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「毎週木曜、今注目されているトレンド情報をお送りするコーナー”チューモクモクヨービ!”ですが、伊原アナ、来週は何にチューモク!でしょうか?」
「来週は都内で話題のパン屋さんにチューモク!します。フランス・パリの人気店オーナーがプロデュースする最新のお店から、地元の人に長年愛されている昔ならではお店までお話を聞いて沢山食べてきたいと思います! 東郷さんは朝はパン派ですか、ご飯派ですか?」
「うーん、私はご飯派なんですけど、これを機に乗り換えてもいいなあというくらいにはパンも好きですよ。どちらも美味しいんですよね。伊原アナは?」
「僕は断然パン派でして。甘いのからしょっぱいのまでなんでも好きです」
「じゃあ来週は楽しみな回じゃないですか」
「毎週楽しませてもらっていますけど、正直そうなんです」
「羨ましいなあ。スタジオにもお土産お願いしますね」
「任せてください。とびきりのおすすめを見つけてきます」
「さて。金曜日は週末前にチェックしたい情報を集めた”お出かけウィークエンド!”です。明日は17時頃から紅葉真っ盛りの山梨をご紹介します」
「お天気も晴れがしばらく続きそうですし、楽しみですね」
「そうですね。you.NEWSのあとはCMを挟まず”今夜の早押し一番クイズ王”を放送します。チャンネルはそのままでお楽しみください」
「明日お会いしましょう」
「肌寒くなってきましたので暖かくしてお過ごしください。それでは」
「それでは」
伊原善行は席に座って頭を下げたまま、インカム越しにOKが聞こえるのを待つ。生放送なので油断して頭を上げたところが流れないように余裕を持った秒数止まる。無事別室にいる男性ディレクターから「お疲れ様でした」の声が聞こえて息を吐いた。同じテーブルに並んでいるyou.NEWSメインキャスターの東郷冴子が体を起こした気配を感じてから伊原もそれに倣った。
東郷冴子はかつて別の民間放送局の人気女性アナウンサーだったが十数年前に実業家との結婚を機に退職、産休後暫くして復帰した今やベテランのフリーだ。女性アナウンサー人気ランキング最高位は27歳の頃の2位。今も若手の女子アナを押えて堂々の7位だ。
「今日のチューモク面白かったね」
「本当ですか! ありがとうございます、嬉しいなぁ」
今週は老舗デパートで開催されている北海道物産展の特集だった。視聴率は安定して取れるものの、各局必ずと言っていいほど取り上げる内容で、毎年代わり映えのない絵になりがちなネタだ。そこを如何にも美味しそうに映える商品ではなく売り場に立つパート主婦を見つけて密着取材させてもらったのは伊原の案だった。
裏方のスタッフが企画する。それが通常の番組制作のところ、番組内で紹介するアナウンサーも直接加わって事前の段取りをすることでレポートに臨場感が湧く。時には交渉段階でも「テレビで見た事のある顔の人」が直接出向くことで何倍も取材される側の融通が効くことがある。
会社勤めをしている所謂「局アナ」伊原にとって直接の上司では無いものの、頼り甲斐のあるベテランからの褒め言葉はこれ以上ない自信になる。嬉しくないわけも無いが、今はニコニコと笑って普段通りにガッツポーズをするような気にはなれない事情があった。
アフターミーティング始めます、と耳に入れたままのインカムから声がして話はそのまま流れる。放送中の改善点、要はダメ出しをする会議だ。それが気の重い原因では無い。生放送番組の担当を始めた頃こそ緊張したが、毎日のルーティンになってからは機械的に受け入れられる。
放送後のミーティングが終わり次第でアナウンサー室長、つまりはそれこそ直属の上司に呼び出されていた。何をしでかしたというような心当たりは無い。無いからこそ、何を言い渡されるのかと午前中から気もそぞろだった。なんとなく予感はあった。恐れとも言う。
「単刀直入に言うと担当番組の変更ね」
席に着くなり五秒と経たず呆気なく告げられた伊原は「はい」と答えていた。切り出したのは直属上司ではなく、その隣に着席した局の人事部長だ。
「あの……」
「うん」
「それで」
「うん」
「自分はどこの担当になるんでしょうか」
アナウンサーが担当するのはニュース番組だけではない。タレント事務所所属の芸能人が司会をする情報番組やバラエティ番組のアシスタントとして進行等を行うこともある。生か収録か。スタジオかレポートか。何より放送や収録の時刻も異なるのだ。伊原は現在、月曜から金曜日午後5時からの夕方の報道you.NEWSのサブ司会を担当しているが、入社してからしばらくは収録バラエティの進行を掛け持ちしていた事もある。
「気になるよねえ。新しい自分の番組が何なのか」
「それは……そうですね」
「そうだよね。じゃあここからは萩野君から説明します」
「……まだほとんど説明してませんけどね」
君付けで呼ばれた伊原直属の上長にあたる萩野室長は現役アナウンサーだ。40代後半ながら老若男女の人気を顕著におさえて男性アナウンサー人気ランキング4位。テレビ各局が最も視聴率が期待出来る19時から22時、俗に言うゴールデンタイム内のバラエティ番組で長年MCを担当している。他にも音楽番組、ナレーション、四半期の切れ目に入る特別番組など多数抱えていた。カメラの前では陽気に振る舞ってはいるが、ひとたび役割を終えるとスイッチが切れたようにオフモードとなる。会議中もただの落ち着いた中間管理職の男性サラリーマンのようである。
局アナなんてただのサラリーマンだよ、とまだ入社したてで目をキラキラさせていた伊原に助言してくれたのもこの萩野だった。いつになくやや気難しい顔をしながら頬をかくのを見て、やっぱり何かやらかしたのか?と疑っていたが、
「早川の事は聞いたか」
その名前を聞いて体が固まった。早川光。アナウンサーで伊原より五年上。男性アナウンサー人気ランキング2位で同局トップ。容姿端麗で爽やかなスマイルが女性視聴者に大人気だ。実際は自身の武器を承知しているが故のプレイボーイである。やっぱり何にしても見た目なのか?という感情以外は無かった。
問題はその早川が現在担当している番組だ。
“早川の事”については最近何の話も耳に入っていなかった。伊原が首を横に振る前に、
「明日発売の週刊誌で不倫疑惑に関する記事が出る」
「えっ」
「真偽について今は触れてくれるな」
実際に頭が痛いのだろう、萩野がこめかみを指で押している。早川の妻は元人気アイドルだ。本人が釈明をして真偽がどうであろうと、職業上噂話が掲載される時点で有耶無耶にするのは不可能だ。考えなくとも分かる。
「どちらにしてもモーニチは今朝の放送いっぱいで降板。他もカメラ前にはほとぼりが冷めるまで出せない。明日と来週分は俺が出る。再来週からの後任は伊原。お前だ」
心臓がバクバクと鐘を打つように煩い。嫌な予感が当たった。全身から汗が吹き出てくるような気がした。
「あの……モ、モーニチというのは……」
モーニチってあの早川さんが番組開始時から担当して朝5時50分から生放送の“モーニング!ニッポン”のモーニチですか、と声になりそうになって危うく止める。自社は当然、首都圏の競合他社の番組構成まで社員であればほぼ頭に入っている。念の為に確認したところで自分に言い聞かせるために復唱する以上の意味は持たない。
「you.のサブ後任は明日中に選抜する。担当の木曜コーナーを引き継ぐかは未定、来週分までは通常通りやってこい。キャスター変更は週明けに外へ発表する。通常の変更より急にはなるがちょうど四半期の切り替えでタイミングも悪くないだろう。イメージ払拭を狙ってスタジオデザインも大きく変えてくれるそうだ」
「スキャンダル直後でしばらく外野は騒がしくなるけど、まあそこら辺は会社に任せて。その分注目も集まるし視聴率も今より良い時間帯なうえメインに大抜擢だよ。イバちゃんにはいい話でしょ」
いい話でしょも何も、社員の伊原に担当の選択肢など最初からない。朝の帯番組は花形だ。人事部長が言う通り視聴率も良い。朝はトレンド情報も扱うから夜の報道番組より、ここまで夕方のニュースで培った経験が活きるだろう。同僚の不始末とはいえチャンスには変わりない。何よりメインキャスターの席だ。そこに座れないまま退職していくアナウンサーの方が多い。
伊原にとっては見返りの方が多く、願ってもいなかった人事変更と言っていい。ーーーただ一点を除いては。
矢継ぎ早に説明して混乱させたという自覚のあった萩野が「質問は」と、混乱のまま口を半開きにしていた伊原に尋ねる。
放送前の打ち合わせは?局入りのタイミングは?スタンバイの最終時刻は?その他にも聞き方はどうにでもなったはずだった。が、結果的に最大且つ唯一の懸念点がそのまま口をついて出た。
「朝は何時に起きればいいんでしょうか」
伊原善行の学生時代の渾名は「眠り姫」またはそこから派生した「姫」だ。きっかけは小学五年生の夏の移動教室だった。幼稚舎からエスカレーター式に進学したせいで一部同級生の顔触れが変わらないまま、大学を卒業するまでついてまわった。
生まれて初めて家族と離れて外泊したその日の翌朝まで、善行少年は「自分は絶望的と言っていい程に朝起きるのが苦手である」という事実を知らないでいた。確かに朝が苦手だとは思っていたが、専業主婦をしている母親に毎朝起こされる習慣で学校に遅刻することも無かった。
同室だった友人に聞いた話では、布団を剥がれ鼻を摘まれ頬を叩かれようとも起きる気配を見せなかった。友人らも最初の数分は面白がっていたものの、あまりにも目を覚まさないので、スヤスヤと息をしているのは確認せず「実は死んでいるのではないか」と騒ぎになった。結局母の声色に近い担任の女性教師が駆けつけ揺さぶり起こされるまで、善行少年は眠り続けたという。
噂は瞬く間に広がった。そして女子クラスメイトによる「眠りの森の美女って、いばらに囲まれたお城に住んでるんだよ」なんていう要らぬ情報と、伊原という苗字が奇しくも合致してしまった。
渾名がマザコンにならなかっただけまだいくらかマシかも、などと呑気に考えていた学生時代の自分が今は恨めしい。
アナウンス室へ戻る廊下をとぼとぼと辿りながら「眠り姫」は頭を抱える。いくら余裕を持って早めに寝ようと朝7時頃までは自然に、つまり目覚まし時計やアラームを使っても起きられない。それより早く起きるには何故か女性の声を掛けられながら揺り起こされなければ目を覚まさないらしい。
そんなふざけた体質には何らかの異常があるだろう、と疑い医者には何度もかかっている。結果脳も精神も至って健康な状態で、内科に至っては「睡眠時間が足りていない昨今の日本人に比べれば良質な睡眠が取れていて大変結構ではないですか」とまで言われる始末だった。夜に眠れなかったり、急に眠気に襲われたりするわけではなく、朝になれば目が覚めるし一定の条件を満たせば何事もないように覚醒できるのだ。そして厳格な父親からは「根性が足りないせいだ」と蔑まれ、早朝練習があるような部活動には参加出来ず幼い頃から続けていた剣道も部に入ることを諦めてきた。
社会人になって7年、早朝に起床する必要のある日もあったけれども、その時交際していた恋人に頼んで起こしてもらうということをしてきた。ただ2年ほど前に別れたまま今は一人だ。実家は都内にあるが母に頼むのは父の手前絶対に避けたかった。何より気軽に頼めるような頻度では無い。平日毎朝2時半までに起床する必要がある。
「もうそれは夜でしょ……」
「夜がどうかしたんですか」
突然掛けられた声に体を揺らして肩が廊下の壁に当たった。慌ただしく姿勢を直すと、制作部のスタッフが口を押えて驚いていた。
「驚かせてすみません。お疲れ様です」
you.NEWS担当アシスタントディレクターの渡部美里だ。眼鏡で小柄な体格ながら番組制作の雑多な裏方業務を幅広くこなし、今日も大量の資料を両手に抱えて移動している。いかにも重そうなので「半分持ちますよ」と申し出ても「衣装が汚れるので止めてください」と伊原が身に纏っているスーツやネクタイを気遣われてしまう。
「ちょっと考え事してて……どうかしました?」
どうかしたのはこちらだという自覚はあったが、人事異動に関しては明日午後の会議まで他言無用と言い渡されて来たところだ。廊下の先にはもうアナウンス室しかない。伊原に用事があって来たことは察しが着いた。
「来週のチューモクでトラブルです」
再び歩き出したところでまた足を止めた。早朝にどうやって起きるかで満杯だった頭が夕方に引き戻される。
「どういうトラブル?」
「取材してもらう人形町のあさひさん、一昨日から連絡が取れないんです」
「SNSとかの情報は……やってないかぁ」
「そうなんです」
今日の放送で“地元で長年愛されている”と紹介したのはまさにそのパン屋「あさひ」だ。身長が高くて眼光が鋭い、頑固親父と呼ばれるのが似合う強面の店主がひとりで切り盛りしている。SNSやホームページが運営されているというのは想像も難しい。以前にも番組で取材対応してもらったことがあった。当時はこだわりのアンパンを特集した。伊原の住んでいるマンション近くに偶然あることが分かり、以来何度も足を運んでいた。ただ顔見知りで連絡先を知っているというほど親しくはない。
「それでタジさんとも相談して、明日にも現地うかがってみて、もしそれでも音信不通ならカットで行こうって話してます」
プロデューサーの田嶋、番組の総責任者だ。
「放送で予告みたいに地元で愛されてるパン屋とか言っちゃったけど、他のお店は新しめなところばっかじゃないですか?」
「すみません。放送中にやっぱりおかしいなという話が出て。今他のお店探してます」
「俺、家近いから明日仕事前に寄ってきますよ」
最後に行ったのは三週ほど前だった。特に変わりなかった筈だ。
「え、いいんですか」
「ちょっと顔見知りだし、何か理由があるなら話が早いだろうし」
最後だし、絶対成功させたいし、あのパンは絶対紹介したいし、ついでに食べたいし。朝の仕事になったら行くタイミング減りそうだしというところまで思考が追いついて来て、朝起きられない問題をまた思い出す。例えば局の社員に協力してもらうというのはどうだろうか。
「そしたらお願いしていいですか。正直助かります、もしもの時の為に代打の候補準備しておきますので。制作部戻ってその件報告しておきます」
アナウンス室にたどり着く前に美里の用は終わったらしい。時刻は既に20時を回っていたがテレビ局の制作スタッフは常に多忙だ。生放送番組の担当ともなればその過酷さも増す。
局アナもまたサラリーマンだ。
「女の人に直接来てもらわないと朝早く起きられないんです」
荷物を抱え小走りで戻って行った仲間の背中を見て「頼めるはずがない」と思う。女性問題で退いた後任でそれはさすがに状況が悪すぎる、と伊原は再び頭を抱えた。
パン屋あさひは伊原が住んでいるマンションから駅とは逆方向に歩いて10分程の場所にある。住宅街の真ん中に建ち、決して目立つ立地ではなく、四年住んでいる伊原も番組で取り上げるまで存在を知らないでいたくらいだった。それでも近所の常連客をはじめ噂を聞き付けた得意客も遠方からやってきているようだった。伊原が訪れるのは大抵仕事前の昼頃で、もうそのくらいの時間になると既に売り切れている惣菜パンが多かった。連絡が取れないということは店も閉めているのか。
あさひまで歩いて向かいながら、伊原にとって最後の回になる特集ネタと新しい人事配置のことで胸中はすっかり乱れている。
もしかすると問題なく朝起きられるようになっているかもしれない!という一縷の望みを持って昨日寝たのは20時のことだ。以前から使っている上半身が自動で起き上がる電動ベッドと、昔実験のため母親の声を収録していた音声を設定し、朝5時にアラームをかけた。最悪そこまでに目を覚まして部屋を飛び出せば放送開始に滑り込める時間だ。結果目が覚めたのは7時半、絶望してテレビの電源をつけると萩野アナが円滑に進行していた。
いっそ萩野さんが後任であれば全て解決するのではないか?と考えかけて伊原は頭を振る。それでは何も解決しないし自分にそんな決定権は一切ない。朝のメインキャスターという席は本来自分にとって願ってもないチャンスである筈だ。全く起きれられない訳では無い。条件さえ揃えば起きる。きっとどこかに解決策はある。
例えば人を雇うとか。そんな業者はあるだろうか。
もしくは友人の協力を仰ぐとか。午前2時半に毎朝起こしてくれる女性の友人など思い当たらない。
また恋人を作るとか。そんな器用さは持ち合わせていないし、持ち合わせていたとして目的が不純すぎる。百歩譲って恋人がいたとしてもう百歩譲って一緒に暮らしてもらったとして、自分のために2時半に毎朝起きてもらうのも現実的では無い。
会社の仮眠室を使ったところで問題は変わらない。事情を素直に話して毎朝使い続けることは可能か。やはり番組スタッフの手間を取らせることになるが、最悪そうするしかないのかもしれない。
想いを巡らせている間に伊原は店へたどり着く最後の角を曲がった。遠目でシャッターが降りているのが見える。
やはり何か事情があって連絡がつかないのかと思っていると、店のシャッターがガラガラと音を立てて上がり始めた。店主が一人で切り盛りしている店だ。当然中から出てくるのは店主だろうと思っていたのに、姿を見せたのは若い女性だった。
長い黒髪と全身黒のワンピースと黒のタイツ、おまけに一緒に外へ出てきた大きなスーツケースも黒かった。伊原の心臓は跳ねた。その二十代半ばくらいに見える女性がとびきりの美人だったからという点ではなく、よく見るとその格好が喪服であるようだったからだ。
嫌な予感を掻き消すように、伊原は衝動的に声をかけていた。
「あさひさんの関係者の方ですか」
喪服の女は丁度シャッターを上げ切ったところだった。伊原の顔と姿を見据えてから、
「関係者というか、あさひです」
と言った。
「今日は休業していて、私は店主の旭重造の娘です」
「娘さん……」
あさひの店主に娘がいたことを伊原はこの時に初めて知った。あさひは店の名前であり、店主の苗字でもあった。
「父のお知り合いの方ですか?」
そう尋ねられ、最近自己紹介をせずとも「ニュースのひと」と声をかけてもらえることに慣れていたと思い当たり、恥ずかしさで顔が熱くなった。背負ってきた通勤用リュックサックから名刺入れを取り出して「こういうものです」と一枚渡す。娘はまじまじと名刺を見た。
「大変失礼しました。お父様にお店の取材依頼をしていた帝京テレビの伊原と申します。電話やメールでご連絡が取れなかったので、今日は直接伺いました」
御身内になにかご不幸でもあったのですか。そう踏み込んで聞いていいものかと伊原が逡巡している間に、
「父は、今週の月曜に急逝しました」
と旭の娘は言った。
伊原は手と足の指先が一気に冷たくなっていくのを感じた。また、当たって欲しくない予感が当たってしまった。娘が悲しみにくれて疲れ果てたという風ではなく、淡々と真っ直ぐに告げるのが現実味が無いようでいて、確定事項としてずしりと腹の底に落ちた。
「こちらからご連絡しないままで申し訳ありませんでした」
「いえ、そんなことは……お悔やみ申し上げます」
「寝ているうちに亡くなって、ずっと一人暮らしだったんですけど、開店時間を過ぎても断りもないまま店を開けないことを不思議に思った常連のお客様がその日のうちに調べて下さって」
「そうでしたか」
次ぐ言葉出てこなかった。そういう事でしたら今日は引き取ります、取材の件もなかったことに、と切り替えられるほど伊原の情は薄くなかった。呼吸を整えて言葉を繋ぐ。
「すみません、実は個人的に自分もあさひさんには何度か通わせてもらっていたので驚いてしまって。本当に何を買って食べても美味しくて。残念です」
「……あの」
「はい」
「もしも差し支えなければなんですが……テレビの取材内容について詳しく伺ってもいいですか」
「えっ」
偲ぶ気持ちが中断され、可能性が完全に無くなった取材に関して何を知りたいのかという疑問に伊原は目を丸くした。
「予定していた取材内容についてですか?」
出社しなければならない時刻までまだ十分余裕があった。
「もちろんそれは構いませんけど、どうして」
「あさひは明日再開させますから」
旭の娘は断言した。彼女が言うのだからそうなのだろうという説得力が、出会って数分も経っていないのに伝わってきた。
「もちろん父が作ったパンではないので、テレビ局さんの方で取材をして頂けそうか確認して下さい」
「そんなこと出来るんですか。取材させてもらって大丈夫なんですか」
願ってもないことではある。可能なのか。亡くなった店主の代わりに誰が作るというのか。喪中で休まなくていいのか。色々と質問したいところで旭の娘が「話の続きは中で」と言い店のガラスドアを引いた。ドアの上についている昔ながらのベルがカランコロンと鳴った。
店内は照明が消されて薄暗い。閉店していた棚には何も並べられてない。それなのに不思議なことに、もう店主がこの世にいない人の気配のない店の奥から嗅ぎ慣れた焼きたてのパンの匂いが漂っていた。