恋をするということは
グレイブ侯爵家のお邸は、王都の貴族街の南側に位置していて夜はとても静か。
私は二階の客室を借りていて、夜はそこで一人のんびりと空を見上げて過ごしていた。
肩から羽織ったショールは、ほんの少しだけ肌寒い夏の夜にちょうどいい。
ラウルのお母様が譲ってくれたものだ。
しかも胸には、アメジストのペンダントが光っている。これもラウルのお母様が「お嫁さんになる人のために」と何年も前にオーダーして作らせてあったものらしい。
ありがたくいただいてしまった。
こんな私を気に入ってくれて、とてもありがたいと思う。会うまでは不安だったから。
温かいレモンティーを飲みながら、窓際の小さなテーブルで一人物思いに耽る。
女神様から転生してと言われたときの記憶は、もうかなり薄れている。21年前のことなんだから当然だ。
母の病を加護で治し、お師様と出会い、エドフォード様を治療して。
今世でようやく幸せになろうと思ったところから、まさかのバツ2。しかもどっちもスピード離縁。
それなのに今はラウルと3度目の結婚を控えているのだから、人生は何があるかわからない。
ラウルと一緒なら、今度こそ幸せになれる。
そう思っているのは本当。けれど、そんな思いと同じくらい実は不安もある。
私には普通の幸せなんて訪れないんじゃないかって、そんな不安は胸の奥にずっと根を張っていた。
『この毒婦め』
王城で会ったイズドール卿の言葉がふと頭に浮かぶ。面と向かって言われると、さすがに傷つくなぁなんて……。
あぁ、ダメだダメだ!
ラウルの家族に認めてもらったんだから、前向きに考えよう。
過去なんて振り返っちゃダメ。何度もそう思いなおすけれど、客人という立場でやることがないと嫌なことばかりが頭に浮かぶ。
私は頬杖をつき、何度目かわからないため息を漏らした。
すると、すでに私室へ戻ったと思っていたラウルが顔を見せる。
ーーコンコン。
扉を開けると、あからさまに嫌そうな顔をされた。
「いくら安全だとわかっていても、相手を確認もせずに扉を開けるな」
彼が言わんとすることはわかるけれど、ラウルの実家でどんな脅威があるというのだろう。
「そうね、気をつけるわ」
私は曖昧に返事をして、彼を部屋に招き入れた。
ラウルの分のお茶を入れると、テーブルの上にそれを置く。
「リディア」
「ん?何?」
真向かいに座ろうとしたら、手首を掴まれて引き寄せられた。
「ちょっ……!?」
彼の膝の上に座らされ、私は絶句する。
「こうすれば逃げられないと思って」
「私がどこへ逃げるっていうの?」
彼が真剣にそんなことを言うから、私はつい笑ってしまう。ドキドキと胸が高鳴り、私は無言で目を伏せた。
ラウルは私の髪を撫でながら、なぜか「すまなかった」と告げる。
何を謝られているのかわからず、私は彼の瞳を見つめた。
「色々と、嫌な思いをさせたのではと思って」
離縁について聞かれたことかな?
私は静かに首を横に振り、謝罪はいらないと答える。
「リディアの傷を広げるようなことは、したくなかった」
「大げさね」
そう言って笑うけれど、とても笑みとはいえない表情だろう。
気にしていない、と言い続けて、気にならないと自分でも思い込んでいたけれど、やはり塵も積もれば山となるというもので。
私は自分の心の傷に、今になって気づかされてしまっていた。
離縁は、どう考えても相手が悪い。仕方がなかった。
理屈ではわかっていても、心が追いつかない。
好きでもない相手と結婚して、愛情も育たぬうちに別れただけ。たったそれだけのことなのに、自分に価値がないと突き付けられたようで心の中には黒い靄が渦巻いている。
こういうのは時間が解決してくれるってわかっているけれど、まだ数か月しか経っていないから私の心はずっともやもやを押し込めたままだったのだ。
ラウルは私の心の中を見通しているかのように、優しく接してくれる。
「すぐには切り替えられないだろう。無理しなくていい。つらいと言っていい」
そんなことを言われると、甘えてしまいそうになる。前世も今世も、一人で立てなくなるのは嫌だと思っているのに。
強くありたい。
そう思うのに、優しくされると自分と弱さを感じてしまう。
「2度の離縁の分も、俺が君を愛すから」
低く穏やかな声が、私の中に染み入ってくる。喉が痛くて、大きく息を吸ったけれどどうにもならなくて。
とうとう涙腺が決壊してしまった。
離縁してから1度も泣いていなかったのに、今になって哀しみが溶け出して溢れてくる。
どうして私だけ?
転生なんてしなければよかった。
いっそ何も知らず、ただのリディアとして生きられたらどれだけよかったか。
本当はずっとそう思っていた。
「ひっ……」
彼の肩に顔を埋め、柔らかなシャツを涙が濡らしていく。
大きな手が優しく何度も背中をさすってくれて、私が手を回してしがみつくと、泣き止むまで抱き締めてくれた。
「ごめ……なさ……。今はっ、ラウルのことが好きなのに、こんな……終わったことで泣いたりしてごめん」
そう言って謝ると、彼は私の身体をゆっくり離し、頬や唇にキスをした。
そして、憐れむでもなく、哀しむでもなく、ただ慈しむような目で見つめてくれた。
「過去と今は別なんだろう?俺は気にしていない。リディアがずっと過去に囚われたままでいる方が困る。怒りたいときに怒って、泣きたいときに泣いて、それでいい」
彼は皮の硬い指が私の頬を傷つけるのを恐れたのか、指の背や手の甲で涙を拭ってくれる。どこまでも優しいこの人。私のどこがよかったんだろうか、最大の謎だなと思った。
グズッと鼻をすする私を見て、彼は笑った。
「君が俺を支えてくれたように、俺も君を支えたい」
「ラウル……」
「亡くなった2人の夫の分も、リディアを愛していく」
「いや、何を勝手に殺してるのよ。死んでいないわ」
「どっちでもよくないか?」
「それもそうね」
社会的には抹殺されたけれど、2人とも命は失っていないはず。
冗談を言うタイミングがおかしいような気もするけれど、おかげさまで何だか冷静になってきて涙が引っ込んでしまった。「はぁ」と息を吐くと、ラウルはまた私の唇に触れる。
「ねぇ」
「ん?」
「普通の婚約者って、こんなにキスをするものなの?」
普通がわからない。
これでいいのか、ふと気になって尋ねてしまった。
ラウルは少し視線を上に投げ、思案するフリだけして笑った。
「俺がリディアに触れたいんだ」
「あぁ、そう……」
「不満か?」
改める気はないくせに、私が嫌だと言えばきっと悲しむんだろう。何となくそれが想像できる。
「いいわ、幸せだから」
微笑みながらそう言うと、ラウルはうれしそうに目元を和ませた。
見ていると急激に愛おしいという思いがこみ上げてきて、彼の首元に腕を回してぎゅうっと抱きついてしまう。
「リディア?」
「…………離れたくない」
思わずそんな言葉が口から漏れる。
一度甘えてしまえば、私の依存心がむくむくと膨れ上がるのは容易いみたい。
だから嫌だったのに。
今さら思っても遅い。多分もう、私はラウルなしでは生きられない。
心の中で、女神様に尋ねた。
シナリオ通りではないけれど、あなたは満足ですか?と。
当然、返事はない。
「リディア、このまま一緒に寝るか」
「え?」
それって、まさかそういうことですか!?
動揺が顔に出ている私を見て、ラウルが笑った。
「何もしない。それこそ父に殺される」
それはそうだ。お父様にバレたら本当に殺されかねない。
「今日はリディアを一人にしたくない」
「ラウル」
「と言うのは口実で、俺が一緒にいたいんだ」
「え」
頬が熱くなり、私は手の甲を当てて必死で熱を取ろうとした。
こんな風に大事にされるのは、前世でも今世でも初めてだ。どうしていいかわからない。
余裕であしらえる大人の女になりたい!
「もう横になれ。疲れただろう?」
ラウルの中では、ここで眠るのは決定しているらしい。スッと私を抱き上げると、寝室へと連れて行く。
お、お姫様抱っこ……!
領主館で運ばれたときは、片腕で荷物みたいに小脇に抱えられたのに、今度はまさかのお姫様抱っこ!
顔を両手で覆い、一人で悶える。
ラウルは私をベッドに下ろすと、躊躇なく隣で横になった。
手を繋ぎ、寄り添って眠るなんてとてつもなく健全な関係である。
どうしよう。すごく寝にくい!
「おやすみ」
「お、おやすみなさい……」
この状況で眠れるっておかしくない!?
心の中で文句を言う私だったけれど、疲労のためにすぐに寝息を立ててしまうのだった。





