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店に電話がかかってきたのは、こむぎが丁度仕事を終えて着替えを済ませた時間だった。その日は午前三時からの仕込みを担当していたから、仕事を終えたと言っても昼下がりの賑やかな時間帯だった。最初は事務所で電話応対をするスタッフが「外国語で何を言っているか分からない」と話しているのが聞こえたが、じきにこむぎが呼ばれた。どうやら日本語のようだしコムギコムギと連呼していると言うのだ。
電話を取ると確かに日本語が聞こえた。どこか疲れ果てた様子の女性の声だった。伯母だった。こむぎちゃん、と呼びかけられても分からず「どちら様ですか」と聞いてしまったくらいだった。
「やっと見つけた」
伯母は父の姉にあたる人だ。あまりにも久しぶりで一度受話器から耳を離した。店の電話は骨董品のような旧式で、どこを見ても発信元の情報は表示しない。誰からも逃げているつもりはなかったが、連絡先を伝えていたのは親しい友人くらいで、父にも勤めることになった店の名前を事務的に一度報告した程度だ。ましてやこむぎが知る限り海外旅行の経験も無いはずの彼女が国際電話を掛けてくることにも驚いていた。
自分宛の電話だった、と最初に受話器を上げたスタッフに手を振って答えた。
「どうかした?」
店にまで掛けてくるなんて只事ではないのだろうと予感した。いま日本は何時だろう。時差は8時間ある。現地はもう夜だ。
「あなたのお父さんが亡くなったの」
そう聞いて、何の話かと聞き返した。どういう意味か説明し直して欲しいと頼んだ。順を追って、店が朝いつも通りに開かないのを常連客が不審に思い、朝起きてこなかったところを見つけてくれた、という事だった。店の中にある狭い事務所で寝泊まりしているのは知っていたから、あそこで見つかったのだというのは直ぐに想像がついた。最後まで聞き「わかった」とだけ言った。その場で帰るとは言わず、葬儀の日程の確認をし、今仕事中だからと小さくて変な嘘を吐き、また連絡すると言って電話を切った。頭の中を整理しなくてはと思った。
死んだ。あの父が。
まさかそんなわけが無い、とは思わなかった。こむぎは母親を中学二年の時に亡くしている。そのときは覚悟するのにも理解するのにも時間をかけた。だからなのか、以来親や親しい人がいつか死ぬことを頭では理解しているつもりで生きてきた。
電話で聞いたままのことを店の奥にいたオーナーに話すと、彼は普段の挨拶よりずっと強くハグをして「いますぐ荷物をまとめなさい」と指示した。飛行機のチケットを手配してくれたのは電話をパスしてくれたスタッフだ。言われるがままその日のうちに出発する飛行機に乗った。約14時間の順調なフライトだった。
成田空港の荷物受け取りを待ちながら、こんなにも日本は近かったのかとぼんやり思った。国を離れる時は、もしかしたら二度と戻らないかもしれないと思っていたし、昨日まではもう父親がこの世にいないことも知らないで生地を捏ねていたのに。
父は遺書を残さなかった。当然本人もまだ当分パンを焼くつもりだったのだろう。
まさか自分が焼かれるとはね、と誰も笑ってはくれなそうな悪い冗談を火葬場で思いついてこむぎは溜息を吐いた。結局涙は出なかった。
参列したのは娘のこむぎと、姉である伯母とその家族と、数人の父の友人というこじんまりとした葬儀だった。伯母とは折り合いが悪い訳でもない。密に連絡をとるほど親しくはなかったけれど父より余程良かったと言える。終わったあと一人大切な話があると別室に呼ばれた。
「借金があったの」
そう伯母から聞かされてこむぎは急死の連絡より驚いた。昔から仕事で忙しく、派手な生活やギャンブルとは縁遠い父だ。借金と言っても順調に返していて、と言付けて見せてもらった借入書類や通帳を見る限り、既に15年ほど前から細々と返済している。もう15年、この先も払う予定だった。
「説明しなくちゃいけないのは、銀行からお金を借りる時、店の土地と建物を抵当にしてたということよ。こむぎちゃんが代わりに背負う必要はないの。返せなくなった時はお店を明け渡す、そういう約束で借りたお金だった」
15年と聞いて自分の年齢に照らし合わせて引き算をした。こむぎが中学に入学した頃だ。
古くなっていた店の建物を直した矢先、昔から病気がちだった母がとうとう入院した。父が一人で店を切り盛りし始めた時期だ。母がどんな手術を受けたのか、どれだけ治療費用が掛かったのか、父に聞いたことは無かった。成長したあとも心臓の病気だったとしか教えてもらえなかった。
「ーーー最初から教えてくれたら良かったのに」
「……話さなかったのはこむぎちゃんの将来を思っていたはずだから。ただでも過酷なお仕事だから、苦労しないように他の道に進んで欲しかったんだと思うのよ」
ごめんね、と何も悪くない伯母は身体を小さくしてこむぎの手を握った。
「責めてるみたいに言ってごめん。ただ……父さんがどういうつもりなのかずっと知りたかったから。代わりに教えてくれてありがとう」
父と伯母について一度も顔つきが似ていると思ったことは無かったが、よく見ると鼻の形が同じだった。姉弟なのだと当たり前のことを思い出した。
「もう小さな子供じゃないんだものね」
関係性が変わらなければいつまでも子供のように扱われる。それは仕方ないと今なら分かる。
気に食わないのは、父があまりにも自分を除け者にしてきたことだ。苦労しないように他の道へ?高校を卒業して家を出るまでその仕事を近くで見てきて、その苦労を理解していないとでも思っていたのか。母も店も娘も、自分のためだけに存在しているとでも思っていたのか。
そんな勝手な理由で夢を否定され続けてきたというのか。いかにも父が言いそうな事だ、とこむぎは思う。不本意だけれど性格は父譲りだという自覚があるから分かる。
そんな勝手な理由でレシピも教えて貰えず、記憶だけを頼りに再現するのに苦労したのか。幼い頃から大好きだったクリームパンはそもそも日本発祥のもので、パリでどれだけ腕を磨いても記憶にしか頼ることは出来なかった。まだ再現するに至っていないレシピはどうしてくれるつもりか。どこかに運良く書き留めて仕舞いこんではいやしないか。そういう思考がずっと止まらない。
「おばさん。お願いがあります」
思い通りになってたまるか。
とっくにもう大人だと言うそばから、まるで反抗期の子供だ。意地を張っていることも自分で理解している。
エレベーターの中の階を示す画面を見ながら伯母の安堵した表情を思い出した。「自分の親の店だから店の処理は全て任せて欲しい」と言ったらあっけなく全ての書類を預かることが出来た。突然の弟の訃報を前に煩雑な事務処理をしたいという人なんてそうはいないだろう。
借金返済も店の営業も続けることにしたとはまだ伝えていない。騙したようになってしまったけれど仕方がない、とこむぎは自分を納得させる。常連客を離さない為にも店は直ぐに再開しなければならない、という気持ちが強かった。
パリで勤めていたオーナーには苦言を呈された。父より年長で貫禄のある、自らの仕事に誇りを持った職人だ。今後日本に留まることは予測していたが、こむぎが日本独自に派生したレシピでパンを作り売るということが彼の美学に反するらしいことを言っていた。住んでいた部屋のことは現地の友人に頼んであるが、落ち着いたら一度整理のために戻る必要はあるだろう。
目的の階についたはいいが、ホテルと違って廊下のどの方向に目的の部屋があるか分かりづらい。各玄関の部屋番号を確認しながら何歩か歩いてみる。深夜とも呼べる時間帯なので足音には気をつけて歩いた。
伊原が、店の前から「あそこです」と住んでいる背の高いマンションを指さした時、こんな偶然があるのかと思った。高校を卒業して家を出たのは父との摩擦が理由だったけれど、駄目押しをしてくれたがこのマンション建設を含む街の再開発だった。仕事で忙しかった両親にとっては寝る為の小さな一軒家で、一人娘のこむぎにとっては孤独を象徴する城だった。こうしてマンションの中を歩いていても懐かしさも切なさもなく、ただ経過した時間を体感する。こむぎにとって実家として思い出すのはいつも人が集まっていたパン屋あさひの店舗の方だった。
玄関はオートロック式、エレベーター前にはホテルラウンジのような待合室が備え付けられていた。テレビの仕事ってそんなに待遇がいいものかと感心する。実際は会社側がセキュリティを担保するために手配した物件だった。
スマートフォンに送られてきたメッセージに書かれている部屋番号と見比べてようやく見つけた。表札は防犯の為に出ていない。預かった合鍵を差し込むと当然解錠に成功した。静かにドアを開けて中に滑り込む。
照明がついている外廊下と違って部屋の中は真っ暗だった。電気はつけていいのか、と迷ったが、そもそも起こすために来たのだから問題ないはずだ。足音もここからは忍ばなくて構わないのだろうと判断して、こむぎは手探りで照明のスイッチを探した。頼みを気軽に引き受けたはいいが、せめて一度くらいは事前に下見くらいすべきだったと反省した。
「仕事で朝2時半に起きる必要があるのに死ぬほど寝起きが悪くて、どうか助けて欲しいんです……」
パン屋は朝何時に起きるのかと聞かれ、こむぎは少し考えて「商品内容、店のオープン時間、従業員数、通勤時間によります」と答えた。逆算だ。朝食や出勤前に買われることが多い立地ならば朝7時にオープンする。30分前の朝6時半には焼き終えて商品棚に並べ始める為、そこから3〜4時間前には調理を始めたい。パリの店では徒歩15分の場所に住んでいて2時半には起きていた。
それじゃあ明日からは……?と続いた質問にならすぐ答えられる。大体2時過ぎに起床予定だった。
「目覚まし時計や電話の着信音ではどうしても起きられなくて」
「はぁ」
「すみません、ふざけたこと言って信じて頂けないかもしれませんけど……本当なんです……」
お仕事前に起こしてもらえませんか、と言うのでシティホテルのコールサービスのようなことかと話を聞けば、対面で起こしに来て欲しいということらしい。あまりにも聞いたことがなく念の為に再度確認する。
「家業のせいで朝起きられない感覚がいまいち理解できなくて、疑っているわけでは……睡眠中は音に反応できないということですか? 体を揺すられたら起きるとか」
「その理解で近いです。音は、起きた後に言われてみると聞こえてた気がする程度で……でも、なんと言えばいいか、ある一定の条件下であれば早朝でも起きられるんです」
女の人に起こしてもらった条件下のみ目を覚ます、と伊原は言い出せなかった。その日初めて会った人だ。言うのを想像するだけで不気味すぎる。
「私ならその条件を満たせる。そういうことですか」
こむぎは整然と聞き返した。伊原はそこに希望を見出して大きく頷いた。
「はい!お店の準備前に寄って頂けるなら大変有難いなと……もちろんお手間をかける分の御礼はお支払いします。初めて会った男の部屋へ女性が深夜に一人で訪ねてきてくださいなんて自分でお願いしていて不審で危ない話だと思います、でも本当に起きられなくて……再来週から毎日、明日早速打ち合わせがあって、もしこむぎさんがご不安なら武器とか防犯ブザーとか持ってきて頂いて構いません。というか夜道を歩いてくる訳ですからそうして欲しいくらいで!むしろ送迎タクシー出します!出させてください!」
「そんなの必要ないです」
明瞭な否定の言葉に肩を落とした。
「です……よね……」
「あのマンションなら歩いてすぐなので」
こんな常軌を逸した頼みを聞き入れてくれる人はいないだろうと、自ら頼んでおきながら思っていた伊原は、何でもないように頷くこむぎを見直した。
「午前2時半ならちょうど仕事に向かう時間ですし場所も店に近いから構いません。その代わりと言っては何ですが給与ではなく……こちらとしては定期的に試食してもらえると有難いです。特にここ数年で追加された情報が欲しいんです」
伊原が試食した12個の商品に関するフィードバック内容には目を見張るものがあった。あまりにも詳細に、そして饒舌な感想が出てくるので、5個目のメロンパンからメモに書き留めるためこむぎが一度制止したくらいだった。
こむぎとしては、先代が作った商品と比べて違和感があるかないか程度の判断を期待していた。それだけでも記憶との擦り合わせができる。それなのに多少気になっていた些細な焼き目の濃さまで的確に指摘してきた。過去の写真も多く撮り溜めてある様子だ。
テレビ局のスタッフはそんな技能も持ち合わせているのかと感心した。伊原の職業がアナウンサーでその大食漢ぶりと的確な食レポを武器に成り上がってきたことを、こむぎはまだ気付いていなかった。
物心が着く前から毎日食べていた実家のパンについて、自分以上に詳しく語れる人間はこの世にいないと勝手に思ってきた。それなのにオープン前日になってあっさりと目の前に現れた。しかも今後も試作に付き合ってもらう口実まで出来た。出来ることはやると決めた。例えそれが多少常識外れであっても構わない。
それにしても「武器」と言い出した時には少し笑いそうになってしまった。今思い出してもおかしい。こむぎに言わせれば、相手が女とはいえ初対面の人間に自宅の合鍵を渡す方が不用心だ。
発見した部屋の照明をつけると、そこはリビングルームだった。ダイニングテーブルとキッチンが備え付けられている。キッチンは一軒家のように大きく備え付けられているが、物がほとんど置かれておらず、あまり使われている形跡がない。
腕時計で時間を確認するとあと5分で指定された午前2時半というところだった。ベッドルームはどこか。
まず一番手近にあったドアを開けた。トイレだった。するとその横は予想通り脱衣所とその奥がバスルームだ。早朝から他人の部屋を探検することになるとは。次こそは、とリビング奥の部屋を開ける。しかしそこは無人だった。がらんとした空室で隅に衣類ケースのような箱が見えるが、あまりジロジロと見ていいものでもないし、いずれにしても目的の部屋ではないと分かって速やかにドアを閉じた。
つまり最後のドアの向こうだ。こむぎは今更自分が少し緊張していることに気付いた。もしかして人が部屋に入ってきた気配で起きているかもしれない。
ゆっくりドアを開けて中を覗くとそこに伊原はいた。リビングから差し込む明かりと部屋の隅に立っている間接照明がぼんやり部屋全体に視界を作っていた。寝ているところ忍びないが、起こすためにやってきたのでドアの近くにあったスイッチを押した。人によっては照明の明るさで目を覚ますだろう。が、ベッドの中の伊原は微動だにしていない。
おじゃまします、と枕元に歩み寄って観察するとまさにスヤスヤと目を閉じて眠っていた。寝返りを打った形跡はなく胸元で指をピタリと組んでいる。なんともお行儀の良い眠り方だ。時計を確認するとそろそろ約束の時間だ。
「……伊原さん。2時半です」
まずは小さめの声で。起きる気配はない。
「伊原さーん。起きる時間ですよ」
次は普通の声の大きさ。起きる気配はない。
なるほど、とこむぎは納得した。これが本人が言っていた起きられないということか、と瞼のひとつも揺らさない伊原の顔を観察する。もっと大きい声は出るが深夜だ。隣の部屋に聞こえるような声は出せない。
「もし起きなかったら強く引っ叩いて頂いて一向に構いません。あ……でも……注文が多くてすみません、もしも可能であれば、服から出てる部分は跡が残ると業務上の支障がありまして、わがままを言うようで恐縮ですが肩とか腹とかだと有難いです……」
必要ないと思っていた冗談のような台詞を思い出す。業務上の支障とは。自分で起きられる時間に起きることを選べない会社勤めって大変だと同情しつつ、こむぎは肩を揺すってみる。
「伊原さん。いばらさーん」
続けて肩を強めに叩く。心臓マッサージの前に意識確認をする医者のイメージ。反応無し。少し心配になって口元に手のひらを充てれば問題なく呼吸をしていて安心する。ただし起きる気配はない。
布団をめくって腕を引っ張ってみるか。言われた通り腹の辺りを殴ってみるか。毎日の仕事を通して力には自信があったが、さすがにそれは最終手段だろう。
「……条件揃ってるんじゃなかったんですか」
未だ健やかな表情で眠っている姿が段々と恨めしくなってきたのと同時に焦ってくる。本当に起きられないんです。というのは本当だった。少し疑っていたが言葉通りだった。
「今まではどうしてたんですか? 朝7時より早く起きなければいけない行事の時とか」
参考というより興味と世間話の一環のつもりだった。起こしに行く役を引き受けたあと、駅に向かう途中で聞いた。
「……実家にいた頃は、母に起こしてもらったり」
「お母さんなら起きれたんですね」
「お恥ずかしながら……」
母親に起こしてもらっていた事実は、成人男性にとっては恥ずかしい思い出となるらしい。お母さん。優しかった母を思い出す。いつも私よりも早く起きて、仕事へ行く前に朝食を用意してくれていたお母さん。声はもう思い出せないけれど。優しい声だったはずだ。
「伊原くーん……なわけないな」
それでは友達だ。どうしたものかと考えた結果持っていたバッグを下ろして財布を探し出す。カードケースは持ち合わせておらず財布のカード入れに差し込んであった伊原の名刺だ。伊原善行。いばらよしゆき。
「……よしゆきくん」
これで駄目なら腕を引っ張りあげて無理やり身体を引き起こそう。そんな覚悟を決める前に、伊原は目を開けた。眼球が左右に揺れてまぶたが開き枕元に人が立っているのを見つけると「えっ」と声を上げた。旅行先で目が覚めると驚くあれと似たやつだとこむぎは察した。伊原は飛び起きるように身を起こした。
「おはようございます。やっと起きた」
とこむぎは言った。
「おっ、おはようございます」
「……起こしに来るように頼んだの忘れてました?」
寝ぼけて不法侵入と疑われていたら困る。聞くと頭を激しく横に振った。起き抜けで体に悪そうな動きだ。
「それはさすがにないです!」
「よかった」
「ありがとうございます!うわ!?本当に2時半だ!!」
壁にあった時計を見て当たり前のことに震えている。
「時間合ってました?」
「合ってます!あ〜〜〜!本当に起きれた〜〜〜……!」
伊原はガッツポーズをした後の両手で顔を覆い、そのままの勢いでベッドの上で丸まった。さっきまで死んでいるように眠っていたのに。あまりの落差に呆気に取られていると、がばりと起き上がってこむぎはまたびくりと驚く。
「ほんっとうに!ありがとうございました!」
「……まだ一日目ですよ」
「それでも俺にとっては奇跡みたいに有難いことなので」
朝起きるだけでそんな大袈裟な。
起こすことを請け負った昨日、伊原が合鍵を取りに戻ったのを待ちながらそんなことを思っていた。世の中には様々な時間帯に働いている人が大勢いる。コンビニの店員も、配送会社の運転手も、夜間警備の職員も、警察官や医療関係者もそうだろう。パン屋もその他大勢のひとつに含まれるだけだ。特別なことなんて何一つない。それで感謝されてこちらの仕事の手伝いまでして貰えるとは、なんという役得だと思っていた。
伊原善行という人は感情豊かな人だ。よく笑ってよく泣いている。店の厨房でひとり、亡き父のために泣いてくれていた背中を見た時に「この人は信用出来る人だろう」と思った。何も根拠はない。ただの笑い上戸で涙脆いだけかもしれないけれど。
「私、行きますね」
こむぎは床に置いてあったバッグを取り上げて肩にかけ直した。店の準備をするのにはまだ余裕があるが伊原は支度をする必要があるだろうし、そこから先は邪魔になるだけだ。
「今日は突然お呼び立てしておいてなんのお構いもできず申し訳ありません」
「いえ。起こすだけですから」
「とても助かりました。再来週からよろしくお願いします。取材の件も、のちほど正式にご連絡します」
「こちらこそよろしくお願いします」
パジャマ姿の仕事相手と真面目に頭を下げ合い、では、と退出するところで、
「あの」
と、申し訳なさそうに呼び止められた。
「さっき『やっと起きた』って言ってましたけど、起きるのに時間かかりました? 聞いて何かこちらで改善できるところがあるかどうかは、怪しくて申し訳ないですけど……」
「それは、」
何度か声をかけても揺り動かしても起きなかったから。でもお母さんに起こしてもらっていたということを思い出して下の名前で呼んだらあっさり起きましたよ。
寝ている間のことは記憶にないと言っていた。このひとが今後朝起きられるかどうかの上で重要な情報なのではないかしら、と口を開きかけて、止める。
お恥ずかしながら……と伊原が顔を伏せていたのを思い出した。
それにこのチャンスを逃すわけにはいかなかった。彼に協力して欲しいレシピはまだたくさんある。その為には少しくらい卑怯な手を使うことを躊躇してはならない。まだこのことを教えなくても構わないのではないか。
「こむぎさん?」
振り向くと不安そうに立っている寝癖頭の成人男性がひとり。本当にこれが彼を起こす正しい方法なのかは分からない。良心を押し留めてそう納得させる。
「初日ということで少し手間取りましたけど、おおむね順調でした」
「そうですか」
伊原が微笑み胸を撫で下ろしている姿を見て、こむぎも真似るように胸元を抑えた。決して嘘ではない。それでも罪悪感が少々息を詰まらせる。いつか説明するので今は黙っているのを許してください。振り払うように伊原の部屋を出た。
ひと仕事終えた気持ちになったが、こむぎの本業はこれからだった。今日はあさひの営業再開初日だ。