プロローグ
室内には甘い香りが充満していた。
匂いの元は部屋の中央に鎮座するガラス製の容器だ。理科の授業で使う実験器具の親玉のような外観で、タバコの煙を水にくぐらせて吸引するために用いられる水パイプと呼ばれるその道具からは、フレーバーの付いた白煙が立ち昇っている。
煙を堪能しているのは、齢八十は超えているであろう老爺だった。
安物の毛布を敷いた寝台の上に横になり、のんびりと水タバコを満喫していた老爺だったが、土足アポなしで乗り込んできた客人を察知しゆっくり顔を上げる。
来客は一応知らぬ仲でもない青年で、人種の異なる老爺はややもすると十代の少年と勘違いしそうになる時もあるが、以前に聞いた話では二十四、五歳にはなっていたはずだ。
短く刈り上げた黒髪の下にある顔付きは精悍なものだったが、両の瞳の奥に潜む澱んだ光を見逃すほど老爺は愚鈍ではなく、さりとてわざわざ指摘するほど無思慮でもない。
「何の用、と訊くのも野暮な話か。ウィルの件は噂くらいなら聞いておるよ。憎まれっ子は世に憚るものと相場が決まっておるのに。この老骨よりも早く逝きおってからに」
老爺なりの手向けも込めてぼやけば、青年の表情が一層険しさを増した。
「その事で頼みがある。爺さん、こいつを『視て』くれないか」
「ふむ。カズヤよ、そいつはどこで拾ったのじゃ?」
青年──カズヤが差し出した皺くちゃの布きれを半眼で一瞥すると、老爺は年季の積み重なった双眸をカズヤ自身へ向ける。
問われたカズヤは、ちっぽけな布をじっと見つめながら、押し殺すように言葉を絞り出した。
「……あいつが握り締めていたんだ。掴み合いになった時に毟り取ったんだと思う」
「遺留品というやつか。しかし、儂にそいつを『視せ』てどうするつもりじゃ?」
「言わなくても分かってるだろ」
回答になっていない回答。だがカズヤの言葉通り、聞くまでもない質問であった。
別に年の功などと自慢するほどのものではない。針で突けば破裂しそうなほどに膨れ上がった剣呑な気配が垂れ流しとなっていれば、ギネス級の阿呆でもない限りは嫌でも同じ答えに辿り着くはずだ。
「やれやれ、復讐なんぞウィルの奴が望んでいると思うのか……などという月並みな言葉で止まるつもりは、毛頭ないのじゃろうなあ」
「ああ、無茶苦茶な奴で色々言いたい事もあったが、恩人を殺られて黙っていられるほど、俺は人間ってやつができていなかったらしい。それに爺さんに『視える』のは過去であって霊魂じゃない。魔術師とはいえ死霊使いでもなけりゃ、死人の想いを代弁するなんて不可能な芸当だろ」
「ふむ、少しは冷静な頭が残っておるようじゃな。考え無しの無鉄砲なら脅されても拒否するつもりじゃったが、どうやらそうではないらしい。ま、良かろう。随分と久し振りになるが『視て』やるわい」
寝台の上に体を起こした老爺は、衣服の切れ端らしき物体を改めてまじまじと観察した。
藍色で染められた十センチ四方の布地には、水瓶を模したと思われる図案が銀糸で刺繍されている。
パッと見ではただの端切れ布。しかし、それだけにはとどまらない時間の積み重ねが、これには秘められているはずだ。
老爺は小さく息を吐くと、両目を閉じて二言、三言呟き、続いておもむろに瞼を持ち上げた。
その眼球には、無数の幾何学模様が折り重なった複雑な紋様が浮かび上がっている。
過去視の魔眼。
正確には個人の異能に属する現象だが、媒介となる人や物を通して過去の光景を見通す魔術の一つとされている。
魔眼を発動した老爺は、どこか茫洋とした眼差しで刺繍をためつすがめつしていたが、すぐに残念そうに首を横に振った。
「駄目じゃな。こいつの持ち主につながる過去は、真っ暗で一歩たりとも見通せん。よほど念入りに因果の切り離しを施したとみえる」
「……くそっ」
「とはいえ、視えたものが皆無というわけじゃあないぞ。毟り取られた時に術式の綻びができたらしくてのう。それ以降の光景ならば、はっきりと読み取れたわい」
「!! 犯人はどんな奴だったんだ!?」
勢い込むカズヤ。しかし老爺は、再び申し訳なさそうに顔を伏せた。
「すまんが正体を特定できるだけのものは見つけられなんだ。ローブを深くかぶっておって、男か女かも判断できん。同じ格好をした者が複数おったのは視えたのじゃが……儂の過去視では、光景は追えても音や匂いは伝わらんのじゃよ」
「つまり、結局は手掛かり無しってわけか……」
老爺の異能に大きな期待を寄せていたのだろう。カズヤは取り繕う余裕すらなく肩を落とす。
だが、諦めるには少々早かった。
「まあ待て。立ち去る前に犯人が一度だけ手帳を確認しよってな。そこに書いてある内容じゃったら、ばっちり見通せたぞ」
「本当かっ!?」
「ああ、生憎と儂には読めん文字もあったが……こいつじゃ」
老爺は両手で左右の眼を覆い隠す。すると八つの単語が、カズヤの目の前に浮かび上がってきた。
一部だけではあるものの、老爺の視界が共有されたのだ。
それぞれ異なる言語で記述された単語はどうやらリストのようで、上から順番に整然と並べられている。そのうち幾つかには、取り消し線が引かれていた。
「どうじゃ、少しは役に立ったかの?」
「ああ、お陰で連中の次の狙いが分かったよ」
「ほう、さよか。随分と簡単に見抜けたのじゃな」
同じリストを眺めても老爺には閃きが降りて来なかったようで、しきりに首をひねっている。
どこか和むその仕種に、カズヤは小さく苦笑した。
「世捨て人の爺さんでも聞いたことくらいはあるだろ。五年前、世界中で一斉に八つの異界領域──ダンジョンが、魔術師でもない一般人に発見されたって話。ここに書いてあるのは、そのダンジョンが出現した地名なんだよ」
「そうじゃったか。つまり名前の消されていないダンジョンこそ、奴等の次の狙いと考えられそうじゃな。して、それはいずこじゃ?」
老爺の質問に、カズヤは逸る気持ちを抑え込み、かえって静かに答える。
「何の因果か、俺の故郷だよ。日本の首都、東京。新宿迷宮だ」
一見すると冷静さを保っているように見えたが、食い入るようにリストを睨むカズヤの表情は、さながら追うべき獲物を見定めた猟犬のようであった。
新作始めました。
一章分(十万字)くらいはストックがあるので、そこまでは毎日投稿します。