絡みつく過去(7)
翌朝、冷たくなった祖母を前に、一滴も出なくなるまで涙を涸らし果てた涼音は、祖母の最後の願いを叶えるべく家を出ることを決めた。
祖母がいかに身を挺して住民達の話題に上るのを避けてきたとはいえ、葬式を出せばどうしても噂は漏れ聞こえてしまうものだからだ。そして枯れ野原に放った煙草の吸い殻のように、始めはどんな小さな火種でもあっという間に燎原の火へと成長することだろう。
それを避けるために涼音が目指したのは、むしろ多くの人々が行き交うがゆえに個々人に対する興味が限りなく希薄となる、都会というコンクリートジャングルであった。木を隠すならば森の中、人を隠すならば人の中というわけだ。
一念発起し裏山の仲間達に別れを告げた涼音が、日本はおろか世界でも屈指の大都市である新宿に辿り着いたのは、そういった側面からすれば必然ですらあった。
もっとも想像を超える人いきれに圧倒され、上京一時間で貧血によりダウンともなれば、呑気に運命など感じている余裕があるはずもなかったが。
しかし、公園のベンチでグロッキー状態となっている涼音の耳が、通りすがりの学生探索者達のお喋りを聞きつけたことだけは、間違いなく運命の悪戯に他ならないだろう。
第一階層、木漏れ日の古跡。興奮気味に彼等が語る、新宿迷宮の中に広がる大森林の存在。
都市の洗礼を浴びて心身共に弱っている状態で、故郷を思い起こさせるような場所の話を聞いてしまえば、中学を卒業したばかりの少女がホームシックにかかるのも致し方あるまい。
そして彼女は衝動に突き動かされるままに探索者登録を済ませると、未成年が一人でダンジョンに潜るのは危険だから避けるようにというギルド職員の忠告も右から左へ聞き流し、逸る心に背中を押されながら異界の地を踏んだ。
そこに広がっていた光景は、彼女の家族が住んでいた裏山とはまるで異なっていたが、弱っていた少女の精神を賦活させ再びの奮起を促すには、十分なだけの迫力を備えていた。
こうして一発で新宿迷宮の虜となってしまった涼音は、なるべく新宿迷宮から近い場所で住まいを探し、祖母の願いである人間の友人を作るために高校へと通いつつも、新宿迷宮へと潜り続けることを心に決めたのだった。
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「後は皆も知っている通りよ。【テイム】が発現して、管理人さんの目に留まって比良坂荘に引っ越しが決まって、それから君達に会ったの。あれからもう一年も経つんだね」
両腕の中に確かな鼓動を感じながら、涼音は囁くように締めくくった。
そう、一年だ。一年も経っているのに、ちっとも前に進んでいないではないか。
新宿を通る私鉄沿線の高校に入学したはいいが、それまで学校に通った経験が皆無である涼音に友達作りは荷が重く、用事がある際に二言、三言どもりながら言葉を交わすだけの知り合いしか作れていない。
これでは駄目だ。何かしなければ。心だけはそう急くのに、結果がまるで伴わない。挙句の果てには、無意識の内にカズヤを頼ろうとしていた浅ましさを、カズヤ本人に喝破される始末である。
だが実のところ、カズヤの指摘は本質からは大きく外れていた
涼音が恐れ、無意識に避けようとしていたのは、第九階層守護者として探索者と戦い、場合によっては相手を死に至らしめてしまうこと――ではなかったのだから。
争えば傷付き時には死に至ることなど、幼少期を野の獣と共に過ごしてきた涼音にとっては、あまりに当然の話であり葛藤する理由になどなりえない。
己の生い立ちを振り返ったことで、涼音自身がようやく自覚した恐れの正体とは、チャウ達を戦わせてしまうことで三匹を家族ではなく戦力としか見られなくなるのではないかという、本当に訪れるかどうかも定かではない不確かな未来に対する、漠然として形が無くそれゆえに向き合うのが困難な恐怖であった。
特に正臣がしつこく語り聞かせてきた、南米のダンジョンで幅を利かせているという【テイム】持ちの話が致命的だった。
涼音にとっては友人であり家族である魔獣達を、無慈悲かつ無造作に使い潰すという戦い方は、涼音に強い嫌悪の感情を植え付けるとともに、『もしかすると自分も同じ仕打ちをしてしまうのではないか?』という疑念を、砂粒程度ではあるが芽生えさせてしまったのだ。
その可能性を想像するだけでたまらなく怖くなり、結果として涼音はカズヤを頼ろうとし、これを拒絶されてしまったというわけである。
涼音が自身に抱いていた恐怖の理由を正しく理解できたその時、見計らっていたかのようなタイミングで内線が鳴り響いた。
受話器を取るまでもなく、勝手に通話モードへ移行する。
こんなデリカシーの無い真似をやらかすのは、涼音の知り合いには一人しかいない。
『スズちゃん、例の探索者達が五十階層へ到達したわ。あなたの役割を果たしてもらう時が来たわよ』
受話器の向こうから告げられたのは、遂に侵略者がやって来たという報せだった。
涼音の心情を慮る素振りのない言葉の数々は酷薄にも聞こえるが、相手はダンジョンの外部端末などという人外の存在であるため、単に情緒の類を理解できていないだけであることを、涼音はとっくの昔に承知している。
「分かりました。すぐに向かいます」
応諾の返事をすれば、内線は即座に切れ、代わりに玄関の扉がぼうっと仄かな光を放ち始めた。
チャウ達を【テイム】しに行った際に体験したが、新宿迷宮の特定階層へと転移の出口が繋がったのだ。今回は守護者として赴く五十階に接続されているに違いない。
「皆、力を貸してね」
家族へ力強く呼びかけると、涼音は扉の先へと踏み出した。




