迷宮守護者の憂鬱(3)
カズヤが比良坂荘へ帰ってきたのは、腹ごなしに新宿の街をぶらりと散歩して回り、陽もすっかり地平線の下に隠れた頃合いだった。
街灯の下だけ切り取られたように明るい中、そこからこぼれた光で茫洋と浮かび上がる影が一つ。
はたと立ち止まってみれば、それは道のど真ん中にぽつんと置かれた大型のキャリーケースであった。軽く押してみれば、見た目を裏切らないどっしりとした手応えが返ってくる。どうやら目一杯まで荷物が詰め込まれているらしい。
では肝心の持ち主はどこにいるのかと見回してみれば、答えは比良坂荘の敷地内からやって来た。
「お、おい……そこ、で、何を、や、やっている……」
「あ、根岸さん。こんばんは」
どもりながらも肩を怒らせ気味に迫ってきたのは、涼音やカズヤと同様に比良坂荘で暮らしている、根岸亮介という男性だった。
年齢はきちんと確かめた事こそないが、おそらく三十代前半。いつも猫背気味の姿勢で、ざんばらに伸ばした前髪の奥から相手をひたすらに凝視する、怨念すら感じさせるほどの鋭い眼光がチャームポイントである。
ちなみに涼音と亮介以外の比良坂荘住人に関しては、カズヤはいまだに顔を会わせたことすらなかった。
引っ越しの挨拶回りをしようとしたところ、様々な用事で不在にしていると管理人の新宮寺から聞いたためだ。
正直なところ、まだ新宮寺の言動に完全な信頼を置くまでには至っていないカズヤとしては、エア隣人の可能性も頭から排除はしていなかったのだが、涼音からも同様の証言が得られたため、ひとまずは保留としている。
閑話休題。
カズヤはキャリーケースに触れていた手をあっさり放すと、潔白を示すように小さく万歳をしてみせた。
「こんなでかい物が放置してあったんで、誰の落とし物かと思ったんですが、根岸さんのだったんですね」
「そ、そうだ。返せ」
「はいはい、こいつは失礼」
別段拒否する理由もないため、いそいそと道を譲る。亮介は粘りつくような視線をカズヤに向けつつ、じりじりとキャリーケースににじり寄ると、荒々しい手付きでハンドルを引っ手繰った。
イカ耳を立てた猫を連想させる警戒心を露わにしたまま、ケースを引きずって遠ざかっていく。
そこで遅ればせながら、亮介が遠出をしようとしているのだと気付いたカズヤは、近所迷惑にならない程度の声量で「行ってらっしゃい」と挨拶を送ってみた。無視されるかとも思ったが、亮介は足を止めると一度立ち止まり、警戒態勢を維持したままではあるがちらりと振り返る。
そのままカズヤを観察するようにうかがうこと十秒、ふいっと目を逸らすと挨拶を返すこともなく、再びキャリーケースを引っ張り始めた。
野生動物とコミュニケーションを試みているような錯覚に陥るが、実はこれでもかなり改善した方なのだ。一応は比良坂荘に住まう者同士と認識してくれているおかげか、挨拶には半分くらいの確率で反応を返してくれるし、目を合わさずに物陰に隠れてしまうことも少なくなったのだから。
そうして新宿の夜への埋没していく背中を見送ると、カズヤは改めて比良坂荘へ向き直った。
門扉の隣に佇む管理人に、挨拶がてら尋ねてみる。
「今帰りました。すぐそこで亮介さんとすれ違いましたけど、結構な大荷物でしたよ。夜逃げですか?」
「常識的に考えて、大家も務めている私が、夜逃げしようとしている住人を見送る道理は無いと思うのだけど」
「いやー、ここは常識に囚われていると、かえって痛い目に合いそうな場所なんで。念のためってやつですよ」
欠片も委縮することなく言ってのけると、それで納得したのか否定の言葉は戻ってこなかった。
「その心掛けは立派ね。ちなみにリョウ君は、故郷に急用ができたらしいわ。目に入れても痛くないほど可愛がっていた妹さんから、数年ぶりに連絡があったんですって。なんでも結婚式を挙げるとか。そういう事情なら、私だって一時帰郷を認めないほど横暴ではないつもりよ」
「へえ、そいつはおめでたい話だ。帰ってきたらお祝いしてあげた方が良いんですかね?」
「さて、どうでしょうね。彼が他人からの祝福を望んでいるとは、ちょっと考えにくいのだけど」
新宮寺の指摘には納得の要素しかなく、カズヤは抗弁することなく引き下がる。
ちょうどそのタイミングで涼音も帰宅してきた。ただしこちらは、どんよりとした足取りとげんなりした顔がセットになっており、見るからに不機嫌オーラを醸し出している。
顔を会わせると厄介な事態になると直観し、カズヤは即座に自室に逃げ込んで知らぬ存ぜぬを決め込もうとするも、それよりも少しだけ早く、重苦しい声が撤退に移ろうとしていた足を縫い止めた。
「ちょっとカズヤさん! アレ、何とかして!?」
「あ、アレ?」
脈絡が無さ過ぎて何を意図しているのかまるで分からぬ指示代名詞を叩きつけられ、しどろもどろについ尋ね返してしまう。彼が己の失策を悟ったのは、ギロリと擬音がしそうな刺々しい視線を向けられた直後のことだった。