田舎道
この盆休み、私は滋賀の親戚を訪ねてみた。
二日程のんびりして帰るつもりだったのが、大雨によって電車が止まり、仕方なくもう一泊することとなった。
生物学だの哲学だのの本を読んでいたのだが、窓の外の騒然たる豪雨を眺めていると、ふと外に出てみたくなった。
大叔父に断りを入れて玄関に出たところ、雨はぴたりと止んだので、これ幸いとばかりに折りたたみ傘を持って草履で歩き出した。
集落を抜けるとだだっ広い田園が広がり、視界が何処までも続いているようであった。遠く三上山が雨か霧に煙って、私の足下から広がる田畑はそのすぐ近くまで延々と続いていた。世界とはこんなにも広かったのか、などと思いながら歩を進めると、水浸しになった草木の青々とした生命力にはっとしたりなぞした。十メートル先も見えぬ程に打ちつけたあの雨に、この草木達はただ蕭然と抗い続けたのだろう。
自然ともの言わぬ生命との苛烈な闘いのあとを、私は新鮮な心持ちで歩いたのだった。
コンビニに寄って煙草を買い、プカプカふかしながらまた歩き始めた私の上に、また雨が挑んできた。その勢いは次第に増し、あっという間に視界は霞みはじめた。
ただ漫然と広がる雨雲と、足下より四方へ延びてゆく田園の間に如何程か想像もつかない量の水が落ちている。それは狭間にある私などとは関係もなしに続くのだ。なんとなく、この雨雲と雨と地面とに挟まれて押し潰されるんじゃないかと云う気持ちが起こって、得も言えぬ不安に駆られはじめた。
都会で暮していると忘れがちなのだが、いつだって私はそんな狭間で力なくゆらゆら揺蕩っているのである。
右を見ても左を見ても人間の造った無機物に溢れた都会の中で、これ程までに自分をちっぽけに思ったことはなかった。むしろ、似たり寄ったりの人間がどこからともなくわらわらと湧いて、コンクリートの箱庭を這いずり回るのを見ていると、どこか安心感のようなものを得ていたようにも思う。
これ程までに巨大な自然の営みが運行している、それをただ呆然と眺める歩くことしかできない私の小ささが、この時はじめてこの身を襲ったのだった。
ひとりぼっちで、延々と続く田園を歩いているとその不安は次第に姿を変えはじめた。
私は小さい。この雲や雨や地平に比べるとあるかなきかというほどに小さいのだ。しかし、私は確かにここに居る。途轍もなく巨大な自然の営みの中で、確かに私は居る。そんな確信めいた意識が、ふつふつと湧いてくるのを感じた。
風が吹くように、雨が降り落ちるように、水が流れるように、稲穂が揺れるように、私は呼吸して、何かを感じている。圧倒の最中にあって、私は自然と共にあるのだということを思った。この世界からすると、私の存在など砂利の一粒と同じだろう。だが砂利の一粒も確実に存在し、私はそれと共にある。雨粒と共にあり、稲穂と共にあり、風と共にある。
私の意識が、この薄暗い雨の田園を翔けるように思われた。
気の赴くままに私は歩き、そして道に迷った。携帯も持たずにローライ35だけを首から下げて出てきたものだから、途方に暮れてしまった。どこもかしこも似たような景色で、この雨もとても止みそうにはない。
ぼんやり立ち尽くしていても埒が明かないので、私はまた歩き始めた。いつになるかは分からないが、しかしちゃんと家に着けるという確信が何故かあったのである。
車に水を引っ掛けられたり水溜りを踏んでしまったりと、困難は幾らかあったが、私はとても清々しい心持ちであった。
三時間程歩いて漸く家に辿り着いた。途中色々のことを考えたり感じたりしていたのだが、まるでうたた寝の夢のようにすっかり覚えていない。だがまたうたた寝のように、ふわふわと心地よかった。
その夜、床に入ってうつらうつらしている私の頭上で何やら声がした。外のビニールハウスで眠っていたらしい飼い猫が、網戸を開けよと促しているのだった。
戸を開けてやると猫は滑るように台所の方へと消えていった。しかし、私がまた床に就くと猫は戻ってきて、私に何かを促した。付いて行くと空っぽの餌入れがあった。ふむ、餌を入れよとのことだろう、キャットフードの袋に手を掛けようとすると、猫は私の脚にすり寄って、なごなご言っている。元々私は四足の動物はあまり好きではないのだが、この愛らしい生態を暫し観察していようという気になった。
私が来てからというもの、声を掛けても撫でようとしても、ぷいと何処かへ行ってしまってそれきり帰って来ない猫だったが、なるほど、折によってはこういう場合もあるものかと思っていた。その矢先だった。突然私の左足の甲をガブリとやったのだ。深夜の静まり返った家の台所で、私は声にならぬ悲鳴をあげて悶絶した。
すぐさま餌を与えて風呂場へ駆け込んだ。水を流すとじわりと血が流れていった。その様を眺めながら、人間とは自分が思っている程強くもないし利口でもないものだな、と思ってみりした。
しかし、非情にも思えるこの世の摂理に於いて、これ程単純なものはなかろう。
支配するべからず、共にあるべし。
床に入ってまだ痛む足の甲を思いながら、私は生きている心地がした。
翌朝、私とひとつかふたつ年下の、家の娘が私の足を見て怪訝そうに訊ねた。私は事の顛末を話し「久しぶりに自分が生きている心地がしたもんだよ。」というと、分かったか分からないような微笑を残して、仕事に出掛けていった。