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 伊原さんの様子がおかしい気がする。

 形成が終わった生地をオーブンに入れ、先に焼成し始めていた商品が焼き終わるまでの数分の合間、こむぎはテレビを見る習慣が出来ていた。

 テレビ画面の中では伊原がいつもと変わらない様子で順調そうに仕事をしている。何か悩みでもあるのか、もしくは自分に対して他人行儀になっただけかもしれない。

 他人行儀もなにもただの他人だけれど、と思い直すもやはり以前と以後で変化はあったと確信していた。

 伊原はお節介な人だ。物腰が柔らかいくせに自分の言葉や思いを遠慮なく真っ直ぐ届けてくる。天真爛漫なその意見はたまに突拍子がなくてたまに面食らうが、こむぎにとっては的を得ていることが多く、何より本心から言ってくれていることが伝わってきた。

 それが今、よそよそしいとまではいかない。近頃こむぎの帰宅時間が遅くなることが多くなって、一緒に食事をする機会は減っていたが、朝の挨拶は起こした時にするし夜顔を合わせれば世間話もする。

 明確に避けられるようになったとも思わないが、それでもここ数日どこか自分との間に線を引かれているような気がしていた。


「善行さん」

 今朝も実験を諦めて午前2時半きっかりに名前を呼んだ。

 今日は手の指先を摘んでみた。身体の中でも指先の感覚が最も鋭いという情報はインターネットで仕入れた。多少強めに一本ずつ抓ってもみたものの成果は一向に見られず、レシピノートにはまた「効果なし」と書き込まなくてはならなかった。

「おはようございます」

 名前を呼ばれさえすれば目を覚ますのは、安定して効果が見られた。言い換えた場合も確認した。結果「よしゆき」の四文字が並んでいることが条件になっていることが判明した。「よしくん」は不可、「よしゆ」までの途中までも不可。興味深かったのは「よきゆし」というような組み換えがあともう一歩で目を覚ましそうだった、ということだ。

 呼び掛けについては思いついたものを一通り試し終えたので、最近はほぼ「善行さん」に固定した。こちらも「こむぎさん」と呼ばれているし、呼び捨てにするのは聞かれていないにしても憚られた。

「おはようございます。今日もありがとうございます」

 指先を抓られても微動だにしないのに、一度目を覚ましさえすればいつも不思議な程に寝起きが良い。寝ぼけた様子もなく、滑舌も明瞭だった。

「サンドイッチがテーブルの上にあるので、朝食にするか、時間がなければ冷蔵庫に入れるか持って行ってください」

「ーーー毎日すみません。了解です」

 今、なにか言いたそうにした。そう思った。

 単なる直感で気の所為かもしれないけれど、こむぎは連日の違和感を再び感じ取っていた。ただ「何か言いたいことがあるのでは?」と聞き返すほどの話でもないし、朝はお互いに忙しい時間帯だった。

 伊原はそのまま「お仕事頑張って」とだけ言ってこむぎを送り出したのだった。


 他にもある。一昨日の夜に試食をしていた時も、味や食感のことはいつも通り詳細に説明するものの、個人的な感想がひとつも出てこなかった。

 かつては、伊原の個人的な好みや提案は必要としていなかった筈だったのだから勝手な言い草だ、と自分でも思う。こむぎも試作品の試食を頼み始めた当初は父親の味を再現することだけを考えていた。パン屋あさひは父の店だ。そのままの味を引き継ぐのは当たり前だし、その方が常連のお客さんも喜ぶ。そう思っていたが、それだけではないかもしれないと思うようになったのは疑いようもなく伊原の影響だった。

 こむぎ自身で考えて作った商品の方が好き、と言われたことは何度かあった。

「これが普通なのかも」

 朝は確かに違和感を感じた。でも、こうして改めて思い出してみると、至って普通なやり取りには違いない。

 これまでの距離が特別近すぎたとも言える。それにすっかりこむぎの方が慣れてしまったのだ。

 伊原は食べることが好きな人だ。食べている最中はもちろんのこと、食べ物の話を見聞きしている時も彼は幸せそうに笑っている。

 今朝だって「どんなサンドイッチですか!」と目をキラキラ光らせて質問をしてくるのを、こむぎはどこかで予想していた。期待していたと言ってもいい。

 食パンは厚めに切って、仕込んであった蒸し鶏、ゆで卵、ブロッコリーとチーズを挟んだ。伊原が朝から4から5人前を平気で食べることも知っているので、昨日の夕飯用に多めに作っておいた甘めのポテトサラダとレタスのサンドイッチも作った。きっとこういう味が好きだろうなと想像して作ったのだ。帰った後にこちらから口に合ったかと聞けば、きっと美味しかったと言ってくれるに違いない。そういう自負もあった。

 何か彼の気に障るような事をしただろうか。

 自分に愛想がないのは重々承知している。笑顔がなくてもそのままでいいと言ってくれたのは他でもない伊原だ。それで距離を置くような人物ではないだろう。思い当たることがあるとすれば、その妙な感覚が始まった時期だけだった。

 一週間程前、あの写真の箱を開けた夜の翌日あたりから始まった気がしてならない。

 泣いた姿を見せて驚かせたか。

 面倒な女だと思われてしまったか。

 頭を抱えるほどの悩みではないが、実際頭が重くてこむぎはこめかみを押さえた。

 頭痛は一昨日から続いている。買っておいた鎮痛剤をバッグから取り出してきて服用した。眠れば治るだろうと思っていた不調が戻らないでいる。あの夜以来、写真のせいか、それ以外のせいか、こむぎはよく眠れていなかった。


 放送後は、スタッフ全体の放送後ミーティングを行う。それからアナウンス室に戻って翌日の準備が終わり次第で帰る。時折宣伝用映像の撮影や取材が入るが、夕方も朝も生放送は基本的には同じだ。朝の担当に移ってからは昼過ぎに帰宅することが多い。

「伊原、間宮」

 アナウンス室の室長席にいた萩野が手招きして伊原達を呼び止めた。廊下の後ろを歩いてきていた萩野ファンの間宮から、振り向かなくとも歓喜の気配を感じた。萩野の席の前まで行くと「すぐ済む」と言い、手元にあったノートPCの画面を持ち上げて見せた。表示されているのは社外秘と書かれたモーニング!ニッポンに関する資料だった。

「今月の視聴率と満足度、共に好調。編成前より良い結果が出てる」

「やった!」

 反射的に返事をしたのは間宮だった。伊原はその意味を理解するのに数秒時間がかかり、じわじわと喜びと安心が込み上がってきた。小さくガッツポーズをする。

「明日からもよろしく。以上」

「ありがとうございます!」

 伊原と間宮は、つい先ほどまでミーティングで散々打ち合わせをしてきたばかりだった。明日もまた早朝から顔を突き合わせる。今日はもう良いだろうというのはお互い意見が合致したようで、目を合わせて頷き合い、それぞれの自席に戻った。

 なんとか上手くいっている。しかし、萩野の言う通りまだ今週はまだもう1日あった。まだ気は抜けなかった。明日は金曜日だ。週の終わりはゲストを迎えることが多く、明日も当日公開の映画宣伝をしに来る出演者の予定があった。芸能人や著名人と仕事をすること自体は入社一年目で慣れた。が、生放送に慣れない出演者を招き入れて通常通りの進行とはいかない点については、常に緊張感がある。

 念入りに進行表に目を通し終える頃には、伊原はすっかり空腹を覚えていた。背もたれに体重を預けて体を伸ばした。

(こむぎさんのサンドイッチ、とんでもなく美味しかったな……)

 すぐ食べた方が美味しいと分かっていながら、起き抜けに食べると放送中には腹が減ってしまうので、朝食は放送前に食べるようにしていた。

 パンという食べ物はチョコレートやクリームが入っていない限りは、大抵は温めて食べた方が美味しく感じられる食べ物だ。それがサンドイッチになると、時間の経過によって水分が出る食材もあるものの、常温のまま最高の状態で頂くことができてしまう伊原にとっては最適な朝食だった。

 特に蒸し鶏とゆで卵のサンドイッチは絶品だった。コンビニでも買えるツナやハムとレタスや卵とマヨネーズを和えたような定番のサンドイッチも言うまでもなく美味しく頂くが、こむぎのサンドイッチは具を挟み込むパン自体の美味しさがそのまま伝わる、十分お金を払って買いたくなる一品だった。

 伊原が知る限り、パン屋あさひはサンドイッチを取り扱っていないはずだ。

 あれは絶対に商品化すべきだ。そして多くの人に食べて欲しいと言って回りたいし、毎朝は手間だということであれば週末に店まで買いに行ってもいいから定期的に食べたい。別の具のサンドイッチも食べてみたいーーーというところまで考えて伊原は雑念を振り払った。

 この勢いのままこむぎと話した日には、感情が存分に漏れ溢れる恐れがある。ただでも抑えようとしていたが、特に近頃のこむぎは多忙そうだった。少しは休みを取った方がいいと助言するならともかく、現状以上の負荷を抱えさせたくはなかった。

 本当ならパン屋あさひは定休日を作るべきだし、販売を任せられるパートタイムを雇用するでもしてこむぎは働く時間を短くすべきだ。あの働き方では遅かれ早かれ体を壊してしまうだろう。

 しかし頼まれたのならともかく、彼女の仕事や個人的な事情にどこまで口出しすることが許されるのか。今更かもしれないけれど、と伊原は頭を抱える。

(もう散々好き勝手に言ってしまった)

 チーズブールから始まり、カボチャコロッケも、部屋に住むことも今思えば強引に誘ってしまった。

 だからこそ、あくまでも自分たちは良い距離感を持った他人同士なのだから、どうにかしなければ今の関係はすぐ脆く崩れ去ってしまう。仕事をこのまま続けるためにもそこは死守しなければならない。

 こむぎとの事は昼食を取ってから改めて考えようと帰り支度を簡単に終えた時、丁度ジャケットのポケットに入れようとしていたスマートフォンが揺れた。画面を見ると「旭こむぎ」と表示されている。メーセージが届いたところだった。

 伊原は今の今まで思いを馳せていた相手であることに驚き、思わず手から落としそうになって慌てて掴む。まだ仕事中の間宮が訝しげにこちらを見たので、詫びるついでに帰宅の挨拶をしてアナウンス室を出た。

 まだ昼過ぎだった。パン屋あさひは、まだ営業中のはずだ。こむぎが仕事中に連絡してきたことはこれまでに一度も無かった。何となく胸騒ぎがして、エレベーターホールの脇に寄ってメッセージアプリを開くと、そこにはこむぎらしい簡潔な文章が並んでいた。


<体調不良で店を閉めました。明日の朝をどうするかについてご相談したく、お手隙で連絡ください。>


 場所やタイミングは何も考えず、そのまま電話をかけていた。今朝顔を合わせた時のこむぎの様子を必死に思い浮かべてみるが、その時にしっかり姿を見られず記憶も曖昧なことを後悔した。

 こむぎはすぐ電話に出た。

「体調大丈夫なんですか!?」

 開口一番に伊原から問われて、電話先にいたこむぎは思わず黙った。

 こむぎは明日の朝の件について相談することばかり考えていて、自分の状況を説明する頭の準備ができていなかったのだ。発熱のせいもあって思考の回転が鈍くなっている。

「ーーーすみませんお騒がせして。頭痛と熱が少しあるくらいで心配には及びません。午前中に病院へ行ったら疲労が原因と……」

「いま帰るところでした。何か必要な物ありますか?おかゆとか果物は食べられます?」

「あの、それも含めてご相談なんですけど」

「はい。何でも」

「同じ場所に一緒にいて、万が一私が伊原さんに感染(うつ)すような風邪だったらご迷惑をかけるので、今日はこのまま事務所に泊まります。明日の朝は時間通り部屋に伺いますから」

 今度は伊原が黙った。メッセージに「朝の件で」と書いてもらっていたのに全く考えていなかったし、その発想についても理解が追いつかずしばらく考えた。

「それでも心配ということなら今日は会社に泊まる、とか……突然迷惑かけてごめんなさい」

「迷惑なんて」

 心配って朝起きられない心配のことか。それとも風邪だったら症状が移る心配の方か。なんとかこむぎの言葉を噛み砕くだこうとするが、どちらも的はずれであることは考えなくとも分かった。

「迷惑なんてこむぎさんと出会ってから一度もかかってないですよ。俺が心配してるのは、こむぎさんの体です。ーーー風邪だったら感染するとか朝の起こすこととかそんなの、気にしないで帰ってきて休んでください。体調が優れないなら尚更そうして欲しいです」

 返事が聞こえず、伊原は念を押す。

「もし俺が帰って部屋にいなかったら事務所まで迎えに行きますから。歩くのが辛いようならそうしましょう」

 冗談で言ったつもりはなかったのに、こむぎが電話の向こうで笑っているのが分かった。

「……分かりました」

 それではまたあとで、と言葉を交わして電話を切ったところで、今いるのがまだ社内であることを思い出しエレベーターの階下行きのボタンを押した。

 いつか体を壊すのではないかと思っていた矢先の連絡に焦ったが、声が元気そうで伊原は胸を撫で下ろした。買って帰る物について聞き忘れたことを思い出してメッセージを打ち直す。すぐ既読がついて感謝の言葉に加えて「なんでも食べます」と返事が戻って来る。

 やってきた空のエレベーターに乗り込みながら「こむぎさんらしいけど参考にならないな」と思ったところで、は、と思い当り頭を抱えた。

 またやってしまった。距離を保とうと決めてまだ一週間で、遠慮する彼女をまたこちらへと引き入れてしまった。

 でも今回ばかりは仕方がない、と誰にするでもなく言い訳をする。体調の悪いこむぎをまたあの天井の低い小さな部屋の窮屈なソファに寝かせるなど、承服出来るわけもなかった。


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