11
暗闇の中で目が覚める経験は、誰の人生でも一度や二度ではなくあるだろう。陽が昇る前に起床することもあれば、まだ眠っているつもりだったのに目が覚めることもある。
伊原にはそれが無かった。自発的に起床できる時間は既に陽が昇っていて、カーテンや雨戸を閉めていても少しは光が部屋に漏れ入る。それより前に起こしてもらう場合は、起こしに来る人が先に照明を点けていた。
だから、暗闇の中で目が覚めた時点で伊原は動揺した。
珍しくも眠る前に様々な雑念が入り組み唸りながら寝たせいで詳細は記憶にない。季節は冬だというのに汗もだくだくと掻いている。伊原はまだ鳴り止まない心臓を抑えながら、恐る恐る起き上がって隣を見た。床に敷いたマットレスから一段上にあるベッドの上で、旭こむぎは寝ていた。
今何時なのだろうという当然の疑問も放っておいたまま、伊原は体を横向きにしてすうすうと静かに寝息を立てているこむぎを伊原は呆然として見ていた。
時を遡ることちょうど半日前、こむぎは帰宅してからも伊原の体調への影響を心配していた。そこまでの心配をされる理由はこむぎの口ぶりから仕事への影響を気にしてくれているのだと察しがついた。
体調にはもちろん注意を払うが、いざ出演できない状態であることが分かれば代役が立てられることになる。年に一度か二度は局内でそういう事が起きるし、出演者に限らずカメラの裏側にいるスタッフも同じだけ役割があって重要性は変わらない。
説明をしたものの、こむぎはまだ不安げだった。
そこで伊原はこれまで一度も風邪を引いたことがないことを告白した。起床が出来ない以外のことでは、病院にかかったことも薬を飲んだこともない。「馬鹿は風邪を引かない」という揶揄は伊原にとって「眠り姫」と並ぶ二大コンプレックスだ。健康であること自体は有難いと思っていても、積極的に人に話すことはなかった。
こむぎは伊原の説明に対して特に笑うことも疑うこともせず、信頼通り真剣な顔で頷いた。
「健康には睡眠が大切ということですね」
それなら今後はもっと早く寝て睡眠時間を伸ばしましょう!と提案しそうになるのを堪えて、
「……そうかもしれませんね」
伊原はそう言うだけに留めた。自分はあくまでも起こしてもらっているだけの人間、自分はあくまでもパン屋あさひの情報を伝えるだけの人間、と言い聞かせる。
一刻も早く横になった方がいいのでは、という伊原の心配をよそにこむぎはリビングのテーブルに居直った。その背筋の伸びる様子はとても病人には見えない。
「明日、伊原さんは通常通りお仕事ですね」
これから寝室に行くつもりだからこそ、そう聞いているのが伊原には分かった。今日はまだ昼時だけれど、毎晩眠る前に念のために確認してくれる。
こむぎの体調のことですっかり頭から抜け落ちていた。そうだった。明日、自分は午前2時半に起床する必要がある。
「こむぎさんは……」
「明日も休業の旨、店には貼り紙してきました。再度こういうことがないようにこの際対策を練ろうかと」
さすがのこむぎさんだ。ほっと安心するが、安心している場合ではない。
「明日の朝のことは自分でなんとかしますので、こむぎさんは安心して休んでください」
「何とかするというのは?」
特別鋭くもない至極当然な問いかけに伊原は言葉に詰まった。
週に5日、仕事でこなしているはずの臨機応変な受け答えも出て来ない。
「こ、これから考えます」
彼女を前にしてその返答がどれだけ苦しいのは分かっている。どうしても自分で起きられないからこそ頼んで来てもらっている本人だ。
選択肢の一つは会社仮眠室の利用だ。24時間誰かしらいる。声をかけてもらうように頼めば明日一日なら何とかなるだろう。ただ、一人こむぎを家に置いて行くことが憚られた。しっかりした様子を見て安心はしたが、心配は拭えなかった。それに起こしてもらえないからといって別の場所へ行くことを選択する自分も受け入れ難く、許せなかった。
もう一つの方法は徹夜だ。こちらのほうが現実的だ。寝なければ起きる必要もない。明日を乗り越えさえすれば週末なのは幸運だった。一日だけなら十分何とかなるだろう。
「私が通常通り起こします」
こむぎは何でもないように言った。実際なんでもなさそうに、ではそういうことで、と話を切り上げようとする。
「そういう訳にはいかないです!」
「どうしてですか?明日の朝には全快してるかもしれません。全快していなくても、多分いつも通り2時半に起きると思います。これから早く寝たら尚更です」
「それでも今体調が悪いのは事実なんですから、こむぎさんの力を借りるわけにはいきません」
「声をかけるだけです」
「この季節は朝のリビングが寒いし」
「徒歩10秒もない距離です」
「どちらにしても仕事もないのに起きてもらう手間が」
「私は大丈夫です」
効率的な彼女の実行する様はなんとも潔く凛々しい。そして面倒見の良い人なので、寝ないので大丈夫だなんて言ったなら、余計に起こしに来ると言って聞いてはくれないだろう。理屈に合わないことを言っている自覚も伊原にはあった。
矛盾している。個人的な部分まで踏み入ってはいけないと距離を置いたはずが、結局は本人が大丈夫と断言している範囲まで余計な心配をしている。彼女を好きになる前なら、きっとこむぎの「大丈夫」を信用して頼ることが出来ていたはずだ。
黙った伊原をしばらく見つめていたこむぎが、いつも通り「分かりました」と頷いた。そして有無を言わさない確固たる瞳で言った。
「誰がどう見ても手間にならなければ構わないんですね。」
どうしてこんなことになってしまった?
今からでも考えを変えては貰えないだろうかと部屋中を歩き回ったり、それでも空腹を訴える胃を満たしたりしているうちに就寝時間になってしまった。
「今日は伊原さんの隣で寝ます」
こむぎの突拍子のないその提案に伊原は言わずもがな反対した。反対したが「2時半に目が覚めたら声をかけるだけ」という完璧な手間の無さに、伊原は反論し切ることが出来なかった。それに「伊原のベッド脇にこむぎがマットレスを敷いて寝る」という案から「こむぎのベッド脇に伊原がマットレスを敷いて寝る」という内容に変更する交渉で時間を使ってしまった。そして、
「そろそろ休もうと思います」
というこむぎの宣言が決め手になった。そう言われてしまったら「まだ話は終わっていない」などと食い下がることは到底出来ず、彼女の部屋の扉の前に伊原はしばらく立ち尽くすことになった。
もう眠っているだろうか。ノックをすべきかどうか。
迷っていたけれど、リビングの照明を消すと扉の隙間から光が漏れているのが見えた。諦めて自室から持ってきた枕を抱え静かにドアを叩くと「どうぞ」と言う声が聞こえた。どんな仕事の前よりも緊張した。
「お邪魔します……」
こむぎはベッドの上で体を起こしていた。本を読んでいたらしい。伊原が入ってくると、本を閉じて枕元に置いた。そのまま本を読んでくれていたらいいのにと思った。
「布団、どれを出したらいいか分からなくてすみません」
過去に買ったマットレスのことを言っているのだろう。伊原の部屋の一番大きなクローゼットはこむぎの部屋に付いていて、3組あるマットレスはまだその一画に収納されたままだった。当然、好みの問題ではなくこむぎに敷かせるつもりは無く、反対にまだ手付かずで安心した。
「……クローゼット開けますね」
「はい」
完全なプライベートの領域に踏み入ってしまっている。前回仕舞った扉を必要な分だけ開いて、そこに積んである一番上のマットレスと布団一式を取ってすぐに閉めた。
「体調はどうですか。寝てなくて大丈夫ですか」
ベッドの脇に寝床を準備する間、沈黙が苦しくて聞いた。本当はもう眠っていて欲しかったとは言えない。
「しばらく横になったら大分頭痛も取れました。熱もさっき測ったらだいぶ下がっていて。いつもはまだ起きてる時間なので、眠くならないです」
「良かった」
例え隣で眠ろうと体調が万全ではない相手に妙な気を起こすほど落ちぶれていないーーーという程度の自負は残っていたが、こうしてベッドの中に入っている姿を前に、直視することは出来なかった。朝起こして貰っているんだから寝る前から一緒にいても大して変わらない。そんな筈がないと分かっているが、そう言い聞かせるしかない。
早々に準備を終えて伊原も布団に入った。照明はリモコンで消せる。リモコンはこむぎの枕元にある。
「伊原さん」
いつも寝つきには困らないが、今夜ばかりはどうやって眠ろうか、眠れなければ途中で抜け出してやはり徹夜をしようと企んでいるところだった。
「は、はい」
「少しお話していいですか」
こむぎは伊原を真っ直ぐ見ていた。出会った日、喪服姿でシャッターを下ろしている姿を見た時の事を思い出す。その人がパジャマ姿でベッドに入っている。
たったのひと月でこんなことになるなんて、当然全く予想もしていなかった。
「定休日を作って、パートタイムの従業員を募集して、その分売り上げを伸ばす方向でやっていきます。食事も睡眠も適当だったのを見直して健康的な生活を心掛けます。体を壊したら店もなにもないですから」
今日考えていて言わなかったことをそのまま言われた伊原は驚いたのと同時に、やっぱりわざわざ立ち入って言わなくたって良かったんじゃないか、と安堵した。ただそれも束の間、
「伊原さんならそう言うんじゃないかと思って」
そう言われて伊原は返す言葉を失った。こむぎの言う通りだった。
彼女がどうすべきかは彼女が決めるべきだ。正解もない。ただ、伊原がそう思っていて、いつもならすぐに彼女に言っただろうという事が、こむぎの言う通りだった。
伊原は帰宅してからずっと気になっていることがあった。体調が悪いからだと思っていたが、身体の不調からではなく、話をしている時にこちらに向けられている目線がいつもより険しい色を纏っている気がしてならない。
「こむぎさん、もしかして何か怒ってます……?」
近づきすぎてはならないという戒めはあっても、考えたことをすぐ口にする癖は止まらなかった。
こむぎは伊原に指摘されてそれに初めて気付き、息を飲んだ。自分は怒っていたのか。何かの感情に似ていると思っていたけれど、それは父親に対する怒りだったかもしれないと思い当たる。だから否定はしなかった。
「……少し前までは言ってくれたのに、言わなくなったことがありますよね? お節介だけど世話焼きで、たまに突拍子ないけど理に適っていて、ちょっと強引だけどとびきり優しいのが伊原さんじゃないですか」
語気が強くなったわけではない。ただ淡々と、いつも通りに冷静にこむぎは言う。
過大評価だ、と伊原は思う。優しいのではなく自分はただこむぎが必要だった。とびきり優しいのは彼女の方だ。手段を選ばず縋り頼った結果、快く引き受けてくれた。
「泣いたからですか」
「……はい?」
「面倒だから、距離を置いておこうとか、そういうことであれば、」
「なっ」
あまりにも伊原の頭の中にあった飛躍した内容に言葉が出ない。泣いたって先週の箱を開けた夜のことだよな?とただ一度の出来事を思い浮かべるも、面倒という言葉と何も結び付かない。
「何の話ですか?!そんなことあるわけないじゃないですか。むしろ、もっと頼ってもらえないか思っているくらいです」
「じゃあなんでですか」
父親を亡くしたばかりなのに、ずっと気丈に振る舞うこむぎがずっと心配だった。涙もあの夜の一粒限り、後にも先にも彼女が揺らぐ姿を見ていない。
それでいて一人で朝起きることも出来ず情けないくせに必死にもがく自分の近くで、さっぱりと確かな才能を持って前に進んでいく彼女の姿に憧れた。
これで正直になれなければ一体自分に何が残るのか、と伊原は思った。
「ーーー今、うまく行ってるんです。朝起きれて、仕事も好調で。全部こむぎさんのおかげなんです」
「そんな大それた事、してません」
「俺にとってはすごく重要な事なんです。今後も仕事を続ける上で、ようやくスタートラインに立たせて貰ったのに、その上背中を押してもらってるくらいの。出来る限り長く、この生活が続けばいいって、そう思ってたんですけど……」
こむぎさんのことを好きになってしまって、とは言えなかった。
「こむぎさんの、個人的な部分にまで最近立ち入りすぎてしまっているんじゃないかと」
「一緒に長くいれば自然とそうなるものだと思いますけど」
「……今以上に近づいたら、今と関係性が変わってしまう気がして」
「そしたら私が起こしに来なくなるんじゃないかって?」
直接的に言葉で言い表されて、観念して頷いた。言葉にすると最悪な程に勝手な話だ。自分のことだけを優先して彼女との関係性を操作しようとしていた。彼女を一人の女性として扱うどころか、目覚まし用の道具のように扱っていた。
「丁度いい距離がいいと言う伊原さんの気持ちも分かります。近づかなければ喧嘩することも無いし、嫌いになることもないでしょうから。でも私は、伊原さんと遠くなるなら近くなる方が、ずっといいと思ってますから。その事だけは知っていてください」
言い終えるとこむぎは一週間分の気持ちがすっきりして、残っていた頭痛も完全に消え去った気がした。布団に潜り込んで「電気消していいですか」と問うと曖昧な「はい」とも「いいえ」とも分からない声が聞こえたが、構わず消した。
午前2時25分、夢から覚めた。
いつも眠りが短くほとんど夢を見ないこむぎにとって珍しい体験だった。眠っている間は当然夢だと気付かない、自分の体が実際に動いているかのような鮮明な夢だった。
眠る直前まで伊原と話していたせいなのか、最近彼のことばかり考えていたせいなのか、夢の中の自分達は一緒にいた。しかもパリの大通りを手を繋いで楽しく歩いている。こむぎが知っている店を得意げに指さすと、彼は早速行って食べてみたいと言って一軒一本ずつバゲットを買ってしまう。もう片方の腕で抱えて街中のパンを全部食べ比べてみたいのだと目を輝かせていた。何軒あると思っているのかと止めればいいのにそれは夢なので、自分も楽しくなって次々に店へ入ってしまう。途中、パリで勤めていたベーカリーに立ち寄り、オーナーに彼を紹介して、店自慢のクロワッサンにレタスとハムが挟まったサンドを薦めて2つ買う。近くに位置している公園の草むらに座り込み齧ると懐かしい味がした。まだ半分も食べきらないうちに彼は全て食べきってしまって、日本に帰ったら作ってほしいとねだる。満更ではなく上機嫌になり、天気もいいし少し寝転がってからホテルに戻ることにする。日差しがぽかぽかと暖かい昼下がりだった。
そういえば昼寝をした場合この人はどうなってしまうんだろう? と気になって横を見ると既に寝ていた。それが何故かおかしくて笑った。寝かせてあげたい気持ちもあるけれど、話し相手になって欲しい気持ちと悪戯心に負けて、相変わらずパン生地のように柔らかい頬を摘む。肩を揺すっても起きないところをみるとどうやら昼寝だろうとも一人では中々起きないらしい。これは新しい発見だ。久しぶりに新しい発見だ。帰ったらクロワッサンサンドと一緒にレシピに書き付けなければ。
キスをしたら起きるのは白雪姫の方だっけ。それとも、イバラに囲まれた城のお姫様の方だったか。
何の根拠もないけれど彼なら知っているはず。そろそろ起きて欲しくて、名前を呼んだ。
目を開けると辺りが暗く、こむぎは混乱した。夢を見ていたことに気付くのに3秒とかからなかったが、今度は別の違和感を見つける。目を開けた先に伊原が座っている。そうか昨日隣で寝たんだった、と今度は5秒以上はかけて思い出した。
伊原は暗闇の中で何故か立膝をついてじっとしている。何をしているのだろう、今何時だろう、と考えているうちにひとつの疑問に思い当たる。
彼はどうやって起きたのだろうか。
思わず起き上がり、枕元で充電していたスマートフォンの画面を点けると午前2時27分を示していた。こむぎは深く安堵した。まさか彼が以前言っていた、自発的に起きられる朝7過ぎまで寝坊したのかと疑った。窓から朝陽も差しこんでいない。
まさか一人で起きることが出来たのか、と考えているところで一つの可能性に思い当たった。考えればそれは可能性ではなく、夢のことを考慮するとそれしか有り得ないと思う。
「……善行さん」
まだ座ってじっとしている伊原に声をかけるも、反応がない。室内が暗く、目を開いているかどうかも直ぐには分からない。
「おはようございます。目、覚めてます?」
念の為まだ寝ているのに夢遊病のごとく起き上がっているわけではないことを確認したかった。伊原はようやく動いた。こむぎの方を見て、目が合ったかと思うとそのまま距離が減った。動かなかったのは呆然としていたのだと思い当たる内に、こむぎは伊原の腕の中にいた。
その力強さに少し仰け反り、布団の中の暖かさとは少し違う熱いほどの体温に驚いた。
「ひとりで、」
震えている。泣いているのか声がそこで止まった。毎朝のように起こして時には体を揺すってみることもするくせに、抱きしめられて初めてその体の大きさを理解した。
「生まれて初めて、ひとりで起きられました……!」
加わる力に思わず背中に腕を回して抱き締め返した。が、伊原の言葉を理解していく内に「しまった」と思う。
ひとりで起きられた。確かにそうだ。こむぎが起きるより早く起きていたのだから。しかし、彼が意図していて注目しているのは「自力で目覚めた」ということだ。
「あの......ごめんなさい」
体温越しにひしひしと伝わってくる喜びに、水を差す勇気がこむぎにも必要だった。小声で囁くように言ったところで伊原の反動は大きかった。今度は伊原の方が仰け反るようになって腕を解いた。ベッドから転がり落ちそうで二人とも慌てた。間近で見ると表情がよく見える。まだ顔色までは定かでは無くても、これまでになく恐怖で戦いたような顔をしている。
「すっすすすすみません!突然嫌でしたよね?!体調大丈夫ですか?!」
「そこではなくて」
そこではないんですかと聞き返された件については一度回答保留にした体調は良い。
「私、たぶん寝言で伊原さんを起こしました」
「寝言」
そんな事ができるんですかと顔に書いてある。
「……誰も見ても聞いてもいなかったし絶対の確証があるわけではないです。明日も試してみるというのが残念ながら出来ないんですけど、おそらく起きる前に夢を見ていて実際に声に出して名前を呼んでしまった気がします」
「名前……」
「がっかりさせてごめんなさい」
「そんな!こむぎさんが謝ることじゃないですし、がっかりとかそう言うのは、たしかに少しはありますけどーーー俺の夢を見てたということですか。昨日の、遠いより近い方がというのは……自惚れていいってことでしょうか」
昨日のうちに想いを伝えたつもりだったこむぎは、ようやく目の前にいる人が思いのほか自信の無い人だったのだと気付く。そして、自分の考えを捲したてている伊原の様子を見て、ようやく元の彼に戻ったと安心する。
突拍子がなくて少し強引で、華やかに見える職業についているところも含めて勘違いをしていた。好きでもなければ隣で眠るだなんて言うわけもないのに。言わないと伝わらないのなら尚更、今度こそ保留するまでもなかった。
「まだ朝に私が必要そうなことが嬉しいくらい好きなので、ちゃんと自惚れてください」
呆気に取られている伊原を前に、こむぎはパリで毎日のように誰かに抱きしめられていた事を不意に思い出した。最初こそ慣れなかった挨拶も日常になるのに時間はかからなかった。
当たり前だけれどそれと彼とは何もかもがまるで違う。
もうすぐ時間になってしまうのが惜しいなと思いながら伊原の腕の中に戻ると、案の定ほんの十秒も経たないうちにこむぎのスマートフォンが鳴った。念の為の予備アラームだ。
音を止めようと腕を伸ばして身じろぐと、
「あともう5分だけ……」
と伊原が呟くのでスヌーズと表示されているところを黙ってタップした。初めて使う機能だから少し不安が残る。昼寝もそうだけれど二度寝はどうなのだろうか。
まるでさっき見た夢の続きのようだとこむぎは錯覚した。
最後まで読んで頂きありがとうございました!