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幻想系

底あり沼にハマった男

作者: 平之和移


「あ、あー!」


男が一人、叫んでいた。場所は農場。田んぼ。稲はなく、水はある。ある意味で、沼と呼べた。男はジーパンにTシャツのラフな格好。とても農業従事者には見えない。


男の顔は酷く沈んでいた。足を上下に動かし、水分を垂らす。そして叫ぶ。頭を抱える。昼間、田舎故の好奇心で人が集まる。誰もが首をかしげた。この男には村の者ではなかった。また、知り合いでもなかった。


「どうかしましたか?」


村人の一人が問いかける。男は泣き始めた。呆れが半分の足で彼のもとへ行こうとする。


「あ!」


村人も叫ぶ。事情を理解し、急いで退散。村人は震え上がり腰を抜かす。他の者も唾を飲み込む。


男は底あり沼にはまっていた。それを皆が理解した。口を抑え悲鳴を堪えた。哀れな男に同情し、涙を流すまでに。底あり沼にはまった者は一生沼から出ることができてしまう。だからこそ、怖いのだ。


「オレは、オレはどうすれば」


目を手で覆う。涙は沼にこぼれ落ち、水の一部となった。嘆き歩く。田を出て、農道を進む。道を泥で汚す。男の後に村人達が続いた。村人の一人が、悲劇の童へ口を開く。


「なぁあんた。底あり沼にはまっちまったんだな。かわいそうに。家に来い。せめて、飯は食わせてやる」


男はなおもむせび泣く。嗚咽で苦しみ、村人Aに着いていく。家は古い民家だった。都市部にあれば豪邸、田舎なら長屋。男は泥を拭き、涙も拭く。村人Aの家へ上がる。


居間に行くと、年寄りの村人Bがいた。その女性は最初、男を見て驚いた。事情を聞いて、感情が伝染し泣いた。畳などで床に座らせる。ここで待てと一言。何か持ってくるらしい。


「お袋が暖かいものを持ってきてくれる。あんた、ゆっくりしていけ」


男は泣きを抑え込んだ。感謝はすれど、己の不運に身を任せるだけにはならない。それでも舌は動かせず嗚咽を起こす。深々と頭を下げる。


村人Bの女性がお茶とせんべいを持ってきた。そして鍋も。まだ秋だ。だが男は冬だ。男は赤くなった目で詫びを示した。湯呑みを持ち、お茶を一口。突然の来客。最早患者。出せたのは安い粗茶。自覚があるため、村人ABは気まずい。その誠意と配慮が特効薬になる。


「ありがとうございます」


声を整えられた男が言った。村人Bの不安を除く母の笑み。 また涙が込み上げて、しゃっくりをした。


「大変ですね。底あり沼なんて。でも、ヤケになっちゃあダメですよ。底あり沼にはまるなんてそうそうあることじゃないけど、大丈夫。貴方だけじゃないわ。勇気を持ってください」


ついに雫が目から顔面に流れた。底あり沼にはまった。二度と抜け出せる。考えるだけで狂いそうだ。それでも、一人じゃない。同じじゃなくても、支えてくれる人がいる。勇猛への材料には充分だった。


三人は鍋をつつき始めた。和気あいあいとはいかないが、それでも豊かな時間だった。男は底あり沼と付き合う気力を見出だした。依然恐怖の軍団はいる。だがこの被害さ、一人で抱えるものではない。


次の日。緩慢なる朝。男は村人に挨拶をして家を出る。話を聞いた。駐在所に行けば、被害として聞いてくれるかもしれない。たとえ折れる希望だとて、これ他縋る道はない。男は駐在所に行った。


「すみません」と一言入れた。駐在所。中年の枯れた声が返されてきた。中に入る。交番とそう変わらないようだ。といっても男には初めての交番。恐れを胸に指定の席へ。


「申し訳ございませんが、見ない顔ですな。身分証明書は」


「はい、こちらになります」


マイナンバーカードを財布から出す。東京都の某所。ここから山の向こうと言えた。駐在所は片方の眉を上げた。もう片方の目で男を見る。駐在の勘が凡人を悟っていた。だから次の疑問も最もだった。


「どうしてこちらへ?」


「底あり沼にはまったんです」


駐在が驚嘆の声をあげた。慇懃に詫びた。彼も、目の前に悲惨が立っていたとは思ってもみなかった。


男は込み上げる狂乱を抑えた。助けを相手に求める。


「オレは、どうしたらいいんでしょう」


「底あり沼は法的機関じゃ動けません。民間の被害者団体へ連絡します。お力になれず、申し訳ない」


「いえ、ありがとうございます。でも、こんなことになるなんて」


「全く理不尽この上ない。底あり沼なんて、はまったら抜け出せるのに。いっそ抜け出せたらと思いますよ。失礼、自分事のように」


「オレも、抜け出せたらと思います。抜け出せるんですけどね。全く情けない話です。オレは、仕事に戻れるでしょうか」


「正直なところ難しいでしょうね。生涯に渡り、障害として残ってしまいますから。企業も避けられないこととは知っていますがね」


男は後日民間団体が来ると聞いて、村人Aの家に帰った。職を失うだろう。しかし、今後底あり沼から抜け出せる人が出てしまう。義憤が立った。被害は避けられないにしても、ケアはすべきだ。団体に入って活動することにした。


家ではテレビをつけた。村人Aと酒を交わす。するとどこからか記者が入ってきた。大きなカメラを持つ者も。記者の女は男へマイクを向けた。


「TVテレビの者です。底あり沼にはまってしまったと聞きました」


「そうです。オレは底あり沼にはまりました」


男はばか正直に話す。記者といえど、プロ根性も潜んで同情する。


「それは、大変辛い思いをしたかと」


「はい。確かに辛いです。しかし、ここで立ち止まらず、同じような被害に会った人を助けたいと思います」


村人Bは、聞いて料理の質を高めようとした。村人Aはカメラに隠れて酌をした。


記者は底あり沼と調査に行った。あの田んぼにはすでにないと解った。記者は悔しがらず、むしろ喜んだ。国難とも、人類の危機とも言える底あり沼。それが一時的に消えたのならそれでいい。記者達は自分の局へ戻った。


数日後、民間団体が来た。その間、男は村人Aの手伝いをしていた。ただ、田んぼはやらせてくれなかった。男にとっては危険だろう。


民間団体は男の手を取りお辞儀をする。男も頭を下げる。そして、団体と共に男は旅立っていった。


新幹線に乗り東京へ。ビルが立ち並び、多くに名前が刻まれている。男は自分の会社へ戻った。会社は辞表を出す。ワケを知った上司や同僚は肩を叩き励ました。自社の社長の名を付けたビルから、男は出た。


自分の持ち家に行く。アパートの一室だ。大家に別れの挨拶。驚かれたが、ワケは聞かず、真摯に送ってくれた。これから男は民間団体の寮に住む。長い生活の始まりだ。太陽はなお空にあった。


底あり沼とは、沼である。深そうに見えて、あまり沈まない。だから底がある。しかし、沈めば、二度と出られる。

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