迷宮守護者の憂鬱(2)
「食い足りなかった分の代わりってわけじゃないが、こいつに見覚えはないか?」
そう言って人目を憚るように差し出されたのは、水瓶の刺繍が施された藍色の布の切れ端だった。カズヤが新宿迷宮を訪れた発端ともいえる、言うなれば始まりの品である。
肉の脂を避けるようにテーブルの脇から手渡されたそれを、鉄平は天井の照明にかざし凝視していたが、やがて申し訳なさそうに首を横に振った。
「さてなあ。俺には何の変哲もない布切れにしか見えねえが……すまんな、心当たりが無くて」
「……そっか。いや、いきなり変な質問したのはこっちなんだ。気にしないでくれ」
「事情は知らんが、どうやら訳ありの様子だな。俺だって最前線を張っている探索者の一人なんだぜ。新宿迷宮限定じゃああるが、それなりに顔だって利く。そいつを貸してもらえるなら、主だった連中に聞いて回ってやってもいいが、どうするよ?」
思いがけない申し出に、尋ねられたカズヤは目をぱちぱち瞬かせると、テレビ取材を受けた際に番組を見た幼児が泣き出してクレームが来たという、曰く付きに厳つい男の顔を見つめ返した。
「どうして訳ありだと想像がついているのに、わざわざ協力してくれるんだ?」
「そんなもん決まってるだろ。縁だよ、縁」
何を当然とばかりに、鉄平はぱたぱたと手を振る。
「知り合いが困っていたら、手助けの一つくらいしようと考えたって別段おかしかないだろ。そういうのが積み重なって、人間同士は繋がり合っているからな。だから俺は、たとえ一期一会だろうと、人との縁は大事にすることにしているってわけよ」
「へえー、顔が怖いくせに良い事言うなあ」
「顔は放っとけ」
不貞腐れたように口を尖らせるベテラン探索者。豪快そうな見かけのわりに、意外と気にするタイプなのかもしれない。そんなちょっとした気付きすら、鉄平の言うところの縁の産物かと思うと、少し面白くなってくるから不思議である。
拗ねる鉄平を眺めてくつくつと笑いながら、カズヤは穏やかな声音で告げた。
「ありがたい申し出だけど遠慮させてもらうよ。本音を言えば、できるだけ自分の力で探し出したいんだ。あんまり話が広がると、かえって逆効果になるかもしれないしな」
現状、カズヤが新宿迷宮へとやって来た本当の目的――恩人であるウィルを殺した犯人を探し出す事――を知る者はいない。
探し人の顔も名前も分からないカズヤにとっては、それだけが情報面における優位性であった。
確かに鉄平の人脈を駆使できれば、一人一人を観察して回るよりも早く広く調査が進むのかもしれない。しかし、肝心の仇の情報が確実に入手できるとは限らず、しかもカズヤが水瓶の刺繍について追っている事だけは知られてしまい、わずかな優位性を失ってしまうことになる。
ところが一次情報の漏洩先をあらかじめ絞っておけば、いざ追跡者の存在をまだ見ぬ敵が察知したとしても、どこからその情報が漏れたのか追うことで逆に標的に近付けるかもしれないのだ。
ここで重要なのは、情報の漏洩先から迫る計画は関係者が少なければ少ないほど効果を発揮するという点だ。そのためカズヤは、自身の目で確かめて信用が置けると判断したごく少数の相手にのみ、手掛かりの青布について明かすことを決めていた。
そんな青写真を一から十まで説明したわけではないが、カズヤがあっさり申し出を断ると、鉄平はそれ以上言い募ることなく頷き了承した。
無関心による淡泊な対応ではなく、カズヤの判断を尊重し、あえてそれ以上踏み込まないでくれたのだ。
人と人との縁を大事にしているというベテランらしい、絶妙の距離感である。
「とはいえ、何の手助けにもならないってのも俺のプライドが許さないんでな。お前さんの探し物には結びつかんだろうが、一つ、仕入れたばかりの噂話を聞かせてやるよ」
「噂かよ」
「おうよ。お前さんだって無関係じゃないぜ。決闘寸前までいった仲の、斑鳩正臣君についてだからな」
「俺が騒動の原因みたいな言い方はやめてくれ。百パーセント純粋に、巻き込まれた被害者なんだぞ、俺は」
即座に訂正を試みる抗議の声もどこ吹く風と聞き流し、鉄平は個室だというのに声を潜め、カズヤにしか聞こえぬよう囁いた。
「なんでも聞いた話じゃ、お前さんに負けて絶賛急降下中のプライドを取り戻すために、新宿迷宮の第五階層突破を計画しているらしいぜ」
「第五階層突破?」
「ああ、そうか、お前さんもまだ新宿迷宮に来てから日が浅いんだったな。新宿迷宮の最高到達記録は五十階。つまり第五階層の一番奥までなんだよ。そしてここ一年以上、到達記録は一切書き換わっていないときた」
どこか苦味の混じった口振り。五十階に何か因縁でもあるのかと気になったカズヤだが、容易には踏み込めない無言の拒絶を感じ取り、尋ねるのを躊躇してしまう。
そんなカズヤの逡巡には気付かぬ風に、鉄平はどこからともなく取り出した消化促進の胃薬を飲み下すと、しんみりとした口調で呟いた。
「目の付け所は間違っちゃいない。五十階を突破して第六階層に一番乗りとなりゃ、名実ともに新宿迷宮で一番の探索者になれるわけだからな………………ま、そう簡単にいくとも思えんがね」
最後にぽつりと付け足された一言は、焼き肉店の強力な空調の音に紛れてしまい、誰にも届くことはなかった。