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メインキャスターを変更する場合、通常一ヶ月以上前から番組内で告知する。それが最近のテレビ、特に情報番組の傾向になりつつあった。構成内容は変わらなくても話題作りとなり視聴率アップにも繋がるから、らしい。
「間に合ったな」
スタジオに入ると照明が当たらない暗がりの隅から萩野が出てきた。手には紙コップがある。背後にはテーブル席が備え付けられている。生放送のスタジオにたまに設けられている、スタッフや見学者が留まるための席だ。間に合ったと言っても集合時間までまだ余裕がある。
「おはようございます」
「おはよ。土曜の早くからご苦労さま」
モーニング!ニッポンの放送は月曜から金曜だ。放送がない土曜の今日は、実際と同じ時刻に新体制のリハーサルが行われる予定だ。前週までの雰囲気を払拭するのが目的で背景や大道具を入れ替える検討も同時に行われている。急遽の対応によって、出演陣より裏方スタッフの方が影響は大きいようだった。
「萩野さんこそお疲れ様です。昨日の放送見ました」
金曜朝の放送は開始の5時50分に起きられず録画で見た。
「うん。さすがに急な3時台入りはキツいしネムい」
そう言っても、テレビ越しで見ても今直接見ても萩野の出で立ちはしゃんとしていて一切の疲れを出さない。裏方の仕事も兼任していて平日毎日放送されるような帯番組こそ担当しないが、ナレーションも含めて細かい出番が多い実力者だ。多忙でない訳もなく、伊原に受け渡すまでの中継もその経験豊富ゆえの力技だった。彼に憧れている若手アナウンサーも多い。その萩野がじっと伊原の顔を見る。
「なにか顔についてます?」
「いや、大丈夫そうだなと」
「……そこまで大丈夫じゃなさそうに見えましたか?」
伊原には、つい一昨日の担当変更が告げられた自分を客観的に思い出すことが難しい。
朝4時には準備が整った状態で放送前ミーティングを始めるから、2時半頃には起きる必要があるかな。そう聞いて平静は装っていたつもりでも全身に汗を掻いていた。すっかり取り乱して見えただろうし、実際そうだった。
「顔面蒼白だったな。正直、これは人選失敗したかと思った」
「ご心配おかけしてすみません。本当に朝起きるのが苦手だったので……でもなんとかやれそうです」
「それは俺も何よりだよ」
なんとか起きる手立てと協力者を確保できましたと説明したところで、もし細かく事情を聞かれても返答に困る。特に来週の特集放送まで旭こむぎは仕事相手という立場だ。
萩野がスタッフから呼ばれ、続けて伊原も10分後スタンバイを告げられた。じゃあまた後でと歩き出す萩野を呼び止めた。
「今回、選んでいただいてありがとうございます」
頭を下げると萩野は笑うこともせず、
「期待してる」
と言って、頷くだけだった。
やっぱりカメラ前より室長姿の方が格好いいよなあと眺めていると、暗がりからまた別の人物が出てきた。様子を見計らったようなタイミングで伊原はびくりと体を揺らして驚いた。
「おはようございまーす……」
伊原にとっては3人しかいない同期入社アナウンサーのひとり、間宮紗央里だ。4年前の番組スタート時からモーニング!ニッポンのサブキャスターを担当している。女性アナウンサー人気ランキング3位。大学時代はミスキャンパスでその美貌を讃えられ、今回解任された早川と共に同局の朝の視聴率を支えてきた。今日は放送もないのにメイクも衣装も本番さながらの隙のない格好だった。
「おはようございます。再来週からよろしく」
「うん、よろしく」
そこから話は続かない。間宮は多弁で明るい女性だが、その目線が今は萩野の背中を追っているのだと伊原には分かる。彼女は帝京テレビ入社前から萩野アナの「ファン」だ。社会人としての身分は弁えるため、間近で彼を見る為にアナウンサーになったということは公言していない。社内で知る者は同期とその他の数名程度だという。
「金曜大変だった?」
無論、急遽メインキャスターの変更が発生した件について聞いている。
「それはどっちの意味で?」
「どっちとは」
「……ずっと萩野さんだったらいいのに」
「それについては申し訳ないと思ってる」
萩野は既婚者で、間宮にも時期によって恋人がいたりいなかったりするようだ。朝から冗談を言っている余裕があって良かった、と伊原は安堵した。同期なのに自分が何故メインに昇格しないのか。そういう遺恨があったらやり難いと思っていた。
伊原より人気も知名度もある間宮がメインMCに据えられるのが道理のところ、番組全体の印象を大きる変える為、そして夕方メインも女性キャスターの為に今回の人材配置になった。
起床時間の件で気もそぞろだった面談中に受けた説明を解釈すればそういうことだった。憧れの先輩の背中を一心に追いかける間宮には申し訳ないが、伊原にとってもこれは絶好のチャンスだった。
リハーサルとミーティングを終え、伊原がアナウンス室に戻ったのは朝8時だった。平日は一日中慌ただしい場所でも週末は比較的落ち着いている。
一度目が覚めさえすれば何の問題もなく快調で、初めて通した番組進行にも手応えがあった。来週末に改めて最終リハーサルがあるが問題なく順調だと言える。本当にありがとうございます!とすっかり日が出切っている窓の外と方角は定かではないがパン屋あさひを拝んだ。
オープンは朝7時とこむぎは言っていた。無事開けられただろうか。お客さんはちゃんと来ているだろうかと先日食べさせてもらったパンの数々を思い出す。仕事と趣味で多くの店を食べ歩いてきたが相当高いレベルの商品だった。今後も試食してほしいという申し出は、伊原にとってあまりにも都合が良すぎる願ってもない話だった。
昨日の同時刻頃は自宅のテレビ前で絶望していたにも関わらず、今は頬がゆるゆるに緩んでいるのが自分でも不思議だった。こむぎに次会うのは放送前々日の火曜の予定だ。
改めて直接の礼をする前に無事終了した報告をしよう、と伊原は通勤リュックにしまっていたスマートフォンを取り出した。腹が減っていた。そういえば起床してから何も食べていない。土曜のこの時間に飲食店は開いているのか。もう仕事は終えたしこのまま帰宅してついでにあさひに寄ろうか。彼女は家族を亡くしたばかりで本当に大丈夫なのか。今朝も気丈にしてはいたけれども。
お互いの協力のために身の上話を交換したが、本来は簡単に踏み入っていい話でもないはずだった。
手の中のスマートフォンが揺れた。メッセージが一件入っている。
「メインMC出世めでたいけど朝大丈夫か?」
大学時代からの友人で今も時間が合えばお互いの会社の中間あたりで酒を飲む仲だ。おかげさまで大丈夫そう、と返信を入力するところで気付いた。なぜ知っている。どこから知った。
神崎雄一は大学の同級生で他局所属の同業者だ。外部への担当変更は週明けの月曜予定のはずだった。
伊原はがたがたと音を立てて席を立ち、廊下に出て社内の開いている会議室を探した。週末の午前中とあってどこも空室だった。飛び込んだのはアナウンス室に一番近い、担当替えを伝えられた小部屋の会議室だった。
通話をかけるとすぐに出た。現在は夜の報道担当で帰宅が遅いのに、元野球部の習慣で朝が早い。伊原にとって憎らしい存在だった。
「よう」
と低音の良い声が聞こえてくる。
「ようじゃないから……なんでおまえが知ってるんだよ」
社内でもこれから正式発表だ。リハーサルをしたから噂は既にじわじわと広がっているだろう。
「早川アナの件ネットニュースで見た。しっかり炎上してて大変そうだな」
「大変だけど。そうじゃなくて、朝の件!」
「かまかけた」
「かま?!」
「本当だったかぁ」
伊原はがくりと肩を落として会議室の席に座り込んだ。まんまとはまった。情報漏洩にあたったらどうしようと脱力するが、
「炎上と一緒にモーニチ次のMCが誰か話題になってたぜ。萩野アナ継続、間宮アナスライド、そして三番手に伊原アナ抜擢」
とスポーツ中継か何かのように読み上げた。甲子園出場経験があり大学野球では優勝投手にもなった神崎には当然のようにスポーツニュースの仕事が舞い込んでくる。
「大躍進だろ。祝ってもらったか」
「そんな雰囲気じゃないに決まってるだろ。スポンサーから視聴者まで対応に追われてる」
出演者の中で一番影響を受けるのは他でもない伊原だ。
「人に顔が知られるのが仕事だからって芸能人扱いされても困るけどな」
「あれは誰でも社会的地位失うけどな」
「確かに。でも上が一人減ってよかったんじゃないか?」
揶揄おうとするでもなく、邪気のない声で何でもなく、神崎は言った。社内のポジションや担当のことではない。他でもなく人気ランキングのことを言っているのだと伊原には分かった。図星を指されたような気がして伊原は息を詰まらせた。
朝のメインキャスターに抜擢されることは嬉しい。朝、遅れず起床できるかの不安は今も完全に解消されたわけではないが、それでも有難い話だ。早川にも個人的な恨みはない。特別な尊敬もしていなかったが失脚を喜ぶような関係性でもなかった。
「……嫌味か」
絞り出すように笑った。本当は嫌味だなんて考えていない。神崎雄一は前回の男性アナウンサー人気ランキング1位だ。それを鼻にかけるような友人ではないし、元々の知名度はもちろんとして、そういう人柄がテレビ越しに伝わって人気に繋がっている。
多少仕事が忙しくなるだけで順位付けされたところで給料が上がるわけじゃない、技術も人望も仕事には関係ない。
自分もそんなふうに人が勝手に付けた順位を気にしないでいたかった。
2年後の30歳になるまでに1位になれなかった場合は今の仕事を辞める。辞めて父の家業を手伝う。
大学時代にアナウンサーになることを反対された。自力で起床できないのが主な原因だった。結果そういう条件を飲み就職活動をして帝京テレビに入社した。神崎はそのことを言っている。経済的な自立をしている以上その約束に従順となるつもりはない。ただ、その場合は父と縁を切ることになるだろう。
「で?」
と神崎が言った。
「で、って?」
「彼女出来たのか」
伊原の頭には旭こむぎが浮かんだ。今朝起こしてもらった時の彼女だ。家業を継ぎたいという彼女の熱意を浴びたせいだ、と言い訳しながら慌ててそれを掻き消す。恩人に対して失礼すぎる。
「ーーーなんでそうなる」
「ダブルで今度お祝いしような」
「できてない……できてない!」
「いや、その間はできた反応だろ」
渾名で呼ぶなという学生時代の頼みを律儀に聞いてくれる友人の「じゃあ誰が眠り姫を起こしてくれるんだ」という鋭い追求に、前回男性アナウンサー人気ランキング8位で次期朝番組MC予想3位の伊原は、思わず通話を切っていた。