新宿迷宮攻防戦(5)
涼音とエルティの戦いに決着がつく少し前、
「同調開始」
迫り来る“シュバルツ・リュストゥング”を目の前にして、カズヤが呟いたのはごく短い起動鍵語であった。
直後、人間などいとも容易くミンチに変えてしまうであろう首狩りの大斧が、緑に乏しい荒野の土を盛大に掘り返す。
抉られた土砂が辺り一面に撒き散らされる中、“リュストゥング”の中に納まっているアスカルトスは、手加減抜きで放った一撃を無傷でしのいでみせたカズヤを見やり、満足そうに頷いた。
「ようやく本気になってくれたようだね」
その言葉が指し示すのは、カズヤの左肩から先、ゆらりゆらりと蠢く半透明の長大な触手だ。
無数の吸盤が生えたそれは、どこからどう見ても頭足類の触腕にしか見えない。それが人体から生えているなど、普通ならば目か頭のどちらかがイカれてしまったのかと嘆くところである。
しかし、すでに歌舞伎町の喫茶店でカズヤ本人から種と仕掛けを聞かされているアスカルトスにとっては、ただの予定調和でしかなかった。
「これは……クラーケンですか。まさかダンジョンの中で深海に棲む幻想種を拝めるとは、思ってもみませんでしたよ」
カズヤ自身の言葉を借りるなら、彼は多くの幻想種――魔獣を材料に生み出された人型の合成獣だという。
その出自に由来する唯一無二の能力。自らを構成している魔獣の特性を受け継ぎ、自分自身を作り替えることができる。
大斧が脳天に達する寸前、左腕を柔軟性と伸縮性に富んだクラーケンの足へと変換し、“リュストゥング”の矛先を逸らしてのけたのだ。
こういった真似が可能だろうと予測はついていたが、具体的にどんな幻想種の因子を保有しているかまでは明かされていない。つまり、カズヤがどんな手札を何枚隠し持っているか、まるで定かではない状況なわけだが、それでもアスカルトスには明確な勝算があった。
それは幻想種の能力を行使するたび、過負荷としてカズヤの肉体を襲う多大な反動だ。本人の口からその欠点は明かされているし、正臣達との探索者勝負の際、ウェンディゴの能力を使用した反動と思われる負傷をエルティも確認している。
満身創痍という言葉が相応しいボロ雑巾のようなあの有り様からして、この時を見据えたブラフという可能性まで警戒する必要はあるまい。
要するに油断禁物ではあるが、むしろ幻想種の能力を濫用させることができれば、さして苦労することなくカズヤの生命力を削れるということになる。
事前に策定済みの戦闘プランを胸中で確認し直したまさにその時、はるか遠方の上空で突如として発生した巨大な爆発が、アスカルトスに絶望を告げる狼煙となった。
赤々と周囲を照らし出し、わずかに遅れて地鳴りのごとき爆音が到達する。
方角的にはつい先程までダンジョンの眷属と激しい戦闘を繰り広げていた辺りで、足止めのために二千体の傀儡と、それらの統括役であるエルティが残っていたはずだ。
そこまで考えが及んだところで言い表しようのない悪寒に襲われ、アスカルトスは戦闘中ということも忘れて、無意識にエルティ宛ての【遠話】術式を行使していた。
だが、通じない。
最悪の想像が脳裏をよぎる。いや、それはもはや想像ではなく現実であった。どんな時であってもアスカルトスとエルティを結び付け、新宿迷宮へ転移する際には道標の役割も果たしていた魔術経路が、どんなに手繰り寄せてみても途中で途切れてしまっていたのだ。
この事実が意味するところは唯一つ。
エルティはすでに死亡――修復不可能なほどに破壊されている。
「嘘だ、嘘だ、嘘だァああああッ!!」
喉の奥から人間のものとはとても信じられぬ、神経に焼きごてを直接押し付けたような絶叫が迸る。
本能的に理解を拒む脳髄が選択したのは、荒れ狂う衝動を目の前のちっぽけな人間に叩き付けることだった。
力任せに触腕の拘束を引き剥がし、元の形状に戻った左腕を背中に届かんばかりに振り上げると、声にならぬ咆哮と共に振り下ろす。
対してカズヤは、右腕を赤みがかった丸太のごとき剛腕へと変じ、真正面から“リュストゥング”の拳を受け止めてみせた。
いつの間にか右の額から生えている捻じくれた角が、腕の正体を幻想種の中でも特に膂力に優れた一柱、鬼であると告げている。
こんな状況でなければ、一度に複数の幻想種の特性を行使できることに驚き、そんな合成獣を造り上げてみせた魔術師の腕前に心の底から感服していたところだが、汲めども尽きることなく噴出するどす黒い憤怒に塗り潰されている今のアスカルトスにできたのは、ただひたすらに呪詛の言葉を吐き連ねることだけだった。
「よくもっ、よくも私のエルティをっ! 許さない。ああそうだ、絶対に許すものかっ!!」
「……あんたの気持ちは理解できるよ」
先程までの余裕に満ちた態度は跡形もなく消し飛び、ぎょろりと目を剥き今にも噛みつかんばかりに吠えたけるアスカルトス。荒れ狂う天才魔術師を前にして、カズヤは先達として誰の耳にも届かぬほど小さく呟いていた。
目の前の哀れな男よりほんの少し早く復讐を志した身には、対峙している敵の胸中が痛いほど分かる。いや、分かるなどというのは傲慢か。自制など到底不可能なあの純粋たる破壊衝動は、どこまでいっても本人にしか触れることかなわないのだから。
自分はただ、似たような経験があるに過ぎないと、共感とも寂しさとも異なる心持ちでカズヤは呟きを重ねる。
「だからこそあんたも同じ結論に囚われたはずだ。俺はあんたを許さない。あんたは俺を許さない。その関係は何一つ変わっちゃいない。ただ、あんたは戦う理由を一つ失って、戦う理由を一つ背負わされた。それだけに過ぎないってな」
語りかける言葉が届いたのか、憎悪に染まった双眸がカズヤを捉え、カズヤは凪の海のような静けさでもって全く同じ視線を返した。
「復讐の地獄へようこそ。俺とあんたの誼だ。徹底的に殺し合ってやるよ」
「がああぁっ!!」
交わす言葉など持ち合わせていないとばかりに、黒一色の甲冑を操るアスカルトスが襲い掛かる。乗り手の感情に引きずられているのか、“リュストゥング”の繰り出す拳は限界を超えた駆動でもって、雨霰となってカズヤへと降り注いだ。




