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何度も通った店でも取材をした店でも、レジのその奥の厨房内には初めて入った。帽子や靴の履き替えを気にしたが、今はそのままどうぞという言葉に甘えた。年季が入っているけれど手入れが行き届いているのが分かる冷蔵庫から、ごうごうと音が鳴っていた。その他にも、業務用の焼成機や焼く前後のパンを並べて置くのだろう背の高い棚が並んでいた。何よりも目を引いたのは、生地を捏ねたり形を作るのだろう厨房中央の作業台と、その上に並べられた商品の数々だった。どれも伊原には見覚えがあった。香りの元はこれだと確信する。どれもパン屋あさひの商品棚で売られていた物で、どれも買って食べた記憶がある。
「この椅子、使ってください」
娘は厨房奥から丸い座面のスツールを片手ずつ掴んで来た。喪服姿の女性がパン屋厨房で椅子を両手に持っている、という光景に気を取られ一瞬反応が遅れた。
「……あっ、ありがとうございます」
「お客様に出すような椅子じゃなくてごめんなさい。あと今お茶もお出しできなくて、それもすみません」
「全然!そこは全くお気遣いなく。突然押しかけてしまったので、こちらこそ申し訳ないです」
厨房の床には排水溝が引かれていて、そこに椅子の脚が挟まり落ちないように気をつけて伊原達は腰掛けた。
「まだ無いものばかりで……名刺もないんですけど、旭の一人娘で旭こむぎといいます。身分証明でお見せできるのはパスポートとかしかなくって」
店のシャッターを開けて出てきた時点で家族を騙る不審者だとは疑ってもいなかったので、本人確認をするつもりもなかった。言われてみれば偽ることが出来ない状況でもない。逆に何故パスポートを持ち歩いているのか。スーツケースから取り出されてきた赤い表紙のパスポートを開き、顔写真のあるページを見ると確かに「旭こむぎ」とある。目に入った生年月日は伊原より二歳下だった。
「いかにもパン屋の娘の名前らしいって思いました?」
パスポートの証明写真とほとんど変わらない印象の涼やかな美人が薄らと笑った。
「おかげで学生時代の呼び名は“こむぎこ”です」
身内の急な不幸で悲しげというのではなくどこか皮肉っぽく笑うので、「いや小麦粉って逆に可愛くないですか?」という伊原の軽口はただ頭を通過していくだけだった。「眠り姫」だって言葉自体は十分可愛いはずだ。そこに込められた揶揄の意識が、言われる側の本人に居づらくさせることを良く知っていた。
「こむぎなんていう名前つけておいて、昔から父はこの店を継がせないと頑なに言っていました。技もレシピも何も教えないし自分の目が黒いうちは厨房の機械には一切触らせないといつも言って。それで私は家を出て勝手にパン職人に」
こむぎは作業台を見ていた。目線を追うと、そこには父親が作ったものと同じ姿のパンが並んでいる。この人が作ったのか。
「本当に勝手なんだから」
聞き取れるか聞き取れないかの小さな声でこむぎは呟いた。一体どういう感情なのだろうかと気になった伊原は引き込まれるように表情を盗み見た。
「取材の件ですが」
こむぎがこちらを見た。
「あっ、はい」
「さっきうちのパンを何度か食べたことがあるって仰ってましたよね」
そう言われて伊原は姿勢を正した。
「ここに並んでいる商品は一通り食べたことがあると思います」
「食べてみてもらって、もし父が作っていたものと同じで、それでもしもテレビ局さんの方で問題がないということであれば……是非予定通り取材して貰えませんか。取材してもらえる価値がある評判の店に今後なるかは分からないし、そちらからしたら父みたいなベテランが作る商品に価値があるかもしれませんけどーーー今の私には必要なんです」
こむぎの言っていることは凡そ正しかった。伊原達が番組で紹介しようとしていたのは、あくまでも長年この店を切り盛りしてきたベテランの店主だった。例え同じ場所に建って同じ看板の店で血が繋がっていようと、20代という若さでこれから店を引き継ぐというのでは趣旨が変わってしまうのが事実だった。
それでも、と伊原は思う。目の前にいる彼女は父親と顔こそ似ても似つかないが、頑固で意志の強いところはきっと似ているのだろうと思わせる。そして何よりパンが美味しそうだった。
「全部残さずに食べていいんですか」
「えっ……全部ですか?」
作業台に並べたパンは12個ある。食パンとバケットを含むあさひの主力商品だった。以前取材したアンパンも中にはあった。
「これを全部食べきれるっていう意味ですか?」
「俺、食べるの好きなんですよ。もちろん旭さんが問題なければです」
「それはもちろん、この子たちは試作用の残りですし苦手なものがなければ……そういうことなら少し待ってください。軽く焼き直して温めます」
「特に温めたほうが美味しいやつだけお願いします」
「分かりました」
様々なパンを目の前にして伊原は空腹だったことを思い出した。日頃は温め直した方が美味しいのは間違いないだろうと知りながら、食欲が勝ってそのまま食べてしまうことが多い。頷いたこむぎは長袖を捲ると、シンクの近くに積んであったトレーとトングを持ってきて、バケットや惣菜パンのいくつかを乗せて厨房のさらに奥へ持って行ってしまった。残ったのは甘い菓子パンが中心だ。アンパン、クリームパン、名前は思い出せないがパイ生地にアーモンドチップスがまぶされた物もある。ごくりと喉がなった。
早朝起きなければならないという大問題を一時的に忘れた伊原は、まずはクリームパンを手に取って、すぐにかぶりつかずに指で二つに割った。番組で商品撮影させてもらおうと筆頭に話が出ていた商品だった。カスタードクリームにはバニラビーンズが混ぜられていてコンビニで手軽に買えるようなクリームパンとは一味違うのが売りだった。見た目はどの角度から見ても同じだ。頬張れば濃厚でまったりとしたクリームと、昔ながらの厚めの甘いパン生地が口の中に広がった。菓子ではなくあくまでもパンなのだと主張している商品だ。
ふたつめに手に取ったのはアンパンだ。過去番組でも取材したあさひの看板商品。黒いケシノミがたっぷりとまぶされていて、鼻を近づけて嗅ぐと香ばしい匂いで心が満たされる。これは牛乳が欲しいなあ、と既に味を思い出しながらかぶりつく。甘すぎない砂糖控えめのこし餡。取材時、しっとりとしたパン生地には黒糖が隠し味なのだと教えてもらった。その時に近寄り難い雰囲気に似合わず本当は優しい人なんだろうと思ったのだ。
必要最低限な会話はした。でも身の上の話に触れるようなことは一度もないまま機会は永遠に失われてしまった。業務用冷蔵庫からジリジリと音が聞こえる。この静かなキッチンで一人、毎日欠かさず仕事をしていたのかと想像する。もっと話しかければよかった。実は一人娘がいてパン屋になるのを反対してるのに勝手にパンの勉強していて。あの気難しそうな表情で、でも気恥しそうに、そんなことを教えてくれることもあったのでは無いかと、ありもしなかった妄想をする。少し涙が零れそうになって慌ててシャツの袖の先で拭う。他でもない一人娘があんなにも凛と気丈にしているのに、他人でしかない自分がそんなことでどうするのかと飲み込んだ。
みっつめはチョココロネだ。巻貝型にねじられたパンの先まで硬めにホイップされたチョコクリームが入っている。パンの表面が少しカリッとしていて、指でちぎっても中身が溶け出ることは無い。実際そうしてみても期待通りの触感で、口に入れた時に伝わる味も、何も記憶と変わらなかった。
「もう三個も食べ終わってる」
背後から現れたこむぎの声に、伊原はごくりと飲み込んだ。
「美味しく頂いてます」
「これどうぞ。裏の自販機のやつですけど」
トレーに乗って帰ってきたパンの横にはボトル式の缶コーヒーが二つ乗っていた。一つ受け取ると温かい。まだ蓋も開ける前から完璧な組み合わせだと喉が先に喜んだ。
「すみません、お金払います」
「いいえ。こちらが払いたいくらいなので」
「本当にどれも美味しいです。お店、これからも絶対通わせてもらいます」
「ありがとうございます。じゃあ……それで今後とも買い支えて頂くということで」
こむぎが手を口にやって目を細める。今度こそ笑った。それを見た伊原はリュックサックから取り出そうとしていた財布を放した。気が落ち着かず買ってもらって来たコーヒーに口をつける。
こむぎも缶の蓋を開けて飲み始めた。パンに手を伸ばす気配はない。独り占めしているようで恐縮だが、試作品と言っていたし置いて帰るところに来たようだから、きっともう食べたあとなのだろうと納得して、温めてもらってきたパンに早速手を伸ばした。
チーズが入っている丸いフランスパン、ブールだ。真ん中から二つに割ると湯気と小麦の香りが立つ。これは確かに焼いた方が美味しいに違いない。中身のフカフカな生地の方を上にしてかぶりつくと、ダイスチーズの風味が口の中に広がる。初めて食べた筈ではないのに、自分で噛んだ後を見直すほど美味い。
「どの商品を取り上げるんですか。ここにありましたか」
「あっ、はい」
口に入っていた分をごくりと飲み込んだ。
「予定ではクリームパンでした。でも今回は商品縛りではなくて、そのお店を象徴するような人気商品を取り上げることになっています。旭さんーーーお父さんとお話しして、それなら創業当時からずっと販売してるクリームパンがいいんじゃないかということでした。変更は出来ます」
「他のお店も一緒に出るんですか」
「都心のデパ地下に入っているお店の食パン、新しくオープンしたお店オリジナルの珍しい惣菜パン、あと目玉はフランスのシェフが期間限定で開けているお店のバケットです」
それを聞いてこむぎは何か思う所があるようだったが、すぐに「分かりました」と言った。
「どうしますか。クリームパン以外の他の商品にしますか」
「そういう事であればクリームパンのままがいいと思います。父の味と同じだったなら、ですけど。どうでしょうか」
「かなり驚いてます。全く同じ商品としか思えなくて、本当にずっと一緒にここでお父さんと働いていなかったのか疑うくらいでした」
「よかった……正直クリームの中身は本業ではないから心配で」
アンパンの餡子はほぼ仕入れたまま手を加えれば使えるので、と言うがそういう問題だろうか。美味しいパンは世間に山程ある。しかし直接レシピを教えて貰えなかったと言っていたのにここまで忠実に作れるものなのか。
「このチーズブールなんて、正直お父さんのより軽くて香ばしくて美味しい気がします」
「それはーーー」
こむぎはまた何か言いかけたようだったがまた一度口を閉じた。何か特別な理由があるのだろうかと思ったが、残りの試作品を眺めて、
「温め直したから、かもしれませんね」
と言った。
「ふたつ質問していいですか。プライベートな事に踏み入った質問になっていたり、答えたくなかったら、答えて頂かなくて大丈夫です。いずれにしてもぜひ予定通り取材はさせてください」
本当は制作会議に一度かけ直すべきだろうが、店のクオリティが変わっていない以上予定通り進めるのが道義だろうしそのくらいの事を決定する権限が自分にはあるだろう、と伊原は思う。
こむぎは伊原が宣言した通り12個全部の試作品をぺろりと食べ終えてしまったことに驚いて、はあ、と半端な返事をした。
「さっきこむぎさんが言っていた、今の自分に必要、というのはどういう意味ですか」
問われて、こむぎは真っ直ぐに伊原の目を見た。
「父には借金がありました。返せないほど大金ではないし、この店と土地を引き渡せば済む程度の額です。借金を相続しない方法もあります。でも、私が自分の力で返済したい。そう思っていたところに今日テレビ取材の話を聞いて大きな宣伝効果がきっとあるだろうと、お願いしました」
借金。その言葉の持つ意味の深刻さに、伊原は喉の奥がつっかえそうになる。この若さで、親御さんを亡くした直後でそんな多難に自ら飛び込む必要があるのかと考えてしまいそうになる。毎月振り込まれる給料で暮らしながら、人事異動と起床時刻の変化で精神不安定になりそうな自分が恥ずかしい。
「もうひとつはーーー先代のお父さんが最近亡くなられて、一人娘のこむぎさんが二代目だということを番組で紹介しても構いませんか」
こういう時、マスコミの仕事は正義ではないと痛感する。本当はそんなことを頼みたくない。でも、会社に戻れば必ずこの話になる。視聴者はそういった話に食いつくだろうとスタッフは言うだろう。自分だって今日ここに来て直接彼女と話さなければそういうに違いなかった。
こむぎは何でもないように首を縦に振った。
「事実だし、お客さんに知ってもらう為にもそれがいいです。そんなことで宣伝効果が高まりそうなら尚更」
「……分かりました」
覚悟は決まっているのだと分かった。聞くのも失礼だったような気がした。
「そろそろ仕事なので行きますね。取材の件の連絡先は……」
「明日からは、朝から夕方までなら店にかけていただければその電話に繋がります」
そう言ってレジ横の電話機を指さす。
「あとは……ちょっと待ってください。契約したばかりでまだ覚えてなくて」
こむぎはスーツケースから取り出してきたスマートフォンを操作してメモを取ろうとする。それならばと制止して、伊原はポケットの中のスマートフォンを出した。会社から貸与されている方の端末だ。直接番号を交換した方が間違えがない。
「スマホ、変えたばかりなんですか?」
「最近まで海外にいて、帰国してから慌てて作ったものでよく分からなくて」
「海外!もしかしてパンの本場フランスですか」
「そうです」
「いいですねぇ」
「いいですか?」
「パンがとても美味しそうなので」
「……美味しいですよ、とても」
また笑った。本当は笑うのも珍しくない人なのかもしれない。考えてみれば当然で、親を亡くした直後で明日からその店を継ごうというタイミングで気楽であるはずもなかった。
「今日は本当にありがとうございました。試作として凄く参考になりました。なにかお礼させて下さい。割引券とかーーーはまだ用意ないので、伊原さんがいらっしゃった時はサービスします」
「しっかり売上貢献させてもらうので大丈夫ですよ」
「じゃあアドバイザーとしての御礼を」
借金をこれから返済しようとしている年下の女性にパンを食べさせてもらった上、謝礼を貰うなんて出来るはずもない。
「まさか!そんな大層なもの受け取れるわけ……、が、」
店への出口へ向かう途中で伊原は立ち止まった。謝礼を受け取るよりもとんでもない事を思いついてしまい、その妄想を掻き消した。さすがに非常識だ。彼女は今日出会ったばかりの仕事相手だ。でも、
「どうかしました?」
「いや……」
もしかしたらこれはチャンスなのではないか。どんな手段を使ってでも新たな仕事を成功させたい。そんな熱意が彼女になら伝わるのではないか。上手くいく可能性があるなら賭けてみるべきなのでは無いか。
どんな恥をかこうと自分も覚悟を決めるべきだ。伊原は店の扉に手をかける前に、喪服姿のこむぎと向き合い聞いた。
「パン屋さんって、朝は何時に起きるものでしょうか」