでも伊原にとっては深刻な問題だった。伊原の真剣な訴えを聞いた後、こむぎはしばらく黙ってコーヒーを飲んでいた。レシピを書き付けていた手帳を何度か捲っては、思い悩むように閉じていた。明日から早朝に起床することになる伊原は就寝準備を始めた。悩ませてしまって申し訳なかったと気にしていると、洗面台の方に行って戻ってきたこむぎに呼び止められた。


 

 番組リニューアル初日のモーニング!ニッポン放送前ミーティングは念入りに行われた。放送30分前になって解散し、出演者を含めたスタッフはそれぞれの持ち場へ散っていく。ミーティングで配られた原稿に目を通し終わってスタジオへ早めに向かうと、スタジオに入る手前のソファ席に原稿を眺める間宮紗央里が腰掛けていた。歩いてくる気配で気付いたのか顔を上げる。朝の挨拶は済ませていたし同じミーティングに出ていた。本番よろしく、と手を挙げあう。

 プロのスタイリストに仕上げられた女子アナウンサー達は、番組で横に並ぶ女性タレントや女優にも引けを取らない華やかさを誇ってる。伊原は入社直後こそ迫力に尻込みもしたが今となっては日常になっていた。しっかり整えられた同僚の姿を見て、思い出した。

「ちょっと質問していい?」

「うん。なに」

「笑顔の練習方法、新入社員研修で教わった割り箸を口に挟むやつ以外で何か覚えてない?」

 間宮は入社した時から同期の中でも優等生で出世株だ。こむぎと同性でもある。教えを乞うのに適役だと直感した。

 熟考した様子の末にこむぎが頼んできたのは、

「笑顔の上手な作り方を教えてください」

 ということだった。状況が把握出来ず「エガオっていわゆるスマイルのことですか」と馬鹿げた質問をすると、こむぎは事情を説明してくれた。

 これまでは厨房でパンを作るだけの仕事をしていた。客前に立つのは初めてで、作業的な販売はできるが常に愛想よく振る舞うのは苦手に思っており、笑顔での接客がぎこちなってしまう。だから番組で自然に笑っているのを見たアナウンサーから作り方を教わりたい。

 そう言うこむぎの質問に対して、伊原は返答に窮していた。

 伊原は子供の頃から朗らかな人間だった。テレビ局の採用試験を通った後の研修で苦労したことといえば滑舌や言葉遣いの事ばかりで、習ったはずの表情作りや立ち居振る舞いは、我流のままここまで来てしまった。持ち前の笑顔や柔らかな雰囲気に対しても業界や視聴者からの定評もあるが、人様に自信と責任を持って伝授できる技術は無かった。

「笑顔?」

 カメラ前では基本にこやかな表情が一瞬で怪訝な色になった。間宮は顔以外の、伊原の頭の先から爪先までも見定めて言った。

「……大丈夫だと思うけど?」

「お世話になってる人に笑顔のコツ聞かれたんだけど上手く答えられなくて」

 この状況で仕事と直接関係のある質問以外をされるなんて、誰が予想できるだろうか。伊原の至極真剣な顔つきに間宮は呆れた。

 思い返せば、入社した時から伊原は今までずっとこの調子だ。良く言えば度胸が座っているのだが、人並みにプレッシャーを感じて働いている人間に言わせれば伊原は能天気な類の人間だ。尊敬する上司の萩野アナに比べれば頼りがいは無いのに、どこか天真爛漫で、他の男性アナウンサーにはない強かさがある。というのが間宮の伊原に対する評価だった。

「本番前に一体何を聞いてくるかと思えば。初日から余裕あるじゃん」

「そうでもないんだけど」

 そうは言ったものの、実際いよいよ当日という感情はあれど、無事起床できた事実で無駄な力は抜けている。

「伊原くんはそういうフワフワしてるところが売りだよ」

「褒められていない気がする」

「褒めてないからね。……そうね。研修でやったのは表情筋、特に頬まわりの筋肉を動かしたり手でマッサージしたりしてほぐす。口角を上げることだけではなく一緒に目尻を下げることも考える。あとは口の中で舌を回すーーーのは発音か」

「懐かしい。それはよくやったな」

「あとは鏡の前で繰り返し練習。それは今も毎日やってるかな」

「ま、毎日……!」

 ごくりと息を飲む気配に、間宮は少し羨ましく思う。

 伊原に、ではない。

 男性アナウンサー全体に、なんて大袈裟なことも思わない。彼等にも彼等特有の苦労があることも分かる。メインキャスターの配置の件も妥当だ。雰囲気を全面的に変えたかったはずの背景でも自分が残されたのは、番組を安定させ、抜擢されてきた伊原をサポートするのに適していると認められたからだ。女子アナだから舐められてるだなんて思わない。誇りとやり甲斐を感じている。それでも、だ。

 女は愛嬌。女は笑顔。女は見た目が大事。新入社員研修で教えこまれた訓示は、キャリアを積むほどに呆れ返るほど事実だと思い知らされている。

 カメラの前でならまだしも、通勤の行き帰りに週刊誌に写真を撮られ、やれ「不機嫌そう」だの「太った」だの勝手に書き立てられる。その点、男性アナウンサーはそれこそ不倫でもしない限りとやかく言われることもない。

「笑顔のコツを教えてあげるお世話になってる人って女の人?」

 聞くと、伊原は珍しく顔を顰めた。

「そうだけど」

 とだけ答えた。純朴に「なんで分かったの?」みたいな顔をしているが、男女の二択だし、笑顔を気にするなんて大抵は女性だと容易に想像がつく。

「そうなんだ。ふーん」

 同僚のプライベートに立ち入る主義ではないが、答えづらそうにしている伊原を見ると興味深くはあった。近いうちに書き出そう。

「そろそろ本番の時間かな……」

「そっちから話振ってきたんでしょうが」

「うん。助かったし参考になった、ありがとう」

 二人立ち上がって、いよいよ準備で慌ただしくなってきているスタジオに目をやる。原稿を持ってここまで来た時は、正直少し緊張していた。でも伊原と話して本番前の良い息抜きになった。力も程よく抜けている。上手くやれそうだ。

 扉の前の立ち鏡で最後に自分の姿を確認する。もう何度も顔に張り付けて来た笑顔を確認して、大丈夫、と言い聞かせる。これが女の武器だと言うならせいぜい今日からも引き続き日本中に振り撒いてやろう。そう思う。

「俺も毎日鏡の前で練習しよ」

 そう呟いて頬を捏ねているのを横目で見て、間宮は折角入れた気合いが抜けるような、でも今週からの新しい放送はきっと上手くいくだろうと確信した。


 こむぎは設定していたタイマーが鳴るのを止めた。いつもは発酵時間を正確に測るために使用しているタイマーだったが、今日ばかりは別の時間を計っていた。

 買ったばかりの小型テレビの電源をつけると、静かな一人の厨房に話し声が広がる。テレビの中で働いている人達の声だ。番組の終わりかけで、念を押すように今日の天気を説明している。チャンネルは昨日設置した時に合わせていた。

 まもなく5時50分だ。朝のテレビ番組は左上に時間が表示されている。時計代わりにもなるし、明日からはタイマーを設定しないで電源をつけたままにしようと思う。作業の手を止めて待っていると、ぱっと画面が切り替わった。

「おはようございます」

 いた。伊原は本当にそこにいた。まだ出会って何日も経っていないのに既に聞き慣れたような気がする挨拶に安心する。数時間前、放送初日に実験するのは申し訳ないからと即時名前を呼んで起こした相手が、そこで元気よく働いている。

 今日からよろしくお願いしますと伊原が手短に挨拶したあと、画面は切り替わり、昨夜発生した国外の災害状況について報道を始めた。内容は頭に入って来ないまま「本当に伊原さんが喋ってる」と当たり前のことを確認した。

 しばらくすると画面はまたスタジオに切り替わり、今度は伊原の隣に立っていた女性アナウンサーが昨夜のサッカー国際試合について報じる。日本が勝ったということでその笑顔は眩しい。

 こむぎは、そこで伊原に頼んでいた笑顔の件と手が止まっていた件を思い出し、作業台に戻った。


 先日のテレビ効果でまたしても早期完売してしまったパン屋あさひは、昼には店を閉めることになった。接客をしながら営業中も焼き続けるという荒業も出来なくはないだろうが、安定した品質を保つにはしばらくの間はこのままの状態が続きそうだ。

 陽が高いうちに伊原宅に戻ったこむぎは、試作用のカボチャコロッケと、ベーコンと豆とトマトのスープを作りながら「強引すぎたかしら」と食事と笑顔の件を捩じ込んだ金曜日の晩のことを思い出していた。

 笑顔の事は、熟考の末に捻り出したアイデアだった。

 実際接客は不慣れだし決して上手くない。愛想もないし、笑顔を作ろうにもぎこちないのも事実だ。それでも先代の無愛想でぶっきらぼうな対応と比べれば、解決する必要があるような問題ではなかった。仕込み量を増やすほうが余程先決すべき課題だ。

 食事の用意にしても、試食と部屋の代わりには到底及ばない。むしろパン屋として客が目の前で食べている姿を見るのに慣れていなかったこむぎからすれば、美味しそうに料理を頬張る姿を眺める喜びさえ、計算外の副産物として追加されてしまった。

 それにあの物腰の柔らかな印象でにこやかな伊原ならば、いとも簡単にその秘訣を教えることが出来るものだろうと思って依頼した。伊原を気負わせてしまっている事にも気づいていた。

 誤算だったのは思いのほか伊原が難しく考え始めてしまったという事だ。

「逆に困らせてごめんなさい」

 本人に直接言うと苦し紛れの頼みであったことが知れてしまうので、その分スープに謝罪を込めて、今日からできるだけ美味しくたくさん作りますから、と誓う。

 父と伊原は全く似ていない。顔も姿も似ていないし、性格も正反対と言っていい。娘の自分の方がずっと共通点が多いという自覚もある。

 ただ、こむぎが理解し難い点について頑固なところが似ている。こちらが良いと言ってるのに何故こだわるのか。頑なに店を譲ろうとしなかった父を思い出す。どちらにしても勝手にやらせてもらうのだけれども。死後の世界はあまり信じていないが、あの無愛想な顔も困っているのかもしれないと想像する。

 でもレシピはともかくせめて売上情報だけでも残しておいてよ、とついでに文句を言ってしまいそうだ。事務所の中を整理整頓しているが、それらしきものはまだ見つかっていない。店には単価と個数を入力し計算することしか出来ない古びたレジスターしかなかった。取引先は事務所で見つけた請求先や発注書からすぐに割り出せはしたが、カボチャコロッケのように、こむぎが知らないパン屋あさひの部分はまだ多い。

 玄関の方から音がして「戻りました」と伊原の声が聞こえた。そういえ伊原にば何と声をかけるか決めていなかった。番組見ました、初日の放送おめでとうございます、明日からも見ます?

「トマトスープですか!」

 色々と考えたが、リビングに入ってくるなり伊原は匂いを嗅ぎつけて駆け寄って来た。無事に起きられたとパジャマ姿で喜んでいる興奮の様子に近くても、寝起きの飛び跳ねた髪は当然テレビ画面越しに見た通りしっかり整えられている。

「正解です。豆は入れて大丈夫でした?」

「大好きです。なんでも食べます。うわーコロッケもある……あの、これは夕飯用ですよね……?」

 壁の時計を見ると昼の三時だ。言葉にはしないが表情が今すぐ食べたいと言っているのがこむぎにも分かった。

「まだお昼食べてないんですか」

「放送後に食べたんですけど、すみません、いま減りました」

「コロッケは試作のカボチャコロッケですが、よろしければどうぞ」

「やった!ありがとうございます準備手伝います」

「上着脱いで来てからで」

「はい!」

 元気よく満面の笑顔で自室へ入っていった。やはり父や自分とは似ても似つかない。甘さ違いのカボチャコロッケ3種とトマトスープをそれぞれ皿に盛り、それから気になっていた駅前のパン屋で買って来た食パンを厚めにカットする。食事をするつもりはなかったが、ついでに味見をするために自分の分を小さく切った。

「今日はあさひのパンじゃないんですね」

 早々に戻って来た伊原が言い当てるのでこむぎは一歩退く。駅前のやつ?とまで言ってなかなか侮れない。

 好きに使って下さいと言われた棚からスプーンやフォークを取り出しつつ、どれだけ食べるつもりなのか分からず「好きなだけ器によそってください」と大鍋のスープを指さした。伊原は大きなカレー皿を取り出してくるのを見て、こむぎは夕飯はまた別のものを作ろうと考え直した。

 着席したのを見計らい、カボチャコロッケの味の違いについて先に説明する。

「送ってもらった写真を元に作りました。記憶と近いものがあったら教えてください」

「有り難くいただきます」

 手を合わせ勢いよく食べ始めた伊原をしばらく観察し、こむぎは部屋へ手帳を取りに戻った。店の二階の事務所に今も寝泊まりしていたらこのタイミングで試作はできていなかっただろう。伊原には重ねて感謝しなければならない。

「こむぎさん」

 リビングに戻ると、早速全てのカボチャコロッケに手をつけていた伊原がこむぎを呼んだ。

「中央の味が結構近いです。食感はもう少し柔らかかった気がします」

「そうですか。直してみます」

「あの、でも」

 こむぎは手帳を開きかけた手を止めた。

「なんでしょう」

「どれも美味しいんですけど、個人的にはですよ、こっちのもっと甘い方が好きです」

 食感も今のままの方が好きです、と加えてこむぎから向かって右側のカボチャコロッケを指した。

「聞かれてる事じゃないのは分かってるんですけど」

「それは、ご意見参考にします。ーーーひとくち貰っても?」

「もちろん」

 揚げた後に味見はした。実際伊原が好きだと言った方は少し甘すぎると思っていた。箸を持って来て、食べかけの皿から改めて食べると、やはり甘い。子供向けくらいの味付けだ。砂糖だけではなく生クリームを多くして重めにしてある。ただ他のパーツと組み合わせたら相性がいいかもしれない。

「わかりました。今度どちらもパンに挟んでみるのでよければまた試食を……」

「いつでもなんでも喜んで食べます」

「……はい」

 伊原の言葉を疑ったことはなかったが、伊原にとってそれは負担ではなく歓迎している事なのだと、心からそう言ってくれているのだと信じられた。こむぎが思わず笑うと、伊原が「あっ」と何かを思い出したように手に持っていたスプーンを皿に戻した。

「頼まれてた笑顔の上手な作り方の件なんですけど」

「あ、はい」

 こむぎは一瞬忘れかけていたことを反省して椅子に座り直した。伊原は真剣な面持ちで言った。

「こむぎさんはそのままが一番良いです。会社で確認してきたコツや練習方法はお伝えします。でも、頑張って笑ったりしないで、本当におかしいときだけたまに軽く笑ってるぐらいがこむぎさんらしくて良くて、愛想とかそういうことより誠実で、お店でも一番常連さんがついてくる方法だと思います」

 個人的な感想ですけど、といつものように言い添えた。

 これが商品のことであれば「参考にします」と言って手帳にオススメと書き留めておくところだ。そしていつか本当に父親のレシピを真似するだけではなく、今の自分が得意で好きだと思う改良に取り掛かってみる可能性もあるかもしれないと考えていた。

 私はそのままの自分で良い、と胸中で復唱する。

「……参考にさせてもらいます」

 結局それだけしか言えなかったのだが、伊原はその返答を聞いて安心したように笑っていた。

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