6
葬儀が終わったあと、服も着替えないままスーツケースを引いて店に行った。一階には売り場と厨房、二階は事務所兼常温食材や機器の物置がある。
父は実家が無くなってからずっと二階で寝泊まりをしていたという。2人がけの古いソファには毛布がかかっていた。きっとそこで眠っていたのだろうと想像して、漠然と自分も今日からそうするのだと思った。辿られるはずだった道を代わりに辿るとはそういうことだと思ったのは意固地と疲労で思考が停止していたからだった。三日後にはそう考え至ったけれど。
でもまさか一週間でこんなことになるとは想像してもいなかった。
こむぎは再びスーツケースを引いて店のシャッターを下ろし、感慨深く、もう誰もいなくなった2階の窓を見上げた。
水曜のyou.NEWS放送後アフターミーティングが終わってアナウンス室に戻る途中、廊下でADの渡部美里の姿を見つけ、伊原は呼び止めた。
「チューモクの進捗どうなりましたか」
放送を明日に控え、今日も3軒目のロケ先で顔を合わせていたが、その時は時間が押していて必要最低限のやり取りしかできなかった。
昨日の午後にパン屋あさひでこむぎへのインタビューを終えたあと、伊原は作り直すことになった商品の製造工程を見ることなく局へ戻らざるを得なかった。今朝も営業中の店舗を撮影しにスタッフが店へ行ったはずだった。
「伊原さん、ご自宅があさひさんと近いって言ってましたよね?!」
目が合うなり詰め寄る美里に伊原は仰け反った。
「今度お会いするようなことがあったらよろしくお伝えください!あのあと、丸いフランスパンの上に載ったチーズが焼き上がってオーブンから出てきた時にジュワジュワッと溶けてて、いま編集してるんですけどかなりいい感じの画になりました!進捗状況もばっちりです!」
と多忙なこの時間帯にしては珍しく上機嫌に美里は親指を立てた。聞きたかった答えが聞けて、伊原も釣られて親指を立てる。
「よ、良かった〜!」
「スケジュールは狂ったし一方的に迷惑をかけてしまったし正直結果論です。でもあさひさんに変更してもらったのは正解だった気がします。伊原さん、見た目の映えも計算してたんですか」
「そこは全然。味の一点張り」
先代よりも美味しい、二代目だからこそ、というようなことを偉そうに宣ってはみたものの、結局はその美味しさを知ってもらうべきだという気持ちだけだった。
「あさひさんには二度手間させてしまったお詫びと言いながらあまりにも美味しそうだったのでクリームパンと合わせて全部買い取らせて頂きました」
「えっ……自分の分は……」
「昨日の話ですよ。もちろん制作部の皆で美味しくいただきましたし、タジさんも呑気に二種類食べられてラッキーとか言ってました」
「ずるい!呼んでくださいよ!」
「伊原さんがカメラ前で原稿読んでる間に完食です」
明日試食するし店も近いんだからずるくないです、という正論に伊原は口を噤んだ。今度お会いすることがあればと言うが土曜の最終リハーサルからしばらく毎朝起こしてもらうことになっている。試食も番組制作に関係なくさせてもらう。
確かにずるいのは自分だと自覚があっても、口がもうパン屋あさひになっていた。
店がまだ営業時間内だとは伊原も思っていなかったし、こむぎがまだいるとも考えなかった。伊原が会社を出たのは20時過ぎで自宅まで戻ったら21時になろうとしていた。午前2時半に起きる日の前日は最低でも21時までには寝たい。他でもない伊原がそうだった。
それでも自宅マンションの前を通り過ぎて、伊原はパン屋あさひへ向かった。駅とは逆方向で夜の時間帯にそちらの方面へ歩いた事はほとんど初めてだった。昨晩も今日の日中も、朝番組関連の会議で寄ることができなかった。店の建物に近づいてくると当然のように店のシャッターが閉まっているのが見えた。
明日仕事の前に来れば会えるだろうが、こむぎは営業中で話すことは難しい。土曜の午前2時半にならばまだ少しは話す時間もある。連絡先を知っているからメッセージも送れる。それならば彼女らしく言葉少なだけれど的確な返事が来ることだろう。本当にどうして今日来てしまったんだろう、と伊原はパン屋あさひの看板を見上げた。
通り過ぎて行く帰宅途中や犬の散歩通りの人たちの目線が気になり出し、帰ろうとしたところ、ふと、店の2階の窓から灯りが漏れている事に気付いた。2階があることさえ深く意識した事はなかったから、そこがパン屋あさひと直接関係のある場所なのかも伊原には分からない。そういえばこむぎの自宅はどこにあるのか。電車が動き出す前から働く家業の自宅が遠方にあるとは考えにくい。もしかして、と思っている間に2階の灯りが瞬いた。もしかしてが「まさか」になった。
窓から顔を覗かせたのは他でもない旭こむぎ、その人だった。
「今日はコーヒー出せます。インスタントのドリップですけど」
そう言って個包装になった市販品のパッケージを2個取り出して来たこむぎを「いやいやいや」と伊原が制止した。
「こんな遅くに押しかけて長居するわけには行きませんから」
窓から顔を出したこむぎと目があって、お互いから「どうも昨日はお世話様でした」という雰囲気を感じ取った。多少声を張れば十分会話ができる距離だったが住宅街の夜にはそぐわない。こむぎは躊躇う様子もなく一階に降りて来て、想像の通り「どうも昨日はお世話様でした」と店のシャッターを開けた。ドアは他にないらしい。取材の御礼を改めて言うだけで帰るつもりが、
「売れ残りでよければ持って行きますか?」
の一言で陥落した。いくつも紙袋に入れてもらったはいいが正直空腹だった。落ち着き払った表情にどこか人を寄せ付けない端正さがあるのに、彼女には初めて会った日からこういう思い切ったところがあった。
「自分で飲もうとお湯を沸かしていたので……ドリップのカフェインは寝起きに影響あるんですかね?」
深煎りでもエスプレッソでもないし影響ないですよね?のニュアンスを勝手に伊原は受け取った。
「俺は明日まで遅い時間の仕事なので大丈夫ですけど……こむぎさん明日も早くから仕込みですよね?ご自宅に戻って寝なくて大丈夫なんですか」
伊原としても自分が朝早く起きられないのは寝つきのせいでも睡眠の質のせいでもないことを長年の経験から知っている。こむぎは伊原の返事から「じゃあ飲んで行っても問題ないですね」と受け止めたようで、事務所の隅に備えられていた2個のマグカップそれぞれにドリップ用のフィルターを設置した。コーヒーは好きだ。特に朝、問題なく起きられたのを確認した後に飲む一杯は共に食べる朝食のパンと同じくらい好きだ。もう夜の時間帯に翌朝を気にせずコーヒーを飲むことはしばらくないかもしれないと思うと、尚更にインスタントだろうと嬉しい。ただ、
「正直自分が明日2時半起きだったらと思うと、たった今この時間に起きている時点で動悸が止まらないです……」
「そうですか。私は昔から寝なくて大丈夫な体質みたいでまだ寝る時間じゃないです。コーヒーもついつい飲みすぎてしまって。寝場所もここですから気になさらないでください」
小さな電子ケトルにはこむぎが言ったように既に湯が沸いていて、とくとくとドリップされていった。手狭な2階の事務所に香りが充満していく。伊原はもう自分がコーヒーを飲んでいくかどうかについて狼狽えたことを忘れてしまった。寝場所もここという言葉は、表の通りからは見えない位置に同じ敷地内か隣接されているという意味で受け止めた。
「昨日は撮影協力ありがとうございました。急遽変更に対応頂いて、制作部も良い取材が出来たと大変感謝していました。よろしくお伝えくださいと。こちらの都合で手間取らせてしまって申し訳ありませんでした」
相談して決めた。あさひにもメリットがある確信があった。テレビ番組の制作には常にトラブルがつきもので、変更した方がこむぎの目的にも繋げられるという自信もあった。
それでも、彼女の目的や性格を承知していたからやったことだ。無意識のうちに彼女の立場を利用して、こちらの良いように押し通したのではないか。そういう側面が全くなかったとは伊原には言えなかった。
伊原が頭を下げると、こむぎも手にしていたコーヒーカップを机に置いた。
「伊原さん含めて、スタッフの方々の仕事を近くで見られて勉強になりました。テレビのお仕事は大変ですね」
「パン屋さんも十分大変ですよ」
「私はパンのことしか知りません。知っていると言っても、せいぜいうちとパリの店くらいで、いま国内の他の店でどういう商品が人気だとか、何にこだわっているのかとか、まだまだ考えが至っていませんでした。最初の予定通りに進んで終われば時間は短くて済んだんでしょうけど……明日一緒に放送されるクリームパンはどんな味がするんだろう、食べてみたいなって思いました。私の知っているクリームパンは父の味なので」
「俺はあさひさんの方が好きです」
「……ありがとうございます。」
こむぎは苗字も旭なので一瞬どきりとしたが、無論クリームパンのことを言っているのだと文脈で理解できた。
「いや取材協力して頂いておいてどちらが好きとか比べたら先方に失礼でした……でもご近所だからとかではなく個人的にはパン屋あさひのもっちりパン生地とバニラの香りのカスタード派ですから」
「分かりました」
「放送は生放送で18時15分から約25分間のコーナーです。あ、営業時間の後で間に合いますか」
営業時間については放送時間に限らず、今後の寝起きのために聞いておきたかった。
「営業終了は17時です。後片付けが終わるのは18時前くらいではあるんですけど、その件でご相談が」
「なんでしょうか。ダビングは言われなくても喜んでさせてもらいます」
「ありがとうございます。ただご覧の通り、住んでいる部屋にテレビがなくて、その番組をスマホで見られる方法はあるんでしょうか」
「ご覧の通り……」
「父もテレビを見る習慣がなくて持ってなかったみたいです」
ラジオは見つけたんですけど、と見せてくれた小型のラジオプレイヤーは、カセットテープが挿入できる旧式の代物だった。子供の頃から朝練習が必要な部活動にも入れずテレビに齧り付く子供だった伊原には到底信じられない。が、重要なのはそこではない。
「こむぎさん、ここ住んでるんですか?この部屋に?!寝場所ってまさか」
「ソファです」
こむぎに指差されたのは業務用の大袋の小麦粉や砂糖に挟まれたソファだった。ソファには確かに毛布が畳んで置いてあるが、2人掛けの大きさでとても大人1人が横になって収まる大きさではなかった。そこに彼女が横たわるのを想像したら、途端にじろじろと凝視してはいけない物のように感じて目を逸らし、言葉を絞り出した。
「ご実家が近くにあって通ってるものだと……」
「確かに近くにあったんですけど」
これを言ったら恨みがましくなるかしら、と頭をよぎったが誤魔化しても仕方がないと思い直した。
「今はなくなって、区画整理のあと伊原さんが住んでいるマンションが建ちました。さすがにあのソファでは窮屈なので近くに部屋を借りたいなと思ってたんですけど、ちょうど空いている部屋もなくて店から離れた場所だと朝はまだ電車が動いていないので。結果的にここに」
「もしかして先代も」
「ずっと住んでいたみたいです。私も寝るだけだと思ってましたけど、世の中のことをもっと知るためにテレビを置いてみようかと思います。ただ明日の放送には用意できないのでご相談しようかと」
「いっそうちに住みませんか?」
伊原は咄嗟に言っていた。
相手がまだ出会って一週間も経っていないことも、これから毎朝起きるのを手伝ってもらう仕事相手という関係であることも、若い女性であることも分かっていた。
ただどうしても、その小さなソファに眠る彼女の父、パン屋あさひの先代店主が眠っている姿を想像してしまって頭から離れない。そこに眠りある朝突然起きてこなくなり、もう二度と会えなくなった人を思い出してしまった。あまり眠らなくていいなんて、そうなのかもしれないが、真夜中の内にこむぎが擦り減っていくような気がした。それは伊原の勝手な想像だったけれども。
「使ってない部屋があるんです。お店の近くに条件の合う部屋が見つかるまで使ってください」
伊原は貸す方なのに、まるで懇願する様な言い方になった。でも、朝起こしに来て欲しいと頼んだ時のような藁にもすがる思いはない。
クリームパンよりもチーズブールの方がきっといい。
例えそれが自分の不安を解消するためだろうと、彼女の睡眠の質を上げるためだろうと、その方が合理的で良い結果を導くと信じたものを提案する。旭こむぎならそれだけでも提案の価値はある。もしかしたら彼女もその価値を理解してくれるのではないかと期待する価値も、きっとあると信じた。
スーツケースを引きながら、こむぎは伊原が心配になってきた。彼はあまりにも人が良すぎる。同居を提案され驚いてはいたが、
「家賃も不要です」
という申し出はさすがに退けた。いくら借金があるとは言え家賃が払えないほど困窮していない。おかげさまで店舗営業による収入もある。しかし伊原は引き下がらなかった。
「住み込みの副業ということでどうですか」
どうですかってなんだろうと歩きながらの道端で思い出し笑いをしそうになる。武器持ち込みアイデアといい発想が突飛だ。
いくら早朝に起こしに行く相手だとしても、恋人でもない男性の家に転がり込むことに躊躇いがないわけがない。今も正直、パン屋を継いだことや朝起こしに行くことを決めた事も含めて自分の決断が正しいかは分からない。ただ彼の提案はひたすら理に適っていた。彼を起こしにいく手間も、商品の試食をしてもらうのも、自分が寝る場所の環境も、ついでにテレビの設置についても、ただあの空き部屋に移動するだけで解決してしまうのだ。伊原の人柄を含めて断る理由が思いつかなかった。
今度は真っ暗ではない、まだ陽の出ている時間帯の玄関と廊下をくぐり家主が仕事で留守の部屋の前についた。合鍵で開けて中に入ると、窓から差している光があって、照明をつけなくても視界が開いていた。先日伊原を探して覗きこんだ空室におのずと目がいく。次来た時には自分の部屋になるとはまさか思いもしなかった。
時計の針は既に18時半を回っていた。伊原がテレビ局から録画をダビングして持ち帰るということだったが、せっかくの生放送だ。スーツケースは玄関に置いたままリビングルームに備え付けられたテレビ前まで移動する。前回来た時は気にしなかったがやたらと大きく感じた。リモコンはどこか。電源は本体にあるのか。うろうろと歩き回りようやくスイッチが入った。目当てのチャンネルは何番だったか考える前に最初に表示されたのがそれだった。家主はむしろ勉強がてら他局ばかりを見る主義だったが、実際今週から朝番組は流石に自局に合わせていた。
最初こむぎの目に飛び込んできたのは、大量のクロワッサンが鉄の板に乗り大きなオーブンから取り出されてくるシーンだった。繊細そうな細かい層が折り重なって美しい。これはパリでもなかなか見つけられない、と思っているとナレーションが聞き覚えのある店名を口にした。
「東京に来てたんだ……」
ラヌベルルヌ。La nouvelle luneと記し、フランス語で新月を意味する。パリの本店でもクロワッサンが代表商品の行列ができる名店で、オーナーはこむぎの勤め先だった店のオーナーと友人同士だった。東京とパリでは手に入る水質から発酵させる室内の湿気まで何もかもが異なる。異なる環境下でどういった商品を提供しているのかが気になった。近々是非とも見に行きたい。伊原が帰ってきたら試食した感想も聞いてみたかった。
伊原といえば、先ほどから映像に載って流暢にパンの製造工程を解説をしている声が伊原の声に似ている。
テレビ局に勤めているとはいえそんな仕事まではしないだろうし、本業のアナウンサーのように達者すぎるから他人だろうと思っていた矢先に、伊原のスーツ姿がテレビに映し出された。ご丁寧に、見間違えようのない自分の作ったパンを手にしている。今日の昼過ぎ、おつかいの若いスタッフが引き取って行ったものだ。
「今週のイチバンチューモク!は先ほどご紹介した人形町にありますパン屋あさひのチーズブールです。どうですか東郷さん。このスタジオを満たす小麦とチーズの香り。食べる前から既にたまらなくないですか?」
「たまらないですよ。さっきスタッフがスタジオ隅のトースターで温めてくれてるのが見えて、もうその時からすごくてお腹ぺこぺこです。もう食べて良いんですか」
「どうぞ。僕もいただきます」
「いただきまーす。これは、外カリカリで中もちもちってやつですね……あ!相当美味しいですよこれは。チーズもごろっとしています。丸いですけどパンの部分はフランスパンです」
「おいしいですよねえ。ブールというのはフランス語でボールという意味で、丸いフランスパンにチーズがトッピングされた商品です。チーズごと表面がオーブンで焼かれています。個人的には最初まっぷたつに指で割って、パン生地の部分だけをまず一口目に食べるのもおすすめです。パンの部分だけを味わえます」
「フランスパンって硬いイメージありましたけど、すごい食べやすいです。それに本格的です」
「パン屋あさひは地元で愛され続けている老舗で、つい最近二代目の娘さんが継がれたパン屋さんです。二代目はつい最近までフランス・パリで修行なさっていたということで本場仕込みのパワーアップした商品を味わえるわけです」
「日本の昔ながらとフランス本場の技術との融合かあ。それは美味しいに決まってますね」
「どうですか、先週朝はごはん派ということで仰ってましたけど、パンも良いなという気持ちになりませんか」
「いま聞くのは反則です。完全に今はパン派です。最後に勝ち逃げじゃないですか?」
「ありがとうございます!ついにやりましたよー!日本中の朝パン派のみなさーん!」
「全く悔しくないですけども。伊原アナの最後勝ち逃げみたいになりました」
「どうもありがとうございます!」
「伊原アナウンサーが今日でyou.News卒業ではありますが、チューモク!モクヨービは引き続き来週からも木曜日にお送りする予定です。来週は、今日夕飯の準備が大変だし面倒臭い、という時に便利なテイクアウト専門店についてご紹介します」
「いいなあ」
「私が伊原さんの分まで代わりに食べておきますので安心してください」
「月曜から金曜日朝5時50分から放送のモーニング!ニッポンでも、沢山おいしい情報をお届けして参ります。どうぞ楽しみにしてください」
「メインキャスター頑張ってね。あと早起きも頑張ってください」
「精一杯がんばります!」
明日金曜日のお出かけウィークエンド!ではサービスエリアの楽しみ方をお届けします、という笑顔の女性司会者の言葉はもうこむぎの頭に入ってこない。生放送は絶え間なく場面が展開していく。背景と音楽が変わり、日本地図と天気予報マークの横で明日の洗濯物の乾く速度について説明している伊原の姿は、紛れもなくこの部屋の家主の伊原のそれに違いない。
メインキャスターってメインの司会のこと?朝番組の司会?
いくらテレビを持っていないこむぎでもアナウンサーの仕事くらい想像がつく。伊原のテレビ局での仕事内容が何であろうとこむぎには関係ないはずだった。実際テレビ出演するアナウンサーでも何の影響もない。改めて紹介しなくてはいけない親もいない。果たして本当にそうだろうか。初めて伊原を起こしに来た朝、名前を確認するために財布から取り出した名刺を改めて探り出す。物臭でまだクレジットカードと一緒に差し込んでいた。
「アナウンス室……伊原善行……」
こむぎは伊原の名刺とテレビ画面の顔を見比べて呆然とした。パン屋の娘に生まれて寝坊したことは生まれてこのかたまだ一度もない。ないが、もしも自分が寝坊して遅刻などでもしたら恐らく、もしかしなくとも、一般的な会社員が遅刻するそれとは桁違いの影響が出るのではないか?伊原のやたらと言葉豊富にパンの感想を述べたり、ニコニコと笑ってハキハキと喋ったり、様々な情報が頭の中で一つの線に繋がっていく。
もしかして自分は思っていたより責任重大な仕事を請け負ってしまったのではないか。気付いたところで手遅れだ。昨夜のうちにやたらと寝具情報に詳しい伊原の助言を参考にしてベッドを注文して今週末には届いてしまう。
「……やっぱりテレビは買います」
画面内の伊原に宣言する。自分の物の知らなさを痛感した。それに朝5時50分なら丁度オーブンで商品を焼成し始める時間だ。あの静かな厨房に置いて開店準備をしながら、彼が無事問題なくそこに立っていることを確認すれば少しはこの気持ちも落ち着くだろう、とこむぎは自分を納得させた。