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 旭重造の生家は、元は農家を生業にしていたものの重造が中学卒業をする頃に災害や天候不振が続いて廃業していた。農家を継ぐ以外の選択肢は考えていなかった重造は高校卒業後に職を求めて東京へ出る。ただ生きるために鉄筋工場で働いていたが、ある日、職場へ向かう途中で初めてパン屋に寄った。理由は特になかった。特別パンが好きだったわけでも、人気と話題の店でもない。どちらかというと朝は米派だったが、ただたまにはパンでも食べようという気分になった。当時はコンビニエンスストアも無かった。その店のレジを担当していたのは、家計を助ける為、高校へ登校する前にアルバイトしている女子生徒だった。彼女はパンが好きだった。のちに重造と結婚し、子どもの頃からの夢だったパン屋を開業する。しばらくして生まれたのがこむぎだ。

 これが幼い頃、まだ健在だった頃の母に教えてもらったパン屋あさひ及び旭こむぎ誕生のおおまかな歴史である。


 つまりこむぎの早起き癖は遺伝子に刻まれたものではなく、後天的に家庭環境によって備わったものだ。さすがに何日も徹夜をした後は多く寝るが、通常は22過ぎに寝て翌午前2時過ぎには自然に目が覚める。決して不眠で悩むことはなく、寝すぎると体が重くなる感覚さえ合った。スマートフォンのアラームは一応設定しているがほとんど頼ることはない。時差も影響なくパリから東京に戻ったその日もその通りに起きたのだ。

 そのはずだった。

 伊原の部屋に越してきた翌朝ーーー朝と呼ぶにはまだ多くの人が寝静まって間もない午前2時15分ーーーこむぎは布団から身体を起こして、何度もスマートフォンの画面に表示されている文字を確認し直した。

「こんなことって……」

 画面には「アラーム停止」の文字が並んでいる。最も小さなボリュームの音が鳴ったままで、2時15分のアラームをようやく止めた。設定した時間通りに起きた。


 夕方放送の仕事を終え、帰宅した伊原が続々と運んできたのは実に3セット分の寝具だった。起こしに行てもらう仕事の福利厚生という名で伊原が買った、こむぎ用のベッドフレーム及び寝具セットが届くのは来週中の予定だった。それまでの間好きなものを使ってくださいねと勧めたはいいが、呆気に取られて閉口しているこむぎに伊原は気まずくなって頭を掻いた。

「やはり睡眠の質が問題じゃないかと買って色々思って試しているうちにこんなことになりました」

 これは体の形に合わせて作った特注品、これは海外メーカーからの輸入品、これはプロスポーツ選手向けの品で、と一通り説明する伊原の言葉を「そうではなく」とこむぎが制止する。今日までソファで寝ていたのだ。寝具性能に問うつもりはひとつもない。こむぎが言葉を選んでいるうちに伊原が先に口を開く。

「すみません、シーツや布団はもちろん洗ってますが試しに何度か使ったものになっちゃって」

「いやそうでもなく」

「……でもなく?」

「これだけあるなら新しく買わなくて良かったんじゃないですか?」


 結局「こだわりがなければ一番最近買って新しいものを」と敷いたのは、プロのスポーツトレーナーと国内寝具メーカーが共同開発したという国産マットレスと枕だった。もしかしていつもより寝たのはこれのせいか。こむぎは反発力を手で押して確認する。正直、睡眠の質が変わるだなんて半信半疑だった。頭も体も、気のせいかもしれないが「実は疲れが溜まっていたのだ」と気付かされる程に取れて、とてもすっきりしている。

「こむぎさんにはきっとこれが良い」

 と、ソムリエよろしく伊原が選出していた品で眠ったら、自分は一体どうなってしまうのだろうか。さすがに家財道具くらいは自分で払うと遠慮したが、「お金ではお返しできないくらいの仕事なので」と押し切る伊原に、注文内容は全ておまかせしてあった。

 朝早く起きるのが何故そんなに重要なのか。職場に頼んで変えて貰うか、そこまで深刻なら転職という手もあるのではないか。

 そういう謎と呼ぶには大袈裟な、しかし頭で引っかかっていた不思議は、生活が落ち着いたら伊原に尋ねようと思っていた。まさか朝のニュース番組の司会者だったとは。予想もしていなかった。

「どうして教えてくれなかったんですか」

 と言うのは名刺に明記されていたのを見落としていた手前言わなかった。

「テレビに出るようなお仕事だったなんて知りませんでした」

 と言うのも失礼だな、と知らなかったことはまだ伊原に伝えていない。


 服を手早く着替え、洗面台で顔を洗い、歯を磨き、髪を簡単に梳かして結けばこむぎの支度はほぼ完了した。化粧はしない。一人で切り盛りする以上は売り場にも立つから少しくらい手を掛けた方がいいかも、とは思うがしばらくはいいか、と検討を先送りにする。

 時刻は午前2時22分。もうすぐ伊原を起こす時間になる。伊原は明日からの勤務に備えて休日ということだけれど、体を慣らすために時間通りに起こして欲しいという注文だった。

 暗い伊原の寝室に入り場所がわかっている照明のスイッチを押した。パッと部屋が明るくなるが、当然のように伊原は静かに寝ていて起きる気配はない。今日も胸元で指を組んだ寝相で動いた気配はなかった。

 伊原が今現在使用しているのは介護用の電動式ベッドだ。結局睡眠の質ではなく朝起きるという観点だと言う。もしもの時の為に操作方法も昨晩の内に教えてもらったが、起こす前の数分間を使って試してみたいことがこむぎにはあった。

 伊原が目を覚ますトリガーは、本当に下の名前を呼ばれることだけなのか、ということだ。

 もし違う起こし方でも目を覚まさせる方法があるなら、それは伊原にとっては大きな収穫だろうし、こむぎにとってもこの副業がいつまで続くかの見極めになるだろう。

 まずベッドの稼働だ。ベッドフレームの脇からぶら下がっているリモコンは、家電量販店に置いてあるような全身用マッサージ機のそれに似ていた。効果がなくてしばらく使っていないというプラグを接続して電源を入れる。上半身を上げるボタンを押すと、ジジジジジ、と微かな音を立てて伊原の上半身が持ち上がった。起きない。

「これでは起きない、か……」

 続けて脚のマークがついているボタンを押すと、布団に覆われた伊原の膝あたりが折れて持ち上がった。起きない。

 次は腕を引いてみる。ベッドに上半身を起こされてもぴたりと胸に置かれた指を解き両手を握る。伊原の手を握るのは、朝起こしに行くことが決まった日に握手して以来だった。その時の感覚はよく覚えていないが、寝ているせいなのか今は子供のように温かい。

「よっ、と」

 毎朝の仕込みで力仕事には自信がある。既に傾斜45度程度まで起きているところから90度まで引き、反応がないのを見計らって前屈させるところまで至る。これならさすがに目を覚ますだろうと高を括っていたが、起きない。手を離してもそのまま微動だにしないので肩を押して体をベッドに戻した。

 本当に生きてるよね、と前回来た時と同じように口元に手をやるが問題なく呼吸している。念の為首筋で脈を取っても正常そうだ。

 さて、顔に跡が残ると業務に支障があると言っていたが休日ならば問題ないか。そうなら今日しか試せない。出番は週末を挟んだ月曜からだと、夕方の放送でも本人が言っていた。

 あの仕事だったら確かにそれは支障になるだろう。

「少しだけ失礼します」

 眠っていて言葉は届かないだろうけれど断りを入れた。頬に指をかけて押し込んでみる。むに、と皮膚が動くだけで伊原は起きない。続けて頬を指で摘む。万が一跡になるようなことがあっては実用的ではないだろう、と強くはつねらず、ゆっくり動かして軽く引っ張ってみる。起きない。

 これは何かに似ている。誰かの顔に似ているとかではなくて、指で触れた時の感触が何かに似ている。相変わらず表情ひとつ変えずされるがままに頬を弄ばれている伊原を見ていて、ああ、と思い出した。まさしくパン生地だ。ふわふわとまではいかないが、発酵して膨らむ前あたりの生地。毎朝捏ねていても飽きず嫌いになれないあの作業。もう約束の時間だ。

「伊原さん、起きてください。そろそろ2時半になりますよ」

 起きない。

「伊原さーん、伊原くーん、起きてー。伊原ぁ」

 起きない。そういえばこの作業自体がレシピ再現の作業に似ている。材料の配合を変えたり、発酵時間を変えたり、焼成のタイミングを少しずつ変えたりする。前回は下の名前に君付けで起きた。よしゆきくーん。

「善行、起きて」

「うん」

 伊原がしっかりとした口調で突然返事をした。こむぎは摘んだままだった頬を思わず放した。まもなく瞼も持ち上げられて目が合った。

「あ、おはようございます」

「おはようございます。丁度2時半です」

「ありがとうございます……よかった、今日もちゃんと起きれた……ーーーあれ?」

 何かに気づいたように、首を振って寝ていたベッドを確認している。

「どうかしましたか」

「ベッド、昨日ひさしぶりに起こしたまま寝たんだっけ?と思って。こむぎさんが今動かしてくれたんですか?」

「あー……はい。ちょっと気になって動かしてみました」

 伊原を使ってどうすれば起きるかの実験をしていたことは伏せた。

「あの、どうでしたか」

「どうでしたか、とは?」

「ベッド動かした時にあともう少しで起きそうだった、とか、そういうのは……」

「それは残念ながら全く」

「そうですかぁ……」

 伊原は、はああ、と長いため息をついて頭を抱えた。

 深刻な問題なのだなと同情と心配こそするが、こむぎは一方で伊原を起こすためのレシピ進捗を頭の中に書き付けている。あとで手帳にも書いておこう。

 身体的な刺激に関する効果は未発見。

 呼び方よりも下の名前であることが重要な可能性高い。

 優しい母親が息子を呼ぶように、というよりまるで犬を躾けるような呼び方でも再現性があった。犬。子供の頃、犬と暮らすことに憧れていたけれど、親の仕事が忙しく欲しいと強請ることも諦めた事を思い出す。

「それじゃ私は仕事に行ってきますね」

 ベッドから降りる伊原を見計らって背を向けると、

「いってらっしゃい」

 お仕事頑張って、と声が追いかけた。

 こむぎがはっとして振り返ると、伊原が何かあったのかと不思議そうにこむぎを見た。仕事へ行くのに送り出される言葉をかけられたのは久しぶりだった。否、久しぶりどころではない。きっと初めてだ。

 だからどうしたの、と自分でも思う。なんと言っていいか分からず、こむぎは無理に言葉を繋いだ。

「ーーー月曜からのお仕事は、何時に部屋を出るんですか」

 予想していなかった質問に伊原が一瞬呆けた。

「あ、はい、大体3時頃です」

「朝食は職場で?」

「24時間営業のコンビニがビルの中にあるので」

「店で売れ残りが出たら持って帰ってきましょうか、」

「いいんですか?!」

 当日中にお召し上がりくださいとお客様に伝えてるけど日付変わって3時間くらい誤差ということで、と言い切る前に伊原がこむぎの両手を拾った。睡眠中のように温かい。

「すっごく嬉しいです!楽しみです!毎朝食べたいので、売れ残りと言わず可能なら多めに焼いてください!買い取りますので!ぜひ!」

 寝癖頭のままの伊原に詰め寄られ圧倒されながら、こむぎは二つのことに考えを巡らせた。ひとつはどれを何個多めに作ろうか、ということと、もうひとつは「朝食は伊原さんの好きな〇〇(好物らしい商品名を本人と確認して埋める)ですよ」とでも次は耳元で囁いてみようかということだった。

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